2011/06/26

ペテンは現実か!?…固執は〃死神〃に通ず

「辞めろ!」「いや辞めない!」―。〃約束〃を反故(ほご)にされた前首相が、居座りを続ける現首相を痛烈に批判した言葉は「ペテン師」だった。

筆者などは「養子」の身であるから「師」や「士」が付く役職(仕事)に、つい憧れてしまうわけだが、それでも「ペテン師」呼ばわりだけは、まっぴらご免こうむりたい。

そもそも「ペテン」という言葉はどういう意味なのか?何故「詐欺師(さぎし)」のように漢字で書かないのだろうか…などと素朴な思いで広辞苑(第六版)を引いてみると、語源は「弓偏に并」と書く中国語(bengzi)が訛(なