2013/07/28

長池さんへの回答…朝日新聞・題字の不思議

けたたましい「蝉時雨」で目を覚ます。嗚呼、今日もまた日照りが続くのか…といささかウンザリするが、そう言えば、最近余り「アブラゼミ」を見なくなった気がする。

庭に出てみると、ほとんが「クマゼミ」。いや、全てと言ってよいほどの占有率だ。時季の問題か?「ヒグラシ」のシーズンはもう少し先のことだし…。

そんな他愛もないことを想いながら、ふとそのついでに「雨が降ってもセミは鳴くのだろうか?」という素朴な疑問がわいてきたが、まだ〝確認〟までには至っていない。雨よ、早く降ってくれ!

その〝確認〟の件で思い出した。有家町・浦川酒造の長池孜さんから数日前に、走り書きのファックスが届いていた。「朝日新聞の『新』という字は、なぜ島原新聞の『新』と違うのか?」とのお便りだった。

その手の話は以前にも何かの本で読んだことがあったが、当節は「本」はなくても「インターネット」という便利な検索システムがある。

そこに全幅の信頼を置いていいのかどうかは、それこそより綿密な〝確認作業〟を要するが、「取りあえず…」と言うことで、自前のパソコンに向かわせていただいた。

で、検索でヒットした「ネット情報」によれば、「朝日新聞」(題字)の「新」の字は、偏の部分の「立」の下の「木」が、「未」のように描かれている。確かにそうだ。

恐らく、長池さんはその点が気になってファックスを下さったのだろうが、「YAHOO知恵袋」の解説によれば、その四文字全てが1879年の創刊当時に、唐(中国)の書家の筆跡を元に「作字」されたものだという。

したがって、それは「意匠登録」。すなわち「デザイン」の一種との説明が施されている。

折角だから、他の文字の有り様を見て見ると、「朝」の字の偏も普通の表記と異なっている。「日」の上の「十」の部分が「亠」で、「日」の下の「十」がまるで「丁」のイタリック体のようなのだ。

さらに余談だが、「新聞」は通常のローマ字表記では「SHINBUN」。だが、朝日新聞の場合は「SHIMBUN」とされている。おっと!読売新聞もそうだった。

さてさて、我が社はどうか?島原新聞の現在の題字は、朝日新聞の記者も兼務していた2代目社長の清水治代が、古くから親しい間柄であった北村西望さんに昭和30年代初頭に書いて貰ったものだそうだ。

写真は朝日新聞・西部本社版の題字。ご納得いただけました、長池さん?


2013/07/26

思わぬ人とバッタリ…えっ、馬場代議士元秘書!?

「まもるさん、まもるさん」。声の主は「たろうさん」だった。

夕方5時過ぎ、鹿児島中央駅前の広場を歩いていたら、どこからともなく自分の名前が呼ばれているような気がした。振り返ってみると、以前、毎日新聞島原支局長を務めていた山崎太郎さんではないか。

「どうしたんです、鹿児島まで。国際火山学会の取材ですか?」。「別の案件でちょっと…」などと答えたが、余りにも唐突だったので、シドロモドロ口調になってしまっていた。

山崎さんは現在、鹿児島支局に勤務している、とのこと。少し前に九州版に署名入りで掲載されていた「幕末志士写真」(フルベッキ関連)の記事のことなど尋ねたかったが、打合せの時刻が迫っていたので、そのまま失礼した。

さて、鹿児島と言えば、何はさておいても「西郷どん」(西郷隆盛)である。出張の前に偶然、内村鑑三著の『代表的日本人』(岩波文庫)を読んでいたので、今回は特に気になっていた。

その本に取り上げられているのは西郷を筆頭に上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人の各氏。いずれもそれぞれの分野で確かな足跡を記した、文字通りの〝代表的人物〟である。

何かで読んだことがあるが、日経新聞の政治記者として活躍した田勢たせ康弘さん(現在は同紙客員コラムニスト)がこんなことを言っていた。

「日本における一番好きな政治家は西郷隆盛だ。なぜなら、言動がすべて一致しているから」と。

参院選挙明けの余韻冷めやらぬ中だっただけに、大通りに面した一角に屹立するその巨像を、熱い思いで見上げてきた。

なお余談ではあるが、鷹山公(旧米沢藩主)は家臣から「公娼制度の是非」を問われ、即座に否定したという。この辺りが現大阪市長との最大の違いか!?

