2011/09/26

最高のコンサート!!…でも、もう『さらば青春』

「(長谷川等伯の)『松林図』を見る機会がなくても、身近な空を見上げるだけでも良い。空を行く雲を十分間眺めているだけでも、脳の中で発想の『カンブリア爆発』が起こる」(茂木健一郎・青春の翻訳法)

25日、島原復興アリーナ野外ステージで行われた「しまばら復興コンサート」会場の芝生の上に仰向けに寝転がって、しばし雲の動きを追った。すぐ目の前を赤トンボが行き交い、裸足で駆け回る幼い子どもたちの嬌声が聞こえる。

そんな平穏な感触を存分に味わいながら、普賢岳噴火災害20年の歳月を思いやった。災害当初、まだこの土地はなかった。言うまでもなく、ここは土石流災害がもたらした大量の岩石や土砂を使った埋立地(約26ヘクタール)の一角である。

2000年3月には、無謀にもこの地で主催者となって「全国モトクロス大会」を開いた。荒野であった。人海戦術で石ころを広い、何とか最低限の開催条件をクリアしたことを昨日のことのように覚えている。

そうか、あれからもう11年強が過ぎ去ったのか…。遥か視線の先では、我が青春期とほぼ軌を一にするアーティストの面々が懐かしい歌声を響かせている。でも、どうして『22才の別れ』(伊勢正三)の時に手拍子なんかするの?

最大のお目当ては、イルカの歌う『なごり雪』だった。昨年〃還暦〃を迎えたというかつての歌姫は軽妙な語りを交えながら、思い入れたっぷりに歌い上げた。良かった!最高だった!!

後は、泉谷しげるさん(怖いのでこう書く)の『春夏秋冬』を聴かねばと思っていたが、日もとっぷりと暮れていたので、後ろ髪を引かれる思いで愛車(島原半島一周をした自転車)に跨って家路についた。

こういうのを心理学用語で「シンクロニシティ」と言うのだろうか、たまたま数日前に読んだ新聞記事に『春夏秋冬』の誕生秘話が綴られていた。それによると、まだウブだった泉谷さんの背中を押したのは、フォーク界の大御所、加藤和彦さんだった、という。

ところで、この復興コンサートとは何の関係もないが、文芸春秋10月号に、中島みゆきさんの生い立ちを丹念に取材したレポートが掲載されている。詳しくは同誌を読んでいただきたいが、代表曲である『時代』は父の死をきっかけに作ったのだそうだ。筆者なんかてっきり失恋ソングとばかり思い込んでいたから、正直驚きであった。

そんな青春の残照に浸りながら自宅にたどり着いたら、母がテレビを観ていた。「あらっ、お帰り。アンタがコンサートに行っている間に土黒に行ってきたとよ。何でん安さが!」とニコニコ顔。

「ん、土黒?ひょっとして、そりゃユニクロじゃなか!」と言ったら、「そがんやったかにゃー」げな。やっぱもう『さらば青春』ばい。(※明日から出張のため3日ほど休みます)


2011/09/23

脳には驚きが必要…自信を裏付ける努力を!

講師としての茂木健一郎さんの語り口は、いわゆる〃功成り名を遂げた〃感のある大先生のそれとは一味も二味も違う。気さくで、それでいて示唆に富んでいる。

交友関係も幅広いようで、学者、文化人にとどまらず、音楽仲間の布袋寅泰さんをはじめ芸能界にもしっかりと根を張っているようだ。そのあたりが若者たちからも熱烈な支持を得ている背景かも知れない。

閑話休題。前回でも記したように、人間にはそれぞれ〃能力〃というものがあって、どうしても出来ないことが誰にもある。茂木さんは「それに気づいてはじめて人は他人にやさしくなれる」と説いた。

さて、ここからが「脳科学者」としての話になるが、茂木さんが例として明かすオリンピック女子マラソンのメダリスト(バルセロナ銀、アトランタ銅)、有森裕子さんの〃秘話〃。

もともと有森さんはランナーとして才能に溢れていた〃逸材〃でも何でもなかった。いわばごく普通の選手であった。それがどうして世界の頂点を極める寸前まで登りつめることが出来たのか?

〃育ての親〃の小出義雄監督によれば、有森さんは常に「根拠のない自信」を持っていた、という。その姿勢は学生時代から実業団チームに入るまで、終始変わらなかった。

日本体育大学を経て有森さんが志望したのは、小出監督率いるリクルート。しかしながら、さして才能もありそうにない有森さんは〃入門〃を断り続けられたのだそうだ。

それでも諦めない有森さんが取った行動は、同監督の行く先々に姿を現して、あの愛くるしい笑顔で手を振ることだった。

その甲斐あって、やっとリクルート入りを果たした有森さん。だが、その後に待ち受けていたのは、50キロを走った翌日にも5千メートルを10本などといった、いわゆる練習漬けの日々。

ただ、これは俗に言う〃シゴキ〃なんかではなかった。さすがに小出さんは〃名伯楽〃だけあって、その裏できちっとした理論付けを行っていた。

茂木さんによれば、そうした荒業は「マッスル・コンピュージョン」と呼ばれ、いつの間にか体そのものを本気にさせる。つまりその結果、いついかなる条件下でもベストが出せるようになる、と。

端折った言い方になるが、脳を活性化するにはサプライズ(驚き)が必要。勉強も決められた通りにダラダラやるのでなく、時には「集中して大量に」やることが効果的。

結論。脳の手入れは植物と同じで、(人間は)急には変われない。諦めたら花は咲かない。毎日、毎日手入れを怠らないこと。そして時に驚きを。

有森さんの成功の秘訣は「根拠のない自信」に対して、それを裏付ける「(不断の)努力」があったればこそ、だった。

-おわり-


2011/09/22

やさしくなれる方法?…自分が出来ないことを知る

前回の茂木さんの話はセミナー全体のコーディネーター役として、いわゆる〃方向付け〃を狙ったものだったが、自身の専門分野である「脳科学」の講演も行われた。タイトルは『脳と環境』。

   ※    ※

先の民主党代表選では、「田中角栄さん云々…」から始まった馬淵澄夫さんの演説が一番評判が良かったのに、票は伸びなかった。残念ながら、これが今の政界の現実だ。

また、小沢一郎さんの演説は「そのまま英訳できるほど素晴らしい!」とニューヨークタイムズの記者が褒めているが、やっぱりあの〃悪代官顔〃で損をしているのかな…。

友人の白洲信哉(白洲次郎の孫)も嘆いていた。やはり日本には「プリンシプル」(原理原則)は根付かないのだろうか、と。

記者クラブの問題で言うと、小渕恵三総理の時代に一度、加盟社以外にも開放するという動きがあったが、内閣記者会につぶされた経緯がある。

最近では、小沢さんがその方向で頑張っているようだが、まだまだNETの世界にとどまっている。

今度の東日本大震災にしても、パターナリズムと言うか、「政府や東電は絶対に間違わない」という硬直化した考え方が問題をややこしくしている。要するに、国民が国離れできていない証拠だ。

ただ、こう言っては何だが、それらは〃前提〃が整っていないというだけの話で、特段、誰も悪意をもってそうしているのではない。単純にその〃能力〃がないということだ。

だいたい日本の大学全体がガラパゴス化していて、まったくもって「研究機関」の呈をなしていない。東大もダメ。唯一、立命館大学のAPUのみが存在価値がある。

もっと実情をあけすけに言うなら、日本の大学のほとんどの教授がもう目一杯の状態で、記者は「政策」でなく「政局」にばかり喜んで記事を書く。

色々と求めてみても、子どもに「勉強しなさい」と無理強いするようなもの。言われたからといって、子どもたちが勉強するわけがないでしょう!

私は現在48歳。今はこう肥っているが、昔は腹が幾筋にもタテに割れていた(笑い)。風貌的には作家の椎名誠さんに似ていると思う(さらなる笑い)。

そこで、昔のように再び筋肉を鍛え上げようと思って、友人の黛まどかさん(俳人)を介して、ご本人に確認してみたら、どんなに酒を飲んでも、腹筋とスクワット200回だけは毎晩欠かさないそうだ。

これなんかもう私にはもう土台無理な話。誰からどんなに言われたって、出来ないものは出来ない、のだから。

ただ人間は、やろうと思っていても〃出来ないこと〃を思い出せば、他人にやさしくなれるから不思議だよね。

-つづく-


2011/09/21

変化時に大切なもの…夢・希望・プリンシプル…

些か書く時期を逸してしまったが、今月上旬に熊本市内のホテルで開かれた「九州創発塾」(九州7県の新聞社主催)のセミナーは誠にもって面白かった。

筆者も約350人の出席者にまじって熱心に聴講させていただいたのだが、昨夜パソコンに発言要旨をまとめていたら、400字詰め原稿用紙にして20枚を遥かに超えていた。

多くの著名な講師陣の中でも一番聴きたかったのは脳科学者の茂木健一郎さんの話だった。NHKでやっていた『プロフェッショナル』という番組も大好きだったし、著作も何冊か読んでいたからだ。

紙幅の都合上、その全てを紹介するわけにはいかないのでかいつまんでの話になってしまうが、少しでも読者の皆さんの生き方の参考になれば、と思う。

茂木さんの母親は小倉の出身で、子どもの頃にはよく訪れていた、という。そのため、九州には他の地域と異なる、格別の「思い入れ」があるそうだ。

茂木さんが最初に口にしたのは〃郷土愛〃について。「これはもうどうしようもないんですね。貧しかろうが、災害に遭っていようが、人間はみんな生まれた所が大好きで、離れたくない、と思うんですよ」

その上で、大会のタイトルである「創発」(エマージェンス)という言葉の意味を、脳科学者の立場から「今までにない自分に生まれ変わること」と説いた。

例として取り上げたのが14歳の頃の〃自分〃。「皆さん、あの頃のことを思い出してみて下さい。少年少女から大人に変化していたあの当時を」

そこで突然、心理学者で文化庁長官だった河合隼雄さんのエピソードが出てきた。それは河合さんがロミオとジュリエットの舞台裏で急に泣きじゃくったという話。

一瞬、何を言っているのか解かりかねたが、要するに、シェークスピアが描いたあの純愛物語の主役2人の年齢は互いに14歳だったのだそうだ。

職業柄、色んな少年少女のカウンセラーをしていた河合さんは、その多感な心情を慮る余り、涙腺が緩んでしまったのだ、と。

素晴らしい話だと思いませんか、皆さん。それとももうそんな〃感性〃はどこかに置き忘れてしまいましたか?

14歳と言えば中学2年生。確かに茂木さんが言うように、大人になりかけの半端な頃合いで、価値観や秩序もザワザワと大きく蠢きだす微妙な年齢だ。

「でも皆さん、『夢』をお持ちだったでしょう」と語りかける茂木さん。それぞれの〃過去〃を振り返ってか、一斉に静まり返る会場。

そこに向けて茂木さんが〃第一の矢〃を放った。「変わるには方向性が大事。『夢』『希望』そして白洲次郎のいう『プリンシプル』(原理原則)を忘れてはいけませんよ」と。-つづく-


2011/09/20

人間は強欲な生き物…街へ出よう!山に登ろう!

久しく東京に行っていないが、最近は一昔前とは明らかに異なる〃異様な光景〃が電車内にまん延している。そう、犯人(?)は携帯メールだ。

かつては老若男女を問わず、新聞や文庫本を読み耽っている人をよく見かけた。が、今は違う。立っている人も、座っている人も、ひたすら携帯の画面とにらめっこしている。

フェイスブックやツイッターの登場で、これまで誰にも手が出せなかった「独裁国家」が転覆するくらいだから、その影響度は計り知れないが、傍目で見ている限り〃異状〃と言うしかない。

筆者は、人並みすぐれた知恵も力もお金もないが、人間が社会生活を送っていく上で一番大切なのは「バランス感覚だ」という気がする。本当に!!

どんなに知恵がある人でも、独りの力で出来ることは高が知れているし、お金が幾ら有り余ったところで「あの世」までは持って行けない。

料理で例えるなら、テレビ番組で紹介されるような極端なヘビーイーターは別にして、そうそう他人様の2倍も3倍も喰えるものでもないし、「美味いかどうか」は個人の主観の問題である。

前述したように、ツイッター等の最新情報伝達手段の〃実力〃は否定できないが、四六時中パソコンや携帯に向かって「意見」(多くの場合、自己中心的)を吐き出し続けるのは如何なものか…。

誤解を恐れずに言うなら、そうした人々は立ち止まってじっくり考えるという、人間そのものに備わった「思考経路」から逸脱してはいまいか…。

「そんなんじゃ、このスピード重視の時代では生き延びていけませんよ」との指摘も聞こえてきそうだが、必ずしもそうした考え方が〃正解〃だとは思わない。

書店やコンビニに行ってみれば、そのことがよく分かる。投資マネーや情報関連のハウツー本が平積みされている一方で、心の安らぎを呼び戻すための心理学や宗教本のコーナーも段々とその幅を広めていっている。

つまりは、こういうことではないか。人間は一方で「効率」を求め、また他方では「安寧」を志向する、極めて「強欲な生き物」である、と。

読者の皆さんも、実生活に則して考えていただければ、筆者の言わんとしていることもお分かりいただけるのではないか…。

もちろん、それぞれに「夢」や「欲望」も抱かれているであろう。誇るべき「能力」や「経歴」もお持ちのことだと思う。

ただし、所詮人間は「煩悩のかたまり」にしか過ぎない。釈尊も孔子様も今から何千年も前に、その真実を説かれている。

ネットの世界の閉じられた知識や技量だけに頼っていては、道は開けない。街へ出よう!山に登ろう!


2011/09/16

我が事さしおいて…気になる日本語のみだれ

まずもって〃訂正〃から。昨報(16日付)で「ダイエー対西武」とあるのは「ソフトバンク対―」の間違いでした。

ところで、今日付の各紙では文化庁がこのほど取りまとめた「国語に関する世論調査」の結果を報じている。ポイントは2つ。

1つは、本来「い」で終わるはずの形容詞の語尾が、最近は多く「っ」に取って代わられている、というもの。例えば、「寒い」→「寒っ」、「長い」→「長っ」といった具合に。

「若者言葉の特徴」と言ってしまえばそれまでだが、あくまでそれは話す場合であって、いざ文章化するとなると、なかなか馴染まない表記であることは間違いない。

ただ最近は、「ケータイ小説」なる口語体を駆使した新たな表現スタイルも登場しており、いずれ定着していく可能性もあながち否定はできない。

2点目のポイントは、「ら抜き言葉」の普及とともに、端(はな)から「誤用」が一般社会にまん延している、との具体的な事例。前者については今さら説明も要すまいが、後者については、ハタと迷ってしまうのも事実だ。

何はともあれ、本来の「意味」「使い方」について幾つか学習してみよう―。姑息な(○一時しのぎ×卑怯な)、号泣する(○大声を上げて泣く×激しく泣く)、間が持てない(×間が持たない)、声を荒(あら)らげる(×声を荒(あ)らげる)、雪辱を果たす(×雪辱を晴らす)。

筆者などは間違えることが〃常〃であって、ここで色々と語る資格など持ち併せていないのだが、「語る」にせよ、「書く」にせよ、「言葉」が非常に大事なものであることは、重々認識しているつもりだ。

ただし、学者や先生でもない「気楽さ」からか、ついつい「油断」をしてしまう。冒頭の訂正文などもその〃典型〃である。

まったくもって恥しい限りだが、論語にもあるように、「過ちては 改むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ」である。同じような教えが、英語の諺にもあるそうだ。そこにはこう記されている「過つは人の性(さが) 許すは神の心」と。

つまり、人間である以上、過ちは必ずおかすものであるから、そう気にし過ぎることもないか…。〈ひょっとしてこれって「相田みつを」の世界?〉

まあ、それはさておくとしても、今回の文化庁調査に出ているのかどうか知らないが、タレントや昨今の若者たちがよく使っている、「気になる言葉」が2つほどある。

あくまで個人の趣向の問題だが、「鳥肌が立つ」を「感動」「感激」の場面で使っている感性(?)がまず解せない。それから「何気に」というのも。正しくは「何気なく」であろう!

ところで昔、「言葉一つで傷つけて 返す言葉で傷つけられて♪」って小椋佳さんが唄っていたけど、題名は何だったっけ?嗚呼、ここにも「っ」が沢山ある!


2011/09/15

久方ぶりのプロ野球…「汗を流す」ってどういう意味

プロ野球公式戦「ダイエー対西武」(14日夜)のチケット(内野席)を下さる奇特な方がおられて、昨日は仕事を早めに切り上げて福岡へと向かった。

プロの試合を観るのはいつ以来だろう…。5年以上も前に、島原出身の高木邦夫さんがダイエーの社長をなさっていた頃に、多くの島原市民の皆さんとバス仕立てで応援に駆け付けたことを覚えている。

今では「ソフトバンク一色」に塗りつぶされた球場全体の意匠を見渡しながら、佐野眞一さん(ノンフィクション作家)の手になる2人の「カリスマ経営者」のことを、まず想った。

しかし、目の前で「熱戦」が繰り広げられている以上、そんなに堅苦しい事ばかりも言ってはおれない。何はさて措いても、楽しまんば!

とは言っても、最近はあまりプロ野球は観ないので、まずもって選手の名前を知らない。傍らの同伴者(男ですよ!)にいちいち教示を受けながらバカ高いビールを飲んだ。

まあ「場所代」が入っているのだから、少々は目をつぶるとしてもやっぱり高過ぎる。しかし、汗だくになって階段を上り下りしているバイトの売り子さんを見ると、やっぱり「適正」なのか!?

試合は1点を争う投手戦となり、ほぼ満員となった球場全体も次第にヒートアップしていたが、「1対1」の同点となった7回裏終了時点で迷わず席を立った。

それにしても、あの風船の迫力はスゴイ。幾らするのか知らないが、皆さん先を争うようにセット商品を買い求め、一斉に解き放つ。これぞ先代カリスマが追い求めた「消費の美徳」なのだろうか…。

球場を一歩出たら、野球観戦より楽しみにしていた夜の探訪だ。幸い、旧知の友人がいたので、連れ立って舞鶴&中州と飲み歩いた。

いつも思うが、博多の街は素晴らしい。綺麗なオネーちゃんがわんさかいて、呼び込みのお兄ちゃんもさほどしつこくない。

これが東京(新宿や新橋)となると、どうしても「怖さ」が先に立つ。やはり同じ九州人という「安心感」が底流に流れているのだろうか…。

ただ、楽しい夜の宴も12時頃が潮時だ。遅くまで粘っていてロクな事がないのは経験則から熟知している。それより「朝の散歩」と、ホテルに辿りつくなりバタンキュー。

今朝も目覚めは爽やかだった。持参したユニフォームを早速身に付け、昨夜うろついた近辺を中心に歩きまわった。

さすがに中州は不夜城の街だ。ある角を曲がったところで背後からニコニコ顔の青年が近づいてきた。「おはようございます。どうですダンナ、汗を流していきませんか?」。

一瞬、何のことか迷ったが、その場を立ち去りながら、思わず笑いがこみ上げてきた。


2011/09/14

お前ら、絶対来いよ!…泉谷さん〃怒り〃の呼びかけ

地元よりむしろ県外での盛り上がり方がスゴイらしい。今月25日(日)午後3時半から開演する、雲仙普賢岳噴火災害20周年を期して島原復興アリーナの野外ステージで開催される「しまばら復興コンサート」の事前状況だ。

主催は自治労加盟の長崎県や島原半島3市の職員組合で組織する同事業実行委員会。労金島原支店が協賛し、島原市が後援している。開場は2時間前の午後1時半から。

何がスゴイかって、以下に示す豪華アーティスト(敬称略)が出演しながらも入場料無料。すなわち〃タダ〃でゴキゲンな音楽と感動が同時に味わえるという、願ってもない好企画なのだ。

で、その顔ぶれは?まずもって、泉谷しげる。災害が最も激しかった頃に、今や国民的アイドルにまで成長した福山雅治を〃前座〃に従えてやって来た、アノこわ~いお方だ。

その後も当地域への思い入れは強く、島原城での年越しカウントダウンは一時期恒例行事となり、当時の吉岡市長が「島原観光大使」の辞令を出したほど。仮に地元の出足が鈍いようであればこう叫んで水をぶっかけるに違いない。「バカヤロー、俺が出るのに何で来ないんだ!」と。

その他の布陣も負けてはいない。『22才の別れ』や『なごり雪』などの名曲で一世を風靡した伊勢正三にイルカ。それに『雨音はショパンの調べ』の尾崎亜美、『翼をください』の山本潤子(赤い鳥)ら。

過日のニュースでは、食道がんの病から復帰した桑田佳佑が東日本大震災の被災地で大がかりなチャリティコンサートを開いたことを報じていたが、もちろん島原のコンサートでもその〃思い〃は同じだ。

ただ、少しだけ違う意味合いを探すとすれば、アノ噴火災害から20年経った、今の島原の〃元気な姿〃を、全国の皆さんに改めてお知らせすること。

「ひいてはそれが、東日本の被災地の人々を勇気づけることにもつながるはず。そうした意味でも、なるだけ沢山の地元の皆さんのご来聴をお願いしたい!」と同実行委代表を務める、島原市職組の森宏伸執行委員長。

現在、出演アーティストの顔写真を刷り込んだ大判のポスターが島原半島内随所に貼られているが、背景の写真(タイトル『普賢岳の夜明け』)がこれまた素晴らしい。撮影者は「星のフォトグラファー」として知られる、島原市職員の内島幸治さん。

そして、そこにはこうした白抜きのキャッチコピーが。「届け、復興の鼓動。島原から全国へ」。東日本被災地への思いは「忘れられない悲しみや 忘れてはならない悲しみも あなたの笑顔が癒してくれる 心から笑える時を この島原(まち)から祈っています」と。

