2013/12/20

理にかなう「数え年」…和枝さん、どこにも居るよね!?

もういくつ寝るとお正月♪いよいよ師走も押し詰まってきた。先日、何気なく「オイも再来年は還暦ばい」と食卓で口走ったら、早速手痛いしっぺ返しが前列正面から飛んで来た。

「だから何ね。赤いチャンチャンコば着て、悪友の皆さんから酒の肴にされるだけじゃろもん。アタシャ出んけんね」。声の主は他でもない家人だ。傍らでは爪楊枝をくわえたゴッドマザーが「フ~ン」。

「何ば言うとね、ただ単に、年齢の話しばしただけじゃろもん。なしてそがんつっかかっと?」と精一杯の反論。

と、相手方はすかさず「毎晩々々そがん飲んで、還暦まで生きとらすとやろかい?よかよかそん時にゃ棺桶の中に赤い帽子もチャンチャンコも入れてやるけん」とトドメを刺してきた。

来年のことを言えば鬼が笑うそうだが、年明けに還暦を迎えられるのは昭和29年生まれの方々。筆者より1つ年上(数え年で60歳)の人たちだ。

最近では、新聞の年号表記も〝西暦〟が普通で、年齢も〝満〟で表される。特段、違和感などないのだが、「元号は独立国家の証し」との説があることを思えば、やや複雑でもある。

そうそう忘れていた。今日は「数え年」の話を書こうと思っていたのだった。その説によれば、生まれた時が1歳で、正月が来ると年齢が増していく。

若い頃は「何だか変な数え方だな~」という気がしないでもなかったが、誰しも生まれてくるまで1年近く母胎で育まれているのだから、「とても理にかなっている」と、最近では思えるようになってきた。

ところで、話は突然変わるが、現在放映中のNHKの連ドラ『ごちそうさん』が大方の予想に反して、高視聴率を維持しているそうだ。前回の『あまちゃん』が〝社会現象〟にまでなっていたので、てっきりその〝反動〟があるものとばかり予想していたのだが、なかなかどうして面白い。

立役者は「数え年」ならぬ、小姑&嫁いびり役の「和枝さん」だ。演じているのはキムラ緑子さん。数え年52歳。兵庫県淡路島(洲本市)生まれで、同志社女子大に学んだ才媛だ。

余程の核家族でない限り、大体どこの家にも「和枝さん」のような人はいる。筆者にとっては、家人も母もその妹たちも含めて「み~んな和枝さん」だが、これもまた例外であろう。

むか~し、島原記者クラブにSさんという〝出戻り記者〟がいた。島原からいったん他所の支局に出て舞い戻って来た人だ。そのSさんがさる方の所に再赴任の挨拶に伺った時の話。

「○○さん、○○新聞のSです。出戻って参りました」。すると、玄関に入るなり、何だが変な雰囲気が急に漂い出した。後で判ったことだが、出迎えてくれたのは、生まれたばかり・・・・・・・の「和枝さん」だったのだそうだ。チャンチャン!


2013/12/12

今日あるのは誰のお蔭…忘れまじ「井戸を掘った人」

先日、福岡から来た機械メーカーの人間と昼食を摂りにガレージ食堂(今川町)に行ったら、NHKの『ひるブラ』の中で小浜温泉が紹介されていた。

事前の情報を持ち併せていなかったのでちょっとだけ驚いたが、「あー、これは18日午後10時から放送されるBSドラマの前打ちだなぁ~」とすぐに合点がいった。

案の定、温泉熱を利用した「蒸し料理」などの後に登場したのが、今やすっかり有名になった「小浜チャンポン」の数々。画面で見ても、どれも美味そうだったので、当方も迷わず「チャンポン」を注文した。

筆者が頼んだのは「特製Wチャンポン」。美味いだけでなく、ボリューム感も抜群できっちりと平らげた。これで780円とは安過ぎないか、平田さん?

