2011/12/27

カエルの子はカエル…新しい年に期待したいが…

とうとう来ました999回!語呂合わせで言うと「クックック」。まだ可愛かった頃の桜田淳子ちゃんがベレー帽をかぶって〈青い鳥~♪〉なんて歌っていたことを思い出してしまう。

いやいや、はしゃいでいる場合なんかではないぞ。当初の「志」はどこへ行ったのだ?「正を踏んで畏れず」などと精一杯格好を付けて臨んだのに、今日のこの体たらくは…?

でも、幾ら〃駄文〃であっても、続けてこその話だ。それなりに楽しみにして待っていて下さる方だっている。一方で「ブタも煽てりゃ木に登る」という皮肉な箴言もある。その気になれば自費出版だって…。

いやいや、そう無理すんなって!ブタで結構ではないか。むしろ、その方が気楽だ。ただ、この見苦しい体型だけは何とかならないものだろうか?少なくとも連載を始める前までは、これほどまでには肥ってはいなかった。

一時期は「メタボリック症候群」なんぞを気にしてダイエットにいそしんだ時期もあったが、もうそれは遠い昔の話。このままどこまで肥れるか、挑戦してみても面白いかも…。

ただ、一抹の不安がないわけではない。健康上の問題はさておくとして、肥満は〃不経済〃なのである。例えば、前の年に買ったズボンや背広がほとんど入らなくなる。

この前、洋服屋へ行ってウエスト回りを計ってもらったら、1メートル近くもあった。連載前には何とか90センチを切っていたというのに…。

腹回りのサイズはさらに残酷だ。背広のボタンを締めようにも、どうにも窮屈でならない。仕方がないのでオープン状態で凌いではいるが、フォーマルな席では何ともバツが悪い。

母の感化でか、最近とみに〃意地悪さ〃を増してきている家人がオイラのことを「カエル」と呼ぶようになった。夏場に酔っ払ってパンツ一丁で寝ころんでいる姿を見て、そう思ったのだそうだ。

「何をぬかすか!」と文句を言ったが、ケータイのカメラに収められた映像を突き付けられて言葉を失った。聞けば、その証拠写真は各地に点在する息子や妹たちにもメールで送られた、との由。

「しまった、敵は家庭にも居たか!」とホゾをかんだが、もう後の祭り。以来、オイラの家での渾名は「カ・エ・ル」ということになっている。

とは言っても、オイラにだって男としてのプライドがある。たまには怒りに任せてこう叫ぶ。「お前は、オイば何て思ちょっとか!」。

と、余裕綽々の表情でこういう切り返しが返ってきた。「なぁ~とも思ちょらんよ」と。敵ながらアッパレ!と言うより、もう為す術なしだ。

年が改まって1000回を突破したら、少しは風向きが変わるだろうか?まさか、カエルの子はカエルだもの…。皆様、どうぞよいお年を!


2011/12/26

来年は東北に行くぞ!…「物書き」の端くれとして

年末のカウントダウンと合わせて本欄の1000回目へ向けてのカウントダウンも始まった。ただし、これは筆者が勝手に騒いでいるだけで、世の中の動きとは何の関係もない。したがって、今日も勝手に書かせていただく。

さて、時節柄この1年を振り返ってみるが、太平洋岸の東北&関東地方を襲った「3・11」の大震災は忘れようにも忘れられないショッキングな記憶として今も鮮明に残る。

「阪神大震災」(1995年1月17日)が起きたのは明け方の午前5時46分。これに対して「東日本大震災」は真昼の午後2時46分だった。

誰が言ったか忘れてしまったが、ともに発生時刻が「46分」だったため、その時間帯は「よろめき(・・・・)タイムだった」と。

聞いた途端、趣味の悪い冗談だと思ったが、災害時のデマ(流言飛語)の類いはこうして生まれるのか…と、はたと考えさせられたりもした。

あれから10カ月近くが経ち、報道のありようも随分と変わってきているようだ。規模は違うにせよ、同じ「自然災害」を経験した立場からすると、何かしら割り切れぬ思いが拭い去れない。

それはある意味、伝えることを生業(なりわい)としている「自分自身」に向けての弾劾でもある。「なぜ被災地に足を運ばないのか?阪神の時は行ったのに…」。

確かに阪神と比べると、その距離は格段に遠い。それでも、東京までは度々出張しているではないか?そこから2時間もあれば辿り着けるのに…。

言い訳がましいが、これまでにテレビも新聞も、一応取材スタッフの派遣はしている。FMのスタッフも年明け早々には現地(宮城県)に赴くことになっている。 

ただ、自分の眼で現場を見ないで、何をどう書こうというのだ。被災地の空気を吸ってこい!現地の人々の声を直接聞いてこい!