問い合わせは62-2655まで(平日9時~17時)。


2011/09/13

隆平先生も思わず唸る…本物のプロに出会えた歓び

11日開催した「第44回親和銀行杯・カボチャテレビ杯合同囲碁選手権大会」(島原半島囲碁まつり)は過去最高の110人の参加者で大いに賑わった。

最大の理由は特別ゲストにプロ棋士の知念かおり四段を招いたこと。水田正和vs松本直太の〃師弟対決〃となった代表決定戦(結果は水田さん勝利)の「大盤解説」はもとより、一人で複数(2人~4人)を相手にする「指導碁」でも圧倒的な〃格の違い〃を見せつけた。

さしもの中村隆平先生(島原囲碁連盟会長)も対局後の感想をこう呟いたそうだ。「やっぱ(プロは)強か」と。

ところで、昨今はいずれの業界においてもアマチュア流行りである。政界は言うに及ばず、芸能界などもその最たるもので、素人にちょっと毛が生えたような芸人もどきが相も変わらない〃楽屋話〃で盛り上がっている。

長引く経済不況のせいでCM収入が激減していることを考えれば、番組制作費の切り詰め(民放各局)は、ある程度仕方のないことかも知れない。ただ、このままいけば、益々NHKの〃独り勝ち〃の状況が続いていくだろう。

主催者でありながら囲碁のことをまったく知らない筆者を称して、口さがない弊社のスタッフ連中は「ブタに碁盤」と蔑むが、傍目に見ていても「プロ」と「アマ」の違いくらいは見分けがつく。

それはさりげない仕草一つにも現れる。知念さんと2日間にわたって行動を共にしていて、「この人はさすがに『プロ』だな」と感じる局面が多々あった。

今さら言うまでもなく、プロとは英語の「プロフェッショナル」を縮めたもの。さらに解説するなら、プロは「前に」という意味の接頭語で、これに「言う」という意味の動詞の「フェス」が付いた形だそうだ。

回りくどい言い方をしているが、要するにこういうことだ。「多くの人々を『前にして』『公言する』」という宗教的な意味合いをも持つ崇高な行為だ、と。

知念さんに色々とお話を伺う機会があった。生まれは沖縄の宮古島で、現在37歳。プロ棋士のご主人との間に3人の子供さんがいる、という。

〃この道〃に入ったのは小学5年生の時。全国選りすぐりの〃俊英〃が集う日本棋院の中で〃頭角〃を現すのは並大抵の苦労ではなかったはずだ。勿論、才能もあったろうが、それだけにとどまらない所が「プロへの道程」の厳しさであろう。

沖縄人独特のその風貌は、アメリカを主舞台に活躍している女子プロゴルファーの宮崎藍選手を思わせる。語り口もいたって穏やかだが、いざ勝負!となると〃鬼神〃に変身する、とか(囲碁・将棋チャンネルスタッフ談)。

大会を無事終えたことが何よりだが、本物のプロに出会えた歓びもまたひとしおである。


2011/09/12

街中で〃コケコッコー〃…熊本城で朝の散策を楽しむ

先週末は対岸の熊本に渡って、沖縄を除く九州7県の新聞社が合同で開催した「九州創発塾2011熊本大会」なるセミナーに出席してきた。一言で印象を述べるとすれば、「大変参考になった」と思う。

何より講師陣が素晴らしかった。総合コーディネーター役は今をときめく脳科学者の茂木健一郎さん。竹中平蔵さん(慶應大学総合政策学部教授)や、宮崎緑さん(千葉商科大学政策情報学部長)ら豪華ゲスト陣が脇を固めた。

セミナーの内容についてはいずれ日を改めて紹介するつもりだが、よほどのことがなければ滅多に泊まることもない、近くて遠い街「くまもと」に泊まって色々と考えさせられたことも事実だ。

筆者に割り当てられた宿はセミナー会場の日航熊本から歩いて5分ほどのアークホテル。すぐ目の前には坪井川を挟んで、NHK熊本放送局。さらにその奥には熊本城が控えており、ロケーション的には、まさに〃一等地〃だ。ただ、初日の晩は夜の街に繰り出すこともなく、早めに床に就いた。

狙いは至極単純。ふだん「島原城」でやっていることをそのまま「熊本城」にスライドさせることにあった。深酒をしていないせいか体調はすこぶるよく、時計に頼ることもなく5時前にはパッと目が覚めた。

と、どこからともなく鶏の鳴き声が聞こえてくるではないか。謎はすぐに解けた。ホテルの隣が熊大教育学部付属の幼稚園で、恐らくそこで飼育されているものだろう。

前日、パルコ内のスポーツ店で仕入れたばかりのウォーキンググッズを身にまとって表に出た。当然、日の出前の時間帯だからまだ暗い。

人気のない大通りを渡って、早速城郭コースに入る。ある程度坂道を登りつめた辺りに明かりが点いている店があった。中を覗くと、はちまき姿の若者が数人、小型バイクのチューニングに汗を流していた。

大津のホンダ技研のレース場で走るのだろうか…。いずれにしても「肥後もっこす」と言うか、熊本らしいな、と感心しながら歩を進めた。

空がうっすらと白み始めた頃合いを見計らったかのように、一斉に歩く人の数が増えてきた。声を掛けていいものかどうか迷っているうちに、「おはようございます」と先手を打たれてしまった。

そうか、挨拶はいずこも同じか!今度は自分から進んで。何とも清々しい気持ちだ。

自分としてはホテルまでの歩行ルートを定めていたつもりだったが、熊本城が余りに大きいものだから、いつの間にか道に迷ってしまった。

そうこうしているうちに辿りついた先は「○○○」という大きな斎場だった。〈まるで人生のようだ〉と苦笑するしかなかった。


2011/09/08

ACのルーツは関西…耳に痛い「ぱなしのはなし」

東日本大震災発生直後、テレビCMの自主規制の中で繰り返し&繰り返し流されたおかげで、すっかり耳になじんでいた「ポポポポーン」とかいったACの広告も最近はすっかり見かけなくなってしまった。

被災地の本格復興は手つかず状態ながら、日本経済はそれなりに復調の兆しを見せ始めているということだろうか…。ところで、「AC」って一体何だ?