話は相前後するが、打合せ後の懇親会で、先般「総連ビル」の買収騒ぎで世間の耳目を集めた〝炎の行者〟こと池口恵観・大僧正のことが話題に上った。

切り出したのは筆者の方。これまた偶々たまたま、出張前に読んでいた文芸春秋8月号の中で、師が若かりし頃に島原半島(南串山)出身の馬場元治代議士の秘書をしていた(?)、という記事を読んでいたからだ。

師は政界のみならずスポーツ界等々でも〝超大物〟の熱烈な信者を持つことで知られるが、その晩に聞いた〝裏話〟は殊更に面白かった。と言うより、これが「薩摩」という土地が持つ底知れぬエネルギーなのだろうか!!

帰途、立ち寄った国際会議の会場では、九大地震火山観測研究センターの松島健先生のお世話でプレスカードをいただいが、掲示されている資料やポスターはほとんどが外国語表記。

何のことやらチンプンカンプン。ただ、桜島の活動が最近やけに活発化していることだけは判った。


2013/07/25

選挙明け鹿児島へ…歴史の闇に沈んだ「鬼池丸」

「偶然の一致」にしか過ぎないと思うが、弊紙に掲載されていた宮崎昌二郎さんの挿絵入りエッセイ「口之津―鬼池航路」を読みながら、思わず手元にあるカメラのデータを呼び戻していた。

…参院選投票日となった先の日曜日に、早崎の「瀬詰灯台」で撮ったものだ。晴天、ベタ凪の極めて緩慢な気象条件であったが、早崎海峡の潮流はまるで〝大河の流れ〟のようであった。宮崎さんによれば、そのスピードは時速10㌔ほどもあるそうだ。

この場所には噴火災害当時からよく訪れていた。相方は西川清人さん(故人・有明町)で、大概は真夜中。三脚を構えて、レリーズをセットし、沖合をゆく船の軌跡と星の流れをゆっくりと追っていた。

中には、我ながらよく撮れたよなぁ!と感心するような一枚もあったが、今では散逸してしまって何処に行ったのやら…。

そんなことより、宮崎さんの文中に出てくる「鬼池丸」の沈没事故(昭和14年)の記述に仰天した。数日前、無心で覗いていたファインダの先の海で、38名もの犠牲者が出ていたとは!!

しかも、その天草行きの船に乗っていた浪花節語りの一行のリーダーが、あの三波春夫さんと並び称される国民的大演歌歌手の一人、村田英雄さんの父親(虎丸さん)だったとは!!

村田さんの生家は佐賀県相知おうち町(現唐津市)にある。とは言っても、我々長崎県人にはなじみが薄い。筆者がなぜ知っているかと言うと、野暮用等で唐津市街に行く途中で、幾度か同記念館の看板を見かけたことがある。ただ、それだけのことだ。

しかし、いかに戦前の出来事とはいえ、どうしてそれほどまでの〝大事故〟が人々の記憶から消え去ってしまっているのか?それとも〝不吉な出来事〟として、意図的に隠しているのだろうか?潮流は何も教えてくれない。

話はまったく変わるが、参院選挙明けの月曜日、FM放送関係の所用で鹿児島市内に車で出かけた。ほぼ徹夜状態だったので、運転は往路、復路とも同行の社員に任せた。

したがって、楽チンな出張ではあったが、傍らで一生懸命ハンドルを握っている人間がいるのに、なかなか眠れるものではない。

それでも空調のよく効いた車内に居ると、いつの間にやらウツラウツラ。「間もなく着きますよ」との声に起こされたのと同時に、「ドーン」という爆発音。桜島が噴煙を上げていた。〔
写真は車中から〕。


2013/07/22

アベノミクス効果いつ…選挙戦が面白くなくなった

参院選投票日の21日、島原半島は日射しこそ強かったものの、早くも初秋の到来を想わせるかのような穏やかな天候に恵まれた。まだ、夏休み初日だと言うのに…。

筆者は投票を済ませたその足で、買ったばかりのカメラを担いで各地を回った。最初の撮影ポイントは雲仙・南島原両市境の海岸線に屹立する、通称「岸信介岩」。

望遠レンズのファインダー越しにピントを合わせると、ジオパークの見学者と思しきグループがその周辺を巡っていた=写真

岸信介(元総理・1896~1987)と言えば、現総理・安倍晋三衆議院議員の母方の祖父で、島原とも縁の深かった、戦後を代表する〝大物政治家〟の一人として知られる。

遠目にその特徴ある「造形を」見ながら、間もなく悲願の「ねじれ解消」を果たすであろう現総理の「横顔」と重ね合わせて、ふと思った。主要公約である「アベノミクス」(経済政策)の我が地への波及効果はいつの日であろうか?

コバルトブルーに輝く橘湾を右手に見ながら、そのまま加津佐方面へ。景色は相変わらず美しい。

しかし、権田公園から眺める白砂青松の「野田浜」(海水浴場)に、まったくと言っていいほど人影がない。どうしたんだろう?波も静かなのに…。

訝しい思いで通り過ぎて「前浜」(同)へ。さすがにそこには多くの客がいて一安心。勢いをかって、そのまま「白浜」(同)に駆け込んだが、こちらも随分と期待外れの人出のようだった。

ハンドルを握りしめながら何故だろう?と考えた。そして得た結論はいとも簡単。「海開き(20日)の報道(新聞)があったのは前浜だけだった」から。

ことさらに報道の影響力を喧伝するつもりなど毛頭ないが、今次に限らず、各種選挙戦における事前調査と得票結果の相関関係を見比べてみれば、誰しも否定は出来まい。

ただ、一方で味気ない思いもぬぐえない。開票前から結果が判ってしまっているようで、あの選挙戦独特の〝ドキドキ感〟が無いに等しいのである。

こうした傾向はインターネット選挙が進めば進むほど、より顕著になることは明らかだ。果たして、それが良いことなのかどうか…。

そのうち「国民総背番号制」が定着すれば、わざわざ投票所まで足を運ばなくてもよくなるのでは?経費面では大きな〝節約〟にはなるのだろうが、何だかなぁ~。


2013/07/20

7か月経った古川市政…殻を破ってフルカラーに!!

古川隆三郎さん(57)が「島原市長に就任してから7か月が経過した」と、先日のとある集会で挨拶されていた。

ところで、読者の皆さんは、その機先を制するかのような〝検証記事〟を毎日新聞が今月8日付の紙面に掲載していたことをご存じだろうか?曰く、「見えぬ古川カラー」と。

当然のことだが、それに同調する向きもあろうし、一方で「もう少し様子を見なければ…」という考えをお持ちの方もあろう。

いずれが正しいのか、このボンクラ頭には判りかねるが、ダジャレ口調で言うなら、古川市長には「島原市を硬直化させている『古い殻』を打ち破ってほしい」と願う。と同時に、「随所に輝きのある『フルカラー』の街づくり」を一日も早く望みたい。

個々の政策については、我が社(島原新聞)にも記者クラブ詰めの記者がいるので、改めてその是非を問い直してみたい。

さて、ここから先は筆者の「独断」と「偏見」に満ち満ちた〝独り言〟でしかないことを、まずはお断りした上で―。

藻の除去が完了して見違えるほど立派になった「白土湖」を眺めながらつくづく思う。1日の湧水量4万トン。歴史に名高い陥没湖。どれをとっても一級品の観光名所である。

だが、観光客が訪れる姿などとんと見かけることはないし、心ない市民によるタバコの吸殻や空缶のポイ捨て等々、誠にもって腹立たしい限りである。

先日は、藻の除去作業の様子をカメラに収めようと思って、スリッパ履きで大村ボートから無償で借りてきたというカッター船を追いかけているうちに、犬のフンを踏みつけていた。

知らずにそのまま家に帰ったら、家人から「クサ~ッ!」と大ひんしゅく。「運が付いてよかろうもん」と言い訳をしたが、正直言って虚しかった。

市政は最も身近に住民生活に接するのが仕事なので、「あれも!これも!」という要望が多数寄せられていることだろう。その裾野の広がりは、我々一般市民が想っている範囲を大きく越えているかも知れない。

そこで役所・市民双方に求められるのは「一つになって、住みよい街を創っていこう!」という発想と実践力に他ならない。よく耳にする「協働」の精神とでも言おうか…。

筆者は「シバザクラ公園」の草むしりをしながら時々考える。茫漠たる荒野にはびこる雑草。放置すれば、その時点で全ては無に帰す。でも、諦めずに続ければ、いずれは綺麗な花が咲く。