今、年の瀬を迎えるに当たって、そうした「内なる声」が自身の脳裏にムクムクと湧き上がってきているのがよく分かる。

先般、講演を聴いた青山繁晴さん(独立総合研究所代表)は、幾度となく爆発した原子炉(東電)の中に入り込んで、丹念に取材を重ねてきた、という。

こと原発の問題に限らず、青山さんは「本当の情報」を知っている、筋金入りの、数少ない国際ジャーナリストの一人である。なぜ、同じ人間なのに、自分にはそれが出来ないのだろう?

もちろん、「能力」(胆力)の違いはいかんともし難いが、せめては遠目からでもいいから、その全貌を拝まないことには話にも何にもならないではないか。

ヨシ!来年は絶対現地に行く。あの混乱の最中で〃壁新聞〃を作って報じた「石巻日々(ひび)新聞」の社長や記者の人たちにも是非会ってこよう。それがせめてもの「物書き」としての使命だ。


2011/12/20

叔父「大往生」す!…地元医療・介護関係者に感謝

先週末から様々なトラブルに巻き込まれている。「予期せぬ事態」とでも言おうか…。まず、新聞製作の最終工程に当たる印刷システムの障害。紙面原稿を作り上げて、「いざ製版!」という段階になって、それは突如露見した。

機械に「意思」などあろうはずもないが、まるで我々の狼狽ぶりを嘲笑うかのように、「ダメ出し」の信号を送ってきた。結果、本来であれば夕刻の時間帯にはお届け出来ているはずの18日付の新聞が発行出来なかった…。当事者としてはまさに痛恨の極み。改めて深くお詫びを申し上げる次第である。

話は変わって私事で恐縮だが、長年にわたって社長とともに新聞事業の経営に携わってきた叔父が19日早朝、自宅で静かに息を引き取った。満82歳の誕生日から数えてちょうど3カ月目の「大往生」であった。

その日、いつもとは容体が異なっていたため、家族は「寝ずの番」を覚悟。居間の炬燵に横たわりながら長い夜を過ごしていた。幾度か順番で様子をうかがっていたが、明け方近くになって家人が「異変」に気付いた。直ちに筆者も立ち会ったが、すでに息絶えていた。

進行性の胃ガンを宣告されて3年余。叔父は頑なに手術を拒み、飄々とした表情で、時にタバコや酒をたしなみながら、大らかに晩節を過ごした。医学的には大いに問題あり!と言うより、論評に値しない無謀な選択であった。我々家族自体が、主治医の先生から随分とお叱りを受けたのも事実である。

が、叔父はそれこそ死ぬまで「我」を押し通した。末期の治療のため入院した病院もダダをこねて2週間で退院。「良かったね!自宅に戻れて」と笑顔で送り出して下さった看護婦さんの表情が今も忘れられない。

一方で、受け入れる側の家族は大変だったが、母も家人もそれこそ献身的な介護を、医師会から派遣されたスタッフの方々とともに続けた。それはもうある意味「戦い」でもあった。よく「戦いすんで日が暮れて…」などと言われるが、叔父が亡くなった日の朝焼けは実に美しかった。

1つの「命」が消滅したその日、目にも鮮やかなオレンジ色の太陽が東の空から顔をのぞかせた。ヘミングウェイへの小説ではないが、まさに「日はまた昇る」ではないか!

長年、叔父とともに働き続けてきた印刷システムにもそろそろガタが来ているようにも想う。人間と機械との「相関関係」など、科学的に考えればあるはずもないが、何かしらの「縁」を感じ取った1日でもあった。

今年も間もなく幕を閉じる。悪名高き「北のショーグンさま」もとうとう逝かれたそうだ。どうか来る2012年が平穏でありますように!叔父ちゃんも浄土の世界からそう願って下さい。合掌。


2011/12/17

ホルモン鍋もあるよ!…昼間営業でも「ばんから」

一昨夜は、ダイエー島原支店の一角に新たに店を構えた「ばんからラーメン」(小川知孝社長)の試食会に呼ばれた。正式オープンは17日からだそうだ。

会場には小川社長の広い交際範囲を象徴するように、商工会議所やライオンズクラブの関係者、ゴルフ仲間など多数がお祝いに駆け付け、早くも〃満員御礼〃の盛況ぶり。

中に、人一倍〃我がもの顔〃で生ビールのジョッキを次々と空けているご仁がいた。ながせや社長で副会頭の古瀬寛二さんだ。

少し遅れて会場入りした筆者に向かって、いつもながらのニコヤカナな表情でこう語り掛けてこられた。「佐藤電装の勝亮社長から聞いた、オモシロカ話ば教ゆっけん」と。

〈あんさ、勝亮さんに近くのバアチャンの聞かしたとげな。ドーナツ屋の跡のラーメン屋は〃昼間〃はせんとやろかい?看板に〃ばんから〃て書いてあるとん?〉

まあ、聞きようによっては余りにも出来過ぎた話であるが、筆者の周りでは〈諫早ん陸上競技場ん中にあるラーメン屋の姉妹店やろ?〉という、なんとも〃ばさらか〃な話をする輩もいる。小川社長、まーだ宣伝の足りんですばい!

「ばんから」は東京・池袋を発祥の地とする、豚骨ラーメンの全国チェーン。一言でいうと、味はこってり系。バイタリティ溢れる若者や筆者のようなメタボ派にはたまらない濃縮スープとシコシコ麺が売りだ。

トッピングの種類も豊富で、家族連れなども気軽に楽しめる。加えて、島原店では「ホルモン鍋」などもアルコール類とともに供することにしており、客層はさらに広がりそう。

ところで、通常何気なく使っている「ばんから」(=蛮カラ)という表現だが、よくよく調べてみると、「ハイカラ」に対する造語なのだそうだ。

その意味はすでに広く知られているところだが、前者が「野暮」に対して、後者は「上品」。大学(校風)で言うと、早稲田と慶應の違いようなものだ。

たまに、長崎市内育ちの方々とゴルフをすると、彼らはよく「上等」「舶来」という表現(半分は冗談だが…)で、道具類や腕前のランク付けをされる。

なるほど、さすがに〃都会派〃ならではの言葉遊びだと感心する一方で、いささか〃反発心〃を抱きながら、我が国産中古クラブを眺めている。しかし、どうにもショットの方向性だけは思うに任せない。

その点、小川社長は我々の仲間内では、飛び切りの名ゴルファーで、古瀬社長などは到底足元にも及ばない。ただし、その古瀬社長も最近は絶好調のようで、口の方も〃舌好調〃そのもの。

で、どうでしょうこの際、「ばんから」のオープン記念に、小川社長をグロスで負かしたら「ラーメン10杯おごり」(筆者が)という条件でやってみませんか、古瀬ファーさん?


2011/12/16

再び〃映画出演〃の話…小百合の次はしのぶかい?

別に〃愛人〃が居るわけではないが、ことしはやけに〃天草通い〃が続いている。私用も含めてもう4回目だ。

ということで、先日もまた天草へ渡った。島原市を起点にすれば、フェリーも含めて約2時間の移動距離だ。

現地を走っていてまず感じるのは、まるで島原半島の南目の町の中に居るような感覚だ。ちょうど合わせ鏡で見る〃原風景〃とでも言おうか…。

今回は何とも言えない不思議な雰囲気を持った人物と出会った。〃女性〃である。

それこそ昼の日中にたまたま〃遭遇〃しただけのものだが、妙に人なつこいその笑顔と、その圧倒的な存在感に、否応なく引き寄せられてしまった。

彼女は地元在住の映画人である。名前は福田智穂さん。年齢は不詳。

聞くとはなしに話を伺っていたら、いま映画を創っているという。タイトルは『ワッゲンオッゲン』。一瞬「?」と思っていたら、やにわに1枚の派手なチラシを取り出して見せた。

『ワッゲン―』とは天草弁で言う「お前ん家(ち)おれん家(ち)」。元々似通った言語圏だから、すぐに得心。で、「中身は?」と尋ねたら、「待ってました!」とばかりに機関銃のような説明が続いた。

主舞台は自身の生まれ故郷でもある「ハイヤ」の町・旧牛深市で、大人が楽しめる痛快コメディだという。改めてチラシを見たら、「牛深三度行きゃ三度裸!」という太文字のキャッチコピーが躍っていた。

主役は演技派で鳴る大竹しのぶ。今が旬の俳優、遠藤憲一も「芸域を広めたい!」ということで加わることになったそうだ。

と、ここまで話を聞いて〃ある事〃に気付いた。そう言えば、天草には映画館を再生した若者が居て、その心意気に感動した高倉健さんがやって来て『ホタル』の上映会が開かれたことがある。

それにあのアカデミー賞作品『おくりびと』の脚本を書いた小山薫堂さんは、確かここの生まれだったはず…。

その後も話は盛り上がり、つい調子に乗って「島原にも宮崎香蓮という女優さんがいて、実はこの僕も吉永小百合さんと共演したこともあるんですよ」と口走ってしまった。

すると間髪をおかずこう切り返された。「今月17日と18日に上天草市の松島総合センターでオーデションがありますが、貴方だけは特別にOK!」と太鼓判を押されてしまった。

筆者の心中に「虚栄心」がムクムクと頭をもたげてきているのが良くわかった。「そしたら小百合に続いて、しのぶとも〃共演〃ということですね?」と念を押したら、「そういうことです!」と、悪戯っぽい返事がかえってきた。


2011/12/14

今年のイブは誰と?…最近は「女子会」流行りだが…

巷に溢れるクリスマスソング―といった状況でないのは、やはり不景気のせいか?それでも正月前にクリスマスはやってくる。

この前、ワイドショーを眺めていたら、「イブ」(24日夜)の過ごし方も随分と様変わりしているようだ。それによると、最近流行っているのは「女子会」なる、女性ばかりの飲み会だそうな。

一方で、「男子会」なる飲み会については、どこの局も取り上げない。オトコ同士で連れだって酒場に繰り出す姿は、余りにも当たり前過ぎてニュース価値などないか…。

筆者が学生の頃はとにかく「コンパ」が流行った。週末になれば、何はさておいてもコンパ&コンパで、得体の知れない〃安酒〃をかっくらっていた。

恐らく、こうした光景は今もそうだろうが、ちょっと気の利いたスケコマシ野郎は、酒や料理など目もくれずに女性との会話にご執心である。

内心羨ましくもあった。だが、そこは九州男児!「フン、女なんかにうつつを抜かしやがって!」などと強がってはいたものの、「出来ることなら代わりたいなぁ…」という気持ちがあったことも否定できない。

これが同じ九州男児でも、高倉健さんばりの男前ならまだしも、女性の目から見たら「単なる酔いどれ学生」にしか映らなかっただろうから、やはり救いようはなかったか…。

飲み会から離れて、当時、モテナイ集団だった我々が取った昼間の行動はある種の「ささやき作戦」。

今にして思うに、何とも意地こましい抵抗行為であったが、見知らぬアベックとすれ違う度に、女性の相方に向けて意味ありげにこう声を掛けた。「だまされんなよ!」と。

後の行動は「脱兎」のごとく、だ。虚しいと言えば虚しいし、一方で稚拙極まりない「遊び」でもあった。効果?については、データも何も残っていないので、今更コメントのしようもない。

再び、クリスマスの話に戻るが、よく日本人は宗教に関して節操がない、と言われる。年末にキリストの生誕を祝い、正月にはご先祖様の墓参りと神社への初詣をこなす。

私見に過ぎないが、これはこれで別段悪いことではない、と思う。この前、嬉野温泉で開かれた業界の忘年会に上五島生まれの芸子さんがいた。

筆者が「島原来た」と言ったら、聞くとはなしに自分がクリスチャンであることや、亡くなった父親が巻き網漁船に乗っていたことなどを話してくれた。

笑ったのは、近所で育った同級生の誕生日がとても近い、という話。理由を尋ねると、巻き網船団は満月の夜に寄港し、ちょっとだけ居て再び漁に出掛けて行くのだ、と。

もちろん、その間には「女子会」など開かれていなかった、としみじみ述懐していた。納得!!


2011/12/09

14日は「忠臣蔵」の日…落語は人間の〃業〃を肯定

12月は言わずと知れた「師走」であり、普段は泰然自若として落ち着いている「師匠」筋でさえ忙しさの余り「走り回る」ことからその名が付いた、という〃俗説〃がある。

語源については、本当のところは良く分からないが、この場合の「師」とは「お坊さん」を指すのだという。さて、その多忙を極める僧侶の一人、護国寺住職・岩永泰賢さんの講演を13日早朝に聞いた。

島原準倫理法人会(橋本卓也会長)が毎火曜日午前6時から南風楼で開催している「モーニングセミナー」の11人目の講師として招かれたものだ。演題は「歴史と伝統に学ぶ賢者足り得るか?」。

まず、個人的な感想から述べると、いつもながらに良いお話であった。ただ一方で、我々聞く側の「問題点」を実感させられたことも事実である。筆者などさして若くもないのに、余りにも自国や古里の歴史を知らなさ過ぎるのである。

そんな事などとっくにご承知の「師」は、ドイツの鉄血宰相ビスマルクの有名な言葉―「賢者は歴史に学び、愚者は体験に学ぶ」を持ち出し、やんわりとジャブ。その上で、時節柄に合わせて「忠臣蔵」を題材とされた。

時あたかも12月14日は、大石内蔵助率いる赤穂浪士(四十七士)が主君・浅野内匠頭の仇敵・吉良上野介を討ち取った日だ。俗に言う「討ち入り」。元禄15年(1702)のこと。

「師」は、志士の1人、大高源吾の存在を枕に、歌舞伎や芸能の世界でいまだに生き生きと描かれ続けている「日本人の心の在りよう」(義理・人情)について、時にユーモアを交えながら、熱く語った。

ただ、それはそれで随分と感銘も受けたが、先般亡くなった立川談志さんとの間で親密に交わされた、生前の微笑ましいやり取りの数々はさらに味わい深く、面白かった。

談志師匠の落語の定義付けは「人間の〃業〃を肯定するもの」。忠臣蔵を題材にするなら、仇討を果たして後に世間から持て囃された四十七士以外の浪士(約250人)の生き方についても、一定の理解を示すものだ、という。

拝聴後「なるほど、そういう見方もあったか!」と思わずヒザを叩いたわけだが、と同時に、慶應義塾の創始者、福澤諭吉翁が「赤穂義士は間違っている!」という〃自説〃を持ち出して大いに論議を巻き起こしたというエピソードを思い出した。

今年のNHKテレビテキスト(7月号・齊藤孝著)で取り上げられている。福澤翁によれば「討ち入りは単なる私的制裁(リンチ)に過ぎない。それよりは国(江戸幕府)の法の裁きに従うべきだ」と。

筆者のようなボンクラ頭ではまったく判断もつかないが、この件については、談志師匠と齊藤教授(明治大学・今年9月に来島)に語り合ってもらったら、より面白かったろうに、とも思う。


「10000」って一体?…桜島噴火はほぼ2日に1回

「もういくつ寝るとお正月~♪」。自然災害に明け暮れた2011年も、余すところ後わずかだ。1年は4年に1度の閏(うるう)年を除けば365日だから、10年だと3650日をちょっとだけ超える。視点を変えて10000日は何年か?を考えて見れば(単純に365で割ると)、27年と4カ月という計算が成り立つ。

数日前、鹿児島県桜島の「爆発的噴火」の回数が今月初めについに10000回を超えた、というニュースが紹介された。

各種の報道によれば、観測が開始されたのは昭和30年10月ということだから、以来56年の間、ほぼ2日に1回のペースで噴煙を上げていることになる。

当地の雲仙・普賢岳の噴火災害が収まったから言う訳ではないが、まったくもって「驚異的な息の長さ」である。

先般、出張のため訪れた鹿児島市内ではまだ、あの懐かしの「降灰袋」が随所に積まれていた。現地の方々のご苦労のほどが偲ばれる。いや、さほど気にされていないのかも知れない。と言うより、実のところは分からない。

ところで、昨年あたりから友人知己の類いからもらう「年賀欠礼」のハガキの数が急速に増えてきたように感じる。今年はもう軽く10枚を超えた。

考えてみたら、筆者(昭和30年生まれ)の親の世代は80歳前後か、或いはそれ以上であろう。だとすれば、日本人の平均寿命からしても無理からぬところだ。

以前、とある酒席で「お前さん、まだ10000日も生きるつもりかい?」と冗談交じりで聞かれたことがある。

それまでは、さしてその数字の意味合いを考えることなどなかったが、改めて桜島の噴火回数の記事を読んだことで、ふと考えさせられてしまった。

賢明なる読者の方ならすでにお気付きのことだと思うが、現在、筆者は満(まん)の56歳だから、10000日生き長らえたとするなら、とうに84歳を超えてしまう。

つまり、平均余命からすれば、残り10000日の「カウントダウン」がすでに始まっていることになる。

ただ、今更どうしよう?などと焦ってみても仕方のないことだ。これから先は1日、1日をより大切に生きていくしかない。

逆に言ったら、残り10000日で果たして何が出来るのであろうか?やり残したことは、それこそ山ほどある。このまま死んでしまったら、「不完全燃焼」の典型ではないか。

「裏を見せ 表を見せて 散る紅葉」―。良寛和尚は御年70歳で40歳も年の離れた尼僧にほのかな恋心を抱かれた、とか…。

開き直れば、まだまだ10000日もあるぞ!よ~し、オレだって???


夢破れてオムライス…チャーハンと焼き飯の違い?

「冷や飯食い」とは俗に不遇な状況に置かれていることの例えだが、加工(料理)の仕方次第では、これも結構いける!

もちろん、新米の炊き立ての味は格別だが、どちらかと言うと濃い味付けに魅かれる筆者のようなデブは、チャーハンや焼き飯の類いがもっと好きだ。いかがかな、同志諸君?

話は脱線するが、チャーハンと焼き飯の違いはご存じか?これにピラフが加わると厄介になるのでそれは省くとして、簡単に言うと、(炒める順番は)前者は卵が先で、後者はご飯が先なのだそうな。

で、なんでこんな書き出しになったのかと言うと、我が家の食卓のメニューが昨日の晩も、そして今朝も、大量の「冷や飯」をリニューアルしたチキンライスに薄焼き卵を被せたオムライスだったからだ。

別段、嫌ではない。ただ、こうも続くと、「冷めたご飯に、冷めた妻…」という綾小路きみまろの例の漫談ネタを思い出してしまう。

その妻に先日、「お前さん、俺と結婚して後悔しているやろ?」と聞いたら、しばしの沈黙の後に「しょんなか…」と返ってきた。思わず〃身震い〃したのは言うまでもない。

さて、本連載も今日で990回目を迎えた。「もういくつ寝るとお正月♪」ではないが、1000回記念まであと少しだ。

子供の頃から「スターになりたい!」とか、「難しい資格を取って偉くなりたい!」などといった大それた〃夢〃は持っていなかったが、「出来たら本(自著)を出せれば…」というのはそれとなく願っていた。

そんな矢先、毎月郵送されてくる月刊・文藝春秋の封筒に中に、「自費出版してみませんか?弊社の専門スタッフがお手伝いします」というチラシが入っているのが目に留まった。

この僕の原稿が本になる?しかも、あの文藝春秋社の編集で!はやる心をどうしても抑えきれず「資料請求」のハガキを出したのは1週間ほど前のこと。

ペン書きの綺麗な文字で「返信」が届いた。夕食時、時おり咳を交えながら「あれーぇ、こんなモノが届いている…」と、何食わぬ顔で資料を広げて見せた途端、妻の表情が激変!

「バカじゃ!お金のかかっとじゃろもん。そがん余裕の今どこにあっと。(資料は)破って捨てとけば良かった、フン!」と、ニベもなかった。

筆者は勇気を振り絞ってこう抵抗した。「バ~カ、本ば出せば、アンタは『作家の妻』て名乗らるっとぞ!カッコ良かとん」。

そのやり取りを傍らで聞いていた母が突然笑い出した。「『作家の妻』も良かバッテン、こん『刺身のツマ』ば、早よ食べて片付けてくれんね、自称『作家さぁ~ん』」げな。

「人」の「夢」と書いて「儚い」。筆者の「今年の漢字」はこれで決まり!!


2011/12/07

温泉湯豆腐の思い出…「馳走」は「地層」に通じる!!

7日は二十四節気で言う「大雪」(たいせつ)。それに従えば、もうそろそろ寒気が訪れてしかるべきなのに、一向にその兆しがうかがえない。

人一倍の寒がりである我が身にとっては有難い話ではあるが、何だが全てにおいて〃締まり〃がないようで、いささか面食らってもいる。

さて今日は、これからCATV関連の会議に出席するため佐賀県に出張する。会場は嬉野温泉だから2時間ほどで着く。

もちろん、雪の恐れなどないから到着予定はそう狂うまい。それに会議が終われば仲間と忘年会だ。名物の温泉にもゆっくりと浸かれる。

留守の社員や家族には悪いが、これから控えている師走後半の〃修羅場〃を前に、少しだけ休養を取らせていただくことにする。ゴメン!

嬉野はのどかな田園地帯にある、何の変哲もない温泉町だ。ただ、かつてほどの〃賑わい〃はとっくになくなり、芸子さんの数もめっきり少なくなった、という。

そんな中にあって、唯一&最大の楽しみは「温泉湯豆腐」だ。より美味しくいただくには、やはりそれなりの〃冷え込み〃が理想だが、こればかりはいかんともし難い。

湯豆腐は土産物としても重宝だ。やや大きめの発砲スチロールにセットで入って2,500円くらい。何より見た目が豪華である。

今から10年以上も前の話になるが、「嬉野で出来て、島原で出来ないはずはない!」と、地元の温泉水を使ってやみくもにチャレンジしたことがある。が、結果は失敗。

それに懲りずに、さらに原因を追究していけば、今ごろは新たな島原温泉の名物料理が生まれていたのかも知れない…。所詮は畑違いの〃妄想〃でしかなかったのだろう。

ただ、今からでも遅くはない、と思う。誰か本気なって取り組んでくれないだろうか?

豆腐の材料はご存じ「畑の牛肉」と言われる大豆である。その畑の元を成すのは「地層」。すなわち、これぞ「ジオパーク」ではないか!

弊社の事務所前を通られた方なら良くお分かりだと思うが、表に面したガラス戸全体に、あるデザインを施している。製作者はナカムラ工芸社の中村光利社長。ディレクターはこの筆者。

そこでは、野菜やサカナなどの白黒写真の上に「GO! CHI SOU SAMA」というローマ字が被せてある。色は鮮やかなショッキングピンクだ。

実は、「我ながら良い出来栄え」と一人悦に入っているのだが、周囲の反応がまったくない。やはり何でも〃独り善がり〃ではダメか…。

「そんなバカ野郎は豆腐の角に頭をぶつけて死んでしまえ!」というオチ。明日は休みます!


2011/12/06

泉川先生の目指すもの…島原半島に多い〃結核予備軍〃

既報の通り、南高医師会会長の泉川欣一氏が本年度の「日本医師会最高優功賞」に輝いた。筆者も社長の名代で御祝いの席に出させていただいたが、この先生なかなかの〃政治家〃だ、と思った。

でないと、それぞれが一騎当千のツワモノ揃いである医師の集団を束ねることなど不可能であろう。ただし、政治的な駆け引きだけで今回のような権威ある賞が貰えるはずもない。きっと〃何か〃がある。はて、そのサムシングとは?

これまで滅多にお話を伺う機会もなかったが、随分と以前に一度だけじっくりと取材をさせていただいたことがある。確か地元仲間の同窓会か何かの話ではなかったか…。

今回の受賞理由が、長年にわたる「マイコプラズマ」に関する優れた研究成果であったことは言うまでもない。ただ一方で、地域医療への高い貢献度が認められたことも事実だ。

マイコプラズマ菌との最初の出会い(?)は今を遡ること40数年前。長崎大学医学部第2内科に在籍していた頃に、「君、これを研究しなさい!」と恩師の原耕平教授から命じられたことがきっかけだった、という。

本人としては「マイナーな感染症でもあるし、直ちに命に係わるほどの重篤性もない」ということで余り気乗りはしなかったが、「やる以上は、日本の医学界でも認められる存在になりたい!」との一心で米国にも渡った。

医学者としてのその〃存在〃が認められたのは、研究開始から約15年後。免疫機構の学会で座長を務めていた東大の教授が意見を求めてきた時、「初めて自分の学説に自信が持てた」と述懐する。

一方、地域医療との係わりは、昭和63年に父の跡を継いで現在地に泉川病院を開設してから。来賓の奥村雲仙市長も祝辞の中で述べていたが、組織を挙げて「学校医」や「特定健診」の普及活動にも力を注いでいる。

見落としてはならないのは、国見町神代の本田重久氏らと取り組んでいる循環器系疾患の勉強会。今日まですでに240回にも及んでいる、そうだ。

謝辞後半では、本県の結核罹患率が「全国ワースト2位」であることを明らかにする一方で、さらに島原半島においてその傾向が顕著である旨のショッキングな〃事実〃も公表した。

筆者が失礼をも省みず〃政治家〃云々の例え方をしたのは、返す刀で、来賓として列席している中村知事に向かって「地域医療再生計画の中で、患者の足の確保とともに是非前向きに対策のご検討を!」と要望を付したこと。

「来年72歳になるが、引退は無理か…」。悲願の「結核撲滅!」へ向けて、まだまだ戦いは続く。〔※訂正=昨報の中で「四半世紀近く」とあるのは「半世紀近く」の間違いでした〕


2011/12/05

これってキンギョ迷惑?…幸せいっぱいの日曜日でした

まだまだサカナづいている。昨日曜日(4日)、休日出勤して書類の整理に当たっていたら、先のジャンボ金魚コンテストで見事第3席入賞を果たした下田邦臣さんと宅島寿晴さんの〃新湊コンビ〃から電話がかかってきた。

お二方の電話の導入文句(語り口)はいつも決まっている。モシモシの後は必ず「何しよっと?」だ。端的に言えば、それは「とにかく、出てこい!」という意味である。

家人はいつもぼやく。「毎日んごて、同じ顔ぶれで何の楽しかとやろかい?」。「そがん会いたかなら、もう下田さんや宅島さんちの子供になれば!」。少し前は、「網元」もその受け入れ候補の1つだったが、最近はそこまで通い詰めていない。

話は逸れたが、昨日は霊丘公民館駐車場で開かれていた九州愛鱗会島原分会主催のニシキゴイの品評会に呼ばれた。

先の金魚の大きさにもブッタマゲタが、コイのそれは遥かに想像を超えていた。300尾近い出品魚の中から最大の「ジャンボ賞」に選ばれたのは、体長が何と91.5センチ。色を変えたらまるで「寒ブリ」のようであった。