現在の正式名称は「公益社団法人ACジャパン」と言い、一般的には、「公共広告機構」(1974年発足)という名で広く知られてきた。

ところが、調べてみて初めて分かったのだが、その原型は「関西」にあり、サントリーの当時の社長、佐治敬三さんがその3年前の1971年に創立されている。名前もズバリ「関西公共広告機構」。

サントリー(前身・壽屋)の宣伝部は山口瞳、開高健の当時より、何とも言えない「ユニークな広告」を数多く世に送り出してきたことで知られる。

ちょっと思い出すだけでも、ついニンマリしてしまうような「名作」の数々が次々と浮かんでくる。紙幅の都合で個々の作品を取り上げている余裕はないが、それ自体が「見事な文化」であることに、誰も異論はあるまい。

そうした発足の経緯もあってか、「ACジャパン」の理事長は現在、息子の佐治信忠(サントリー現社長)が引き継がれている。これも初めて知った。

震災後の集中放送で「ポポポポーン」も「金子みすゞ」も随分と有名になったが、個人的にはその前に流れていた「ぱなしのはなし」が特に気に入っていた。

見るからにハーフ顔の女性タレント(豊田エリーさんと言うらしい)がニコニコしながら出てきて、「だしっぱなし(シャワー)、さしっぱなし(電源)、開けっ放し(冷蔵庫)…はダメよ」と、可愛らしくバツマークを出していたやつだ。

ここで言う「ぱなし」を漢字で書くとすれば、当然「放し」ということになろうが、改めて世の動きを眺めてみれば、何と「ぱなし」の多いことか!政治家は「言いっぱなし」だし、かくいう筆者も「やりっぱなし」の連続である。

やはり一人前の人間でありたいと願う以上は、何でも「ケリ」「ケジメ」を付けなければならない。それが大人としての「責任」である。

よく「自由と放縦とは違う」と言われるが、人間は勝手な動物で、まま勘違いを犯してしまう。そしてトコトン追い詰められたら、こう叫ぶ。「要らん世話たい!」と。

かと言って、『木枯らし紋次郎』のように「あっしには関わりのねぇこって」なぁ~て〃逃げ〃をうってばかりもおられないし、とかくにこの世は住みにくい、って話。


2011/09/07

一字変えれば大違い…懐かしい日教組全盛時代

今朝(7日)の読売新聞『編集手帳』には、先の小宮山洋子厚労相発言を引き合いに出して、面白い話が書いてあった。

昭和32年制作の名コピー〈今日も元気だ たばこがうまい〉も一字変えれば、〈今日も元気だ たばこ買うまい〉になってしまう、と。

その〃枕〃となっているのが「世の中は澄むと濁るで大違い」という箴言(しんげん)で、職務に忠実な余り飛び出た感のある新米大臣発言のオカシサを取り上げ、辛辣に嗤(わら)っている。

確か、くだんの名コピーを冠したポスターの背景を飾っていたのは、赤銅色に日焼けした、はちまき姿のオジさんたちだった。

筆者も印象深く覚えているが、「一服」という表現がまさにピッタリくる、何とも言えない幸せそうな表情であった。

いささか話は脱線するが、小宮山大臣の父君は学園紛争当時に東京大学の総長をされていた、加藤一郎さんである。

ご自身は良家の子女が多く集う成城学園(大学)を卒業後、NHKに入局。看板アナウンサーを経て、政界入りされている。

誤解を恐れずに言うなら、大臣はその成長過程で、はちまき姿のオヤジなど見たことがないのでは…。したがって、肉体労働後の「一服の味」など分かろうはずもあるまい。

ただ、昨今は世を挙げての「健康フェチ」ブーム。至る所で「禁煙」「禁煙」と叫ばれている状況を鑑みれば、無理からぬ発言だったのかも知れない。

恐らく、そうした「追い風」を感じての値上げ必要論だったのだろうが、どうにもあのニヤニヤ顔がいただけなかった。それに、あんなに「美形」だったのに、随分とお年をめされたことも、ウーン残念!

続いてのコラムは同日付の日経新聞『春秋』。こちらでは、野田内閣人事は「日教組色」が強過ぎないか、と疑念をぶつけている。

私事だが、筆者の中学時代は、日教組全盛の時期ではなかったか。専門教科の先生はおられず、放課後のクラブ活動に顔を出されることもなかった。

今でも鮮明に覚えているのは、体育の先生が受け持った国語の授業。教科書を順番に棒読みさせ、読み間違ったら次々と代わっていくという、何とも安直な進め方であった。

ただ、その当時は特段疑問に感じることもなく、それが普通だと信じ込んでいた。ある時、「電報文」の書き方を学ぶ授業があった。

「カネオクレタノム」という例題で、「文章は区切り方によって違ったものになる、という教えだった。「金送れ、頼む」と読むか、はたまた「金遅れた、飲む」なのかと。

そうした授業を受けながら、「大人の世界はウカウカ当てにならないぞ!」と後に思い至ったのであれば、日教組教育もそう悪いものではなかったか…。これぞ、清濁併せ呑む?