島原は元々、磨けば光る「美(うま)し街」だ。市政云々を論じるより前に、個々の市民が取り組むべきことはまだ山ほどある。市長職とは、国や県との関係を見据えた上で、市民・職員の〝潜在能力〟を引き出しながら施策を進めていく、「総合プロデューサー」のような役割ではなかろうか。


2013/07/19

油断大敵の謂れは?…1200年続く「不滅の法灯」

炎天下での参議院選挙もいよいよ最終コーナー。各種世論調査では与党の優勢が伝えられているが、最後に蓋を開けてみないとわからないのが〝選挙〟というもの。

こういう局面でよく使われるのが「油断大敵・・・・」という四文字熟語。とりたてて突飛な言い回しという気はしないが、はて一体、その〝語源〟は?

学研から出ている「故事ことわざ辞典」によれば、諸説あるそうだ。そのまま引く。

【その①】昔、中国のある王が家来に油入りの鉢を持たせ、気をゆるめて一滴でもこぼしたら命を断つ、といった説。【その②】ゆったりする意の「寛(ゆた)に」から転じた、という説。ちなみに英語では「安心は最大の敵」と訳す。

どれも尤(もっと)もらしいと言えば尤もらしい解説だが、以前、とある識者より聴いた、「より尤もらしい話・・・・・・・・」を思い出したので、それに関するネット情報を覗いてみた。

場所は最澄が開いた天台宗の総本山、比叡山延暦寺。そこの「根本中堂」という所に、1200年前に最澄が灯したとされる「不滅の法灯」が今も途絶えることなく明かりを放っているのだそうだ。

使われている油は、もちろん「石油」ではなく「菜種油」。そして、最澄が遺しているのは、「明(あき)らけく 後(のち)の仏の 御世までも 光伝へよ 法のともしび」という慈愛に満ちた和歌一首。

ただ、そうした最澄の思いを知ってか知らずか、分灯された山形県の「立石寺」(通称・山寺)ともども一度ずつ消えたことがある、という。

いずれも、戦国時代の出来事。延暦寺は1571年(元亀2年)、歴史に名高い織田信長による「叡山焼き討ち」で。

一方、「立石寺」のそれは、さらに遡ること50年。1521年(大永元年)に、同寺が伊達氏に加担したことに怒った最上氏の軍勢によって消失させられた、ということだ。

このネット上の著者によれば、さらにもう数か所、分灯されている寺院があるとか…。そのうちの1つが、世界遺産にも登録されている岩手県の中尊寺なのだそうだ。

同著者はこうした事実を枕にふって、「リスク分散」の大切さを説いているが、まあ、さはさりとて、「決して灯を消してはならない」として日夜緊張を強いられている修行僧の方々の〝ご労苦〟の程に、ただただ頭が下がる。

さて、選挙戦も余すところ後2日。各候補・各陣営、悲願の議席獲得を目指して、大いに情熱を燃やして最後の追い込みに入られていることだろう。

互いの信念同士のぶつかり合いだから「それでよし」としても、当選後にも「その灯」を消すことがないよう〝老婆心〟ながら今から望んでおきたい。おっと、筆者の〝大敵〟は我が家の〝老婆〟であった!?


2013/07/18

手紙で思い出した!!…鐘ヶ江さんは“帝国Hの顔”

17日付け「こぼれ話」のコーナーに、元島原市長の鐘ヶ江管一さん(82)が10年前に保子夫人ともども〝自分宛〟に出した手紙が約束通り送付されたとの記事が出ていて、思わずニンマリした。

詳しくは同記事を読んでいただくとして、いささかなりとも鐘ヶ江さんと投凾元の「帝国ホテル」との〝関係〟を存知上げている身としては、つい拍手を送りたくなってしまうのである。

もうかれこれ10年以上も前の話。所用で総務省を訪ねるべく、霞が関界隈をウロウロ歩いている所で、バッタリと鐘ヶ江さんに出くわした。

「どこに行かすと?」と尋ねられて、「はぁ、総務省にちょっと…」などと戸惑っている筆者に対して一言―「私の後に付いて来んですか!」。その後は一切の〝検問〟もなく大臣室まで通された。当時の大臣は片山虎之助さんだった。