コイは〃縁起物〃の魚である。「順調にいけば、120歳くらいまで生きるそうですよ」と、見物に来ていた平尾明さん(元島原市役所)が教えてくれたが、だとすれば、早稲田大学の創立者として名高い大隈重信公が唱えた「人間125歳説」とも合致する。

その早稲田ラグビー部は同日、宿敵・明治を最後の最後で逆転勝利!一方ゴルフ界では、九州(福岡)出身の藤田寛之選手が土壇場で谷口徹選手に追いつき、プレーオフの末、日本シリーズ2連覇を達成した。

相次ぐ「逆転劇」の余韻にひたっていたら、夕刻、再び件のお二方から「何しよっと?」の電話。行かないわけにはいかない。家人ももう心得たもので、「奥様方にご迷惑をかけたらダメよ」と気持ち良く送り出してくれた。

会場(下田邸)ではすでに宴が始まっていた。刺身、煮物、モツ鍋…などなど奥様心づくしの手料理に舌鼓を打ちながら、焼酎も随分といただいた。

途中から出前の握り鮨(2鉢)が加わった。もう「腹一杯」というところだったが、右脇に座っていた元消防長のジャンボ井上さんがトロの1つに手を伸ばした。筆者も負けじ!ともう1個をせしめた。

帰りは同方向なので井上ブラザーズ(弟の正則さんも同席)の車(代行運転)に分乗。一足早く「目の正月」を味わわせていただいた上に、自宅に送ってまでもらって、何て自分は幸せ者なんだろう!

それにしても、下田さん一家にはご迷惑のかけっ放しだ。そう言えば、昼飯のチャンポン(銀座食堂)も下田さんにご馳走になったし…。こういうのを「キンギョ迷惑」と言うのだろうか?


2011/12/01

下田さん3位入賞!!…体長35センチでも〃金魚

改めて思うところでもあるが、世の中は簡単な事柄でも何と知らないことばかりか!例えば、「九州」という呼び名について―。

我々はふだんから「九州人」などと使っている。しかし、小学生の社会科の勉強ではないが、現在、九州地方に属しているのは7県。これに沖縄が加わって「九州・沖縄地方」と言ったり、あるいはまた関門海峡をまたいで山口が仲間入りすることもある。

そのこと自体に別段何の〃違和感〃もなければ、地理的な感覚からしても、すんなりと受け入れることが出来る。

で、改めて「九州」の構成要素について思いを巡らすと、明治維新時の「廃藩置県」(1871年)を機に、今の7県体制になったのは周知の事実である。

ボンクラ頭で考えてみた。まず、我が長崎は佐賀とともに「肥前」の国(≒州)であった。その流れでいけば、熊本が「肥後」で、大分が「豊後」。さらにこれに連なる「豊前」(大分~北九州)があって、「筑前」「筑後」(福岡)と続く。

南に下ると、宮崎が「日向」で、鹿児島が「薩摩」。アレレ、みんな足してもまだ8つしかない?と思って調べてみたら、「大隅」が抜けていた。

この点、四国は実に分かりやすい。そのまんま高知、愛媛、香川、徳島の4県である。考えてみればきりがないが、日本列島の真ん中でもないのに「中国地方」とはこれ如何に?

相も変わらずのバカ話で〃行数稼ぎ〃をしてしまったが、「金魚」だってそうだ。通常、我々が抱く金魚のイメージは、夜市の露店等で掬い上げてはすぐに死なせてしまう、あの小さな淡水魚のこと。

ところが、ところが、一口に「金魚」と言えども、体長35㌢にも達する〃超大物〃が存在していることを初めて知った。

所は国見町土黒の「さぬき茶屋」。先月27日に開かれた本年度の「九州ジャンボ獅子頭品評会」で、実際にこの眼で確認したので間違いない!

残念ながら、デジカメが電池切れだったので撮影出来なかったが、本当にとても金魚とは思えないほどの堂々たる〃体格〃をしているのだ。

今からもう10年以上も前、博多の炉端焼きの店で、カウンターの片隅に置いてある水槽を眺めて「金魚の活き造り」を所望した無体なご仁も居たが、恐らくこの〃事実〃を知れば口をつぐんでしまうことだろう。

金魚に限らず、魚は〃無口〃である。人の趣味趣向は数々あれど、観賞用の魚を飼っている人はきっと、この物言わぬ、美しい姿態を持った生物が愛おしくて堪らないのだろう。

品評結果を紹介する余裕はないが、初めて出品したマルデンビル社長の下田邦臣さんが見事3席に入ったそうだ。無口な下田さんは今、静かにその歓びを噛みしめている。