判っているのに何故?…「僥倖」に頼る人の愚かさ

「来る」と判っていながら、多くの犠牲者が出てしまう。猛威をふるった台風12号の災害報道に触れる度に、何ともやりきれない思いだ。

「経験」と「勘」にしか頼れなかった昔と違って、今の世の中では観測衛星等の進んだ科学技術を駆使して、台風の進路はおろか予想雨量さえ事前に察知できるというのに。

個々に背景は違うであろうから、断定的な物言いは禁句であろうが、何故「逃げるにしかず」を実践できない。それとも、「災害列島」とは名ばかりで、その実は、誤った「安全神話」が国全体にはびこっているのであろうか…。

今回、悲惨な土砂災害と多数の犠牲者を生んだ紀伊半島は、かつて仕事の関係で足繁く通った思い出の地でもある。また、学生時代の友人に、南紀・白浜温泉の出身者もいた。

テレビニュースのテロップや新聞報道で「橋本」や「那智勝浦」といった地名を目にしながら、冒頭述べたように、何とも言えない〃理不尽な思い〃に駆られているのだ。

県境を越えた奈良県の被害も甚大なようである。「十津川村」は所ジョージさん司会の人気番組『ダーツの旅』で取り上げられたし、何より「五條市」は島原城を造った松倉重政公ゆかりの地でもある。

将来、歴史を振り返った時に、この20年間というものは、「日本列島全体に各種の大自然災害が集中した時期」などと一括りにされてしまうのか?同時代を生きた者としては、それではあんまりだ。

とにもかくにも、「教訓」として遺していかないことには、後世の人々に申し訳が立つまい。言い換えるなら「智慧」。

つまり、今の災害対策のありようを見ていると、観測機器等のハードウェアは、当然の事ながら「かつてないほど」に長足の進歩を遂げている。

問題は、それらをどう活かしていくか(ソフトウェア)に尽きるわけだが、これがいつの世でも、例外なく上手くいかないから、困りものである。

一つには「自分に限って」「まさかここまでは」などといった、根拠のない「僥倖」(ぎょうこう)を、人間はつい当てにしてしまう動物である。

「愚か」と言ってしまえばそれまでだが、「そんな甘い状況判断など自分は絶対にしない」と、自信を持って断言できる人は皆無のはず。もし居たら、その人間は嘘つきだ。

おしなべて人は「ギャンブラー」(博徒)である。右に行くか、それとも左か、いつも迷っている。

ただ、住民の生命や財産を預かる行政組織に関しては、事はそう簡単ではない。次々に押し寄せてくる難問を淀みなく捌いていくことが「仕事」として求められるからである。

しかしながら、それも百%は無理。おっつけ、個人の判断に委ねられる。それが娑婆に生きる者の宿命だ。〈何を、偉そうに!?〉


2011/09/03

神は細部に宿る!!…生きているだけでも幸せ

誰が言ったのか知らないが「神は細部に宿る」とは何とも意味深で、大好きな言葉なのだが、いざ実践となると、これが殊のほか難しい。

つまり、つい「手抜き」をしてしまうのだ。特段「真剣味」を欠いているというわけでもない。一生懸命なのだが、どこかしらで「ミス」を犯してしまうのである。

最近で言うと、『もっぱらマガジン9月号』への寄稿(妄言多謝)の中で、ペリー黒船来航から「4年後」とすべきところを「3年後」とやらかしたし、昨報では「~で見せた」を同じ文章の中で2度も使ってしまった。

まったくもって「ポカ」の連発でお恥しい限りだが、これなどは「今日が人生最後の日」との悲壮な決意でアップル社の経営に心血を注いできたスティーブ・ジョブズ氏(前CEO)とは見事なまでに〃対極〃をなす。

とは言っても、「しょせんオイラなんか虫けら同然だし…」という開き直りの気持ちがないわけでもない。そんな矮小な考え方を抱きつつ、窓の外を眺めていたら、日除け用にと育てていたイロハモミジが枯れかかっているではないか。

おかしい?毎朝、毎夕、一日も欠かさず水遣りしてきたのに…。怪訝な面持ちで表に出てみると、昨日まで見かけることもなかった毛虫の群れが、木全体を覆い尽くしていた。

「こりゃイカン!」とばかりに、昨年買って倉庫に仕舞い込んでいたスプレー式の殺虫剤を思い切り撒いた。すると、10分ほど経ったあたりからボタボタと地面に落ち始めた。その数、百匹前後。

しかしながら、中にはしぶといのがいて、ノラリクラリと葉を食んでいる。が、そのうちに薬が効いてきたと見え、最後はロバート・キャパが撮った戦場写真の兵士のような格好で仰向けに崩れ落ちていった。

「ザマーミロ!」などとは思わない。これとて立派な〃殺生〃である。何だか、余計に切ない気持になっていたところに、たまたまその場を通りかかった社員氏が語りかけてきた。

「毛虫ですね。うちなんか裏手が山林ですから物凄いですよ。一斉に葉っぱを食べている時は『サワ、サワ…』といった音が聞こえてくるんですから」―。

悠然とその場を立ち去って行くやや寂しげな後ろ姿を眺めながら、「サワ、サワね…」と、意味もなく呟いていた。と、そこで急きょ思い付いたのが「なでしこジャパン」の澤穂希主将のこと。

そうだ!今晩(1日)からロンドン五輪のアジア地区予選が始まる。何はさて置いても、「日々草」後の花壇には「なでしこ」を植えることにしよう。

諺に「一寸の虫にも五分の魂」というけど、虫にも劣るオイラにそんな知恵などないか。生きているだけでも幸せ、と思わねば!