このことだけでも大感激したわけだが、その日の夕食まで「帝国ホテル」のレストランでご馳走になってしまった。同ホテルロビーは待ち合わせ場所として時々使わせてもらっているが、きちんとした食事をいただいたのは、後にも先にもこの時限り。

確か、あの時は予約なしの〝飛込み〟だったはずだが、鐘ヶ江さんはよほど〝常連〟のようで、レストランスタッフ全員が「ようこそ、鐘ヶ江様!」と温かく出迎えて下さった。

市長さん(今でも筆者はそう呼ぶ)、その節は大変お世話になりました。紙上を借りて、改めて心よりお礼を申し上げます!!

さて、所変わってお次は島根県・出雲市から届いた〝お手紙〟の話。頂戴したのは不肖、この私めである。

2週間ほど前、全国地域紙交流会が60年ぶりのご遷座で賑わう「出雲大社」のお膝元で開催された話題を取り上げたが、実はその時、筆者は〝大失態〟をやらかしたのである。

他でもない〝忘れ物〟だ。しかも、大事な商売道具の1つである「携帯用パソコン」をリムジンバスの中に置いてきてしまったから大変!!

気付いたのは自宅に辿りついてから。必死の思いでバス会社(一畑交通)に電話を入れて〝存在〟を確認、事無き得た。

感動はその先!お礼に一筆便を添えてカステラを贈ったのだが、すると今度はその時のバスの運転手さんから吃驚するような達筆のお手紙=写真=が届いたのだ!!健忘症(ほとんど病気だが…)もまんざら悪くはない!?


2013/07/17

進次郎、島原見参!!…政治を越えた“社会現象”

選挙戦でこれほどまでに〝熱狂〟を呼んだのはいつのことだろう?吉岡・本多の両新人が激突した平成4年の島原市長選以来だろうか。人気絶頂の頃の橋本龍太郎総理がやって来た時(平成5年)もすごかったけど…。

〝その場〟はいずれも大手広場。記者の勝手な類推だが、昨夜(15日)の規模と盛り上がりは恐らく過去を凌駕していたのではないか、と想う。主役は言わずと知れた、自民党青年局長の小泉進次郎衆議院議員(32)だ。

これまでの各種世論調査によれば、現政権政党の自民・公明で〝過半数〟を制するのは確実だと伝えられているが、果たして、その〝読み〟通りに事が運ぶのかどうか…。いずれにせよ間もなく〝大勢〟が判明する。

一夜明けて、毎火曜日に配達される朝日新聞社の週刊アエラ(7月22日号)に、その小泉氏の特集記事が組まれている。《方言にダジャレ 進次郎「成長日記」》との大見出し付きだ。

これまた記者の勝手な思い込みだが、(各地でもそうだろうが…)小泉氏がやって来るというだけで、その地域はにわかに活気立つ。それはもう選挙活動(政治)の範ちゅうを越えた、一種の〝社会現象〟のようなものだ。

しかしながら、氏は芸能人ではない。2度にわたる総選挙の洗礼を受けたれっきとした代議士である。その〝人気〟の秘訣は単なるルックスの良さばかりではない。また、三世という毛並みの良さに頼っている風でもない。

誤解を恐れずに言うなら(最近よく使うよなぁ~)、その最大の魅力は〝弁舌の爽やかさ〟に他ならない。相手が誰であろうと、筋を通すべき時はひるむことなく自説を率直に伝える気風の良さ!

恐らく、昨夜の自民党主催の街頭演説会に集まったのは同党の支持者ばかりでなかったはず。誰かがこう言っていた。「いずれ総理大臣になる人だから、今のうちに一目見ておこう!」と。

まあ、総理になることが出来るかどうかは判らないが、演説の巧みさは定評通りだった。アエラ誌でも紹介してあったように、まずはその地方の言葉(島原弁ではなかったが…)で聴衆の心を〝つかみ〟、その上で、国や地方が現在置かれた状況について歯切れよく分析を試みる。

時に厳しく、時に語りかけるように―。最大の争点となっている「ねじれ云々」についても、「我々が勝てば、もう国民の皆様に言い訳など出来なくなる」と、〝背水の陣〟で政治決戦の場に臨んでいることをさりげなく強調してみせた。

人気のすごさは壇上を降りてからさらに加速。ウンカのように押し寄せる老若男女を相手に少しも嫌なそぶりを見せることなく、握手に応じていた。「天は二物を与えることもあるのだ」と、実感した次第。


2013/07/14

「大仏さまの顔は…」…今が夏山のベストシーズン


夏の高校野球甲子園大会県予選(1・2回戦)の中継のために、本欄を明け渡してはや10日余り。すっかり歌を忘れたカナリア状態と相成っているが、その間に、例年より遥かに早い梅雨明け宣言もなされた(8日付)。

若い頃ヨーロッパにいて登山全般に詳しい松本仏壇店の松本正弘社長によれば、「梅雨明け後約2週間が夏山のベストシーズンだ」という。確かにここ数日の天候の安定ぶりを見ると、頷けるご指摘である。

その梅雨明け後の過日、所用があって百花台~裏雲仙~温泉街のルートを辿って小浜まで出かけた。仕事を終えてからの出発だったので、時刻は6時を回っていた、と想う。

車窓からではあったが、そこで見た青空と木々の緑のコントラストが鮮やかな〝光景〟に、心からの〝感動〟を覚えたのも事実である。松本社長が仰っていたのはこういうことだったのか!なんと雲仙の山々は美しいのだろう!

一方、海側に視線を移すと、夏独特のエネルギッシュな太陽の光が波静かな海面を煌々と照らしていた。そのまま裸眼で見るには余りに眩し過ぎたので、サングラスを取り出して、しばし〝観賞〟に耽った。

今さら言うまでもない話であろうが、人間が自然に敵(かな)うはずもないのに、人類はそれをそのまま〝是〟とせず、様々に趣向を凝らし、敢然と挑み続けては、手痛い(時には絶望的な)しっぺ返しをくらってきた。

歴史というのはそうした愚かな行為(?)の積み重ねに他ならないし、同時にまた、人類全般に課せられた〝業〟のようなものではなかろうか…。

人は悩むが、自然は悩んだりなんかしない。地中にマグマが溜まり過ぎれば、人様の事情など一切お構いなく一気に爆発する。誤解を恐れずに言えば、噴火や津波などはたまたま表出した〝現象〟でしかない。

もうあと10分ほどで小浜の街に着こうかという所に、宅島壽雄さん(県商工会連合会長)が丹精込めて整備を進めている「祈りの里」がある。一旦は通り過ぎたのだが、改めて「雲仙大仏」を拝むために引き返した。

写真はその際にスマホで撮った一枚。脇の案内板にはこう記されていた。「大仏さまの顔はかなしみに耐えた顔である くるしみに耐えた顔である 人の世の様々な批判にじっと耐えた顔である…(後略)」と。

様々瑣事に頭を悩ませていた自分が急に恥ずかしくなってしまった。


2013/07/03

テレビ版『フジ三太郎』…ハゲ始めはいつごろから?

〝思い込み〟とはコワイもの!旧大倉財閥の創始者として知られる大倉喜八郎翁が晩年に登った山はてっきり「富士山」とばかり思っていたが、間違いだった。正しくは南アルプスの赤石岳(3120㍍)。

大正15年8月。翁の年齢は88歳。後に間組の社長となる神部満之助の案内で、総勢200名ものお供を伴って駕籠に担がれエッサッサ。「自分の所有地の一番高いところに登りたい」との〝語録〟が残っている。

さて、富士山。日本人である以上、一度は是非登ってみたい山だが、なかなかご縁がない。五合目までは観光ツアーで何度か行ったことはあるのだが…。

時に「ふじさん」という語呂のいい名前で思い出したが、かつて朝日新聞に「フジ三太郎」という人気の4コマ漫画が連載されていた。作者はサトウサンペイさん。

と、ここまでは朝日の読者を長年続けてこられた方ならよくご存知だろう。では、同名のテレビドラマの方はいかがだろう…?

妙なクセだが、筆者はこの手の話はよく覚えている。坂本九さんと、今を時めく《夏バッパ》こと宮本信子さんが〝夫婦役〟で出ていた。

残念ながら、坂本さんは昭和60年8月の日航機墜落事故で亡くなってしまった(享年43歳)が、宮本さんのその後の女優としての活躍ぶりは目覚ましい限りだ。

宮本さんの亡きご主人は映画監督の伊丹十三さん(享年64歳)であることは有名な話だが、この方が何ともユニークな本を遺されている。

『小説より奇なり』というタイトルで、版元は文芸春秋。実を言うと、いつか紹介する機会もあろうかと、FMパーソナリティの「しゅんちゃん」から借りっぱなしになっているイワクの一冊だ。

最初の1ページ目から抱腹絶倒する、超傑作な〝面白本〟だが、しゅんちゃん一押しは「衝撃の告白!!大特集●危機一髪」のコーナー。そこにはこう、〝前ふり〟されている。

《何故毛が脱けるか?名士十人の脱毛の告白は若き人々が転ばぬ先の杖に是非読んで頂き度う存じます》―で、登場されているのが次の方々(十人以上・敬称略)。いずれも〝名士〟の呼び名に相応しい大物ぞろいだ。

井伏鱒二、飯沢匡、加藤芳郎、石川達三、岡本太郎、羽仁五郎、吉行淳之介、岡部冬彦、柳原良平、邱永漢、星新一、野坂昭如の面々。

普通に考えれば、「いつごろからハゲ始めたか?」などと訊かれたら、怒り出すところだろうが、さすがに〝大人〟は違う。それぞれ丁寧に受け答えされているところに、かえって新鮮な驚きを覚える。

ともあれ、これから本格的な夏山シーズン(富士山は1日が山開き)。どうぞ、お毛が(≒怪我)なされぬように!


2013/07/02

出雲神話に医療の起源…宝塚男組のトップスター!?

出張に次ぐイベントや深夜の宴会で、もう完全にグロッキー(疲労困ぱい)状態である。こう書いてハタと思いついたが、「グロッキー」なる言葉は、最近すっかり見かけなくなってしまったような気がする。

改めて調べてみた。元々はボクシングに由来する言葉(英語)だそうな。それともう一つ。「グロッキー」は訛った表現で、正しくは「グロッギー」と解説してあった。まぁ、どうでもいい話ではあるが…。

先週末は島根県出雲市にいた。「式年遷宮」(しきねんせんぐう)と言えば、20年ぶりの「伊勢神宮」(三重県)にばかり世間の耳目が集まっているようだが、どっこい「出雲大社」を忘れてはいませんか、と。

「出雲―」のそれは60年巡りの一大イベントだそうで、筆者一行が詣でた折には、本殿前で谷村新司さんのコンサート会場造りがせっせと行われていた(本番は29日)。

話が前後したが、先月28日~29日には、出雲市に本社を構える地元の「島根日日新聞」が主管して「全国地域紙交流会」なる催しが開かれた。

「地域紙」とは、一般的に言う「県紙」や「ブロック紙」と違って、より限られたエリアの情報を伝える新聞社のこと。有体に言えば、「島原新聞」がその典型だ。

日本地域新聞協議会(会長・関谷邦彦南信州新聞社々長)によれば、全国には約200社があり、半数近くが加盟している、とのこと。

実は、島原新聞がそうした業界の会合に顔を出したのは初めて。しかし、その存在は想った以上に知れ渡っており、「明治32年創刊。随分と歴史が古いですね…」などと声を掛けていただいた。

全員での大社参拝(特別案内)後、「島日」(ややっこしいなぁ~)のセミナーハウスで開かれた講演会では島根大学の小林祥泰学長先生の話を聴いた。

同学長は慶應大学医学部出身のお医者さん(前職は島根県立医科大学附属病院長)だが、お国柄か、〝神話〟の世界にやけに詳しく、日本人の一人として大変に勉強になった。

面白いな!と思ったのは「因幡の白ウサギ」の話。同学長によると、そこで語られているのは「キチンキトサン」や「ビタミンE、C」などの効能の話で、「我が国における医療の原形がこの神話の中にある!」と力説された。

また、別府や道後などの温泉地を開発したのは大社の祭神であるオオクニノヌシとスクナヒコナであることなども併せてご教授下さった。

終了後の懇親会での〝最大の収穫〟は、日刊人吉新聞(熊本県)の石蔵尚之社長の実妹が、宝塚男組トップスターの轟悠(とどろき・ゆう)さんだと紹介されたこと。

ただ、驚くばかりでは芸がないので、「うち(島原)にだって宮崎香蓮ちゃん(オスカー)がおるもんば!」と言ってやった。