さて、全国人気となった「小浜チャンポン」だが、当然、そこには〝仕掛人〟がいる。かく言う筆者自身も、何くれとなくお世話になっている方だ。

名前を明かすわけにはいかないが、この人のアイデアと企画力、そして行動力が無ければ、「温泉蒸し料理」も「小浜チャンポン」も日の目を見ることはなかったろう。言うなれば、「井戸を掘った人」(大恩人)だ。

もう随分と前にここでも取り上げたことがあるが、「チャンポン」を最初に考案したのは「四海楼」創始者の故・陳平順さんだ。

陳さんは中国・福建省の出身で、長崎に渡ってきた留学生の余りの食糧事情の悪さを見るに見かねて、この料理を思い立った、とか。ある本で読んだが、「チャンポン」とは、福建語で「飯は食べましたか?」という意味だそうだ。

当然、今や雲仙市を代表する〝広告塔〟として、その存在が知れ渡った「ちゃんぽん番長」こと林田真明さんは知悉されていることとは想うが、そうした「井戸を掘った方々」のことはゆめゆめお忘れなさいませぬように!

ところで、島原新聞社ではこのほど、新たにドイツ製の製版機(CTP)を導入した。カメラや印刷に詳しい方ならその名をご存じのはすだが、「アグファ・ゲバルト」という歴史ある精密メーカーの製品だ。

値段の話はともかく(実は〝目ん玉〟が飛び出るほど高い!)、写真等の試し刷りを見た段階で「さすがにアグファだけのことはある」と唸った。残念ながら、現時点では一挙にカラー化まではいかないが、メドが立ったのは事実である。

そこで、改めて自分自身に言い聞かせていることがある。他でもない「井戸を掘った人」の話だ。時代が移り変わってIT・機械化が否応なく進む。ただ、その傍らでは、永年にわたって新聞事業を支えてきた無数の「鉛の活字群」が我々の動きを厳しい視線で見守っているのだ。

ヌカ歓びしている場合なんかではない。稼がんば!師も走っている。ムコ殿も走り出さなきゃ!?


2013/12/06

横田町長の思い出…「山田太郎」ってWho?

3日、元深江町長の横田幸信さん(72歳)が亡くなった。まずもって心からお悔やみを申し上げる次第だが、4日午後7時からの通夜式の弔問客の多さには度肝を抜かれた。とにかく〝超満員〟だった。

喪主を務めたのは長男で㈲ワイエヌコンサル代表の横田耕詞さん。その耕詞さんがいつだったか、こんなことを言っていた―。

〈普通『家族そろっての外食』と言えば、子どもにとっては楽しみではないですか。でも、ボクの場合は違っていました〉

〈食事を済ませて車で家路につくと、必ずある『儀式』が待ち受けていました。それは国道57号の水無川辺りから始まるランニングのことです。父は有無を言わせず、大野木場の自宅まで走ることを強制したのです〉

耕詞さんが余りにも真面目な表情で幼い頃の思い出を訥々と語るものだから、余計におかしくて腹を抱えて大笑いしたことを覚えている。まだ、つい半年ほど前のことだ。

恐らく父親の思いとしては、「人間、たらふく飯を食っているだけではダメだ。しっかり体を動かして、頭も鍛えよ!」と伝えたかったのだろう。耕詞さん自身、そのことは良く分かっているはずだ。

閑話休題。横田町長で思い出すのは、就任時期が弊社の放送サービス開始とほぼ同じだったこと(平成3年5月)。つまり、双方ともスタート1カ月後には普賢岳の噴火災害に苛まれてしまったという事実だ。

通夜の会場で奥様もおっしゃっていたが、災害が激しかった頃は、役場庁舎に50日間ぶっ続けで寝泊りして〝陣頭指揮〟に当たっていた、という。

体力には相当自信があったようで、「荷物を担がせたら誰にも負けませんよ!」が当時の口癖。また大の牛乳好きとかで、弁当のご飯にかけて召し上がっていたという逸話もある。