2011/09/02

人を呪わば穴二つ!?…総理も筆者も「泥」が売り

先の花火大会での転落事故以来、「ドブ男」の呼称が定着してしまったか?先日も商工会議所事務局から「その後調子はどうだい、ドブ男君?」という冷やかしの電話がかかってきたくらいだ。

もっとも、母や家人などからは「『ド』は『デ』に換えた方がよかっじゃ?」といった、さらに辛辣なご指摘もいただいており、外見&内心ともどもに腹ふくるる思いでいる。

ただ、いずれにしても〃事実〃であるから容認しないわけにはいかないのだが、少しだけ〃反論〃の機会をいただくとするなら、筆者ほど今日のトレンド(潮流)に乗っかった人間はいないのではないか…。

少し前には、フジテレビの日曜ドラマ『マルモ(・・・)のおきて』が大ブレークしたし、大方の当初の予想を裏切って総理の椅子を射止めた野田佳彦氏は、「ドブ男」の親戚の「泥臭いドジョウである」と自らをなぞらえておいでだ。

しかし、それより何より、石川県かほく市の海岸で起きた若夫婦(ともに23歳)の「落とし穴転落死事件」にはビックリした。筆者の事故よりわずか2日後(27日)の出来事であったから、余計に背筋が凍りついた次第だ。

事件の概要についてはすでに報道されているように、誕生日を迎えた夫を驚かそうと、妻が友人とともに仕組んだ「イタズラ企画」だったが、何をどう間違ったか、取り返しのつかない〃悲劇〃に転じてしまった。

「人を呪わば穴二つ」という古い諺があるが、この場合は、軽い気持ちで掘った一つの穴が、夫婦ともに葬られる「墓穴」となってしまったわけだ。何とも慰め用の言葉もなく、心よりご冥福を祈るのみだ。

「訃報」の話ばかりが続いて恐縮だが、俳優の竹脇無我さんが先月21日、67歳で亡くなったニュースもショックだった。

NHKの看板アナウンサーだった父を持つ竹脇さんは、クールな二枚目として売り出し、向田邦子さん脚本の『だいこんの花』(テレ朝)で見せた森繁久弥さんとの親子コンビで見せた演技は絶妙であった。

向田さんが飛行機事故(台湾・遠東航空)で亡くなったのは、1981年の8月22日。奇しくも、竹脇さんの死の翌日が満30年目の命日であった。

そうした中でこんな不謹慎な事を書けば、皆さんきっと不快に思われるだろうが、実は筆者は若い頃、「竹脇無我によく似ている」と言われていた。「そりゃ、目が2つあって、真中が鼻で、眉毛2本に、口1つ」などといった話でなく、本当にそういう評価だった。

自分自身で調子こいて当時酒場などで名乗っていた芸名は「竹脇無知」。今にして思えば恥しい限りだが、大好きだった向田さん、森繁さんに続いて竹脇さんまでも…。本当に世の中って〃無常〃である。


2011/09/01

福澤諭吉56歳の貌(かお)…よく見て!一万円札の画像

皆様お手持ちの一万円札に刷り込んである肖像画は、慶應義塾の創始者として広く知られる福澤諭吉先生のものである。では、何歳当時のものか?

答えは1891年(明治24年)、56歳のころだそうだ。知ったかぶりした言い方で恐縮だが、齊藤孝さん(明治大学文学部教授)が編んだNHKテレビテキスト『100分de名著』の7月号(学問のすゝめ)にそう書いてある。

その齊藤教授の講演会が島原商工会議所青年部の創立30周年記念イベントとして11日午後6時から、島原復興サブアリーナで開かれる。入場は無料だが、整理券を発行しているので、詳しくは同会議所(☎62-2101)まで。

演題は「人間関係を作るコミュニケーション力」で、「生きる力を育てる学力(まなぶちから)」との副題が付けられている。齊藤教授に関しては、『声に出して読みたい日本語』以来のファンなので何とか聴講したいのだが、当日は色々と行事が重なっていて、ウーン?

閑話休題―。筆者がここで言いたいのは、商工青年部の活動内容の紹介でもなければ、齊藤教授の経歴云々でもない。要するに、「50代半ば」(アラウンド・ヒフティー)の貌(かお)の話である。

お手元の福澤翁をよく見つめていただきたい。もしお持ちでなかったら、ちょっとだけ周りの人に拝借してでも。どうです、とても今時の56歳とは思えないほど「貫録十分」だとは思いませんか?

やはり、自分の「志」に沿って、難事をものともせずに真剣に生き抜いてきた人の表情には、得も言えない「迫力」というか「凄み」が漂っていますよね。

ところで、新首相の野田佳彦さんは54歳。暴力団との繋がりが明るみに出て、突然、芸能界を去ったタレントの島田紳助さんは55歳。

いずれも「その道」で名をなした現代のお二方だが、「風格」という点においては、まだまだ福澤翁の足元にも及ばない。まあ、比べること自体が極めてナンセンスであるが…。

それにしても、だ。洋の東西、古今当代を問わず、人間と言うのは不思議な生き物で、「人となり」は必ず、その人物の「顔付き」に滲み出てくるものである。

もっと直截(ちょくさい)な言い方をすれば、いくら金を持っていようが、その人の「心根」が貧しければ、それと比例して「風貌」は貧相なものとなる。

題名もそのものズバリの『風貌』という写真集(小学館)を、写真家の土門拳さんが遺している。筆者も折に触れて頁をめくっているが、やはり一家をなした人は例外なく「素晴らしい貌」をされている。

私事だが、筆者も一万円札の福沢翁と今月「同い年」になる。少しは自分の「貌」にも責任を持たねばと思うが、生き方そのものが「ドブ男」で「チャラ男」では手の施しようもないか…。