個人的に印象深いのは「山田太郎」のこと。確か2期目の途中だったかと思うが、激務がたたって少し体調をくずされた時期があった。

折しもその年は、弊社が国の補助事業を使って深江町への延伸計画を立てていた時期で、「是が非でも同じ被災地の深江町からも出資を取りつけよう」と必死で行方を探したが、周囲にはきつく〝緘口令〟がしかれていた。

それでも筆者は諦めなかった。そしてついに入院先を探し当て、不躾にも押しかけた。その病室のネームプレートが「山田太郎」だったのである。

その時、横田町長は苦笑を浮かべながら「よくここが判ったね…」とだけおっしゃった。枕元には当時の高田知事のお見舞いの花。筆者は「いける!」と実感、その通りの運びとなった。

噴火災害から22年余。筆者個人としてもまた一人、大切な恩人を亡くしてしまった。合掌。


2013/12/01

本当に廃止でいいの?…「東京寮」もっと考えよう

長崎新聞の〝尻馬〟に乗るつもりなどさらさらないが、島原市の東京学生寮(武蔵野市、定員23人)が来年3月末をもって廃止することを年度途中で決めた島原市教育委員会の姿勢には、筆者自身も首をひねる。〝同感〟である。

既報の通り、その方針は去る14日の市議会教育厚生委員会で唐突に切り出され、委員諸氏からも多くの疑問の声が上がった、とか。

市教委の説明を集約すれば、「老朽化に伴う耐震上の観点から、入寮者の命を守ることを最優先にした」ということだろう。至極もっともな考えであり、その点で異論はない。

また、年間の維持管理費(約1千200万円)など財政的な事情もあろう。そこも納得する。ただ、「苦渋の決断だった」とする教育長の弁明は必ずしも額面通りには受け止められない。

筆者は元々教育畑ではないが、「教育は百年の計」でもって取り組むべきだ、と常々思っている。その伝でいくと、今の市教委の考え方には『米百俵』(長岡藩)に通じるような理念がない。「事なかれ主義」に映って仕方がないのだ。

一番頭にきたのは「関東方面への進学者が今後も確実に減少する」と決めつけたくだり。ここ数年来のデータを見た上での分析であろうが、大人の勝手な都合や状況判断で、子どもの将来の夢や希望に足枷をはめていいものか。

教育の基本は「機会均等」。本人が望み、精一杯努力しようとしているのだとすれば、その道の可能性を広げてあげるのが親(家族)や教育関係者に課せられた〝使命〟である。

視座を変えるなら、安い寮費(月額6千300円)だからこそ「苦学の道」だって選べる。今はどうか知らないが、吉祥寺の商店街にある「小ざさ」という超人気の和菓子店のアルバイトは歴代島原寮生の〝専売特許〟だったはずだ。

間もなく12月定例市議会が始まるので、その中で色んな論議も交わされるだろう。その前に少しだけ〝提案〟をしたい―。

①市民のみならず出身者も含めたところで、今後の資金面での対応も視野に入れて、もっと幅広で前向きなアイデアが出せないものか?筆者が知っている限りでも、島原市出身で東京を拠点に各界で活躍している方が沢山おられる。その中には寮のOBも多い。

②入寮対象者を島原半島三市に広げたらどうか?この際、既存の行政枠を乗り越えて、「オール島原半島」での取り組みとすれば案外面白いのかも…。ちなみに実現すれば、人口規模でほぼ匹敵する諫早市の「諫早修学館」(文京区、29室、東京事務所兼務)のような複合運営も可能なのでは。HPによると、月の家賃は1万3千円だそうだ。

最後に関東大震災(1923年)の後に現在の東京都の基盤を造り上げた後藤新平の言葉を引く。「財を遺すは下、業を遺すは中、人を遺すは上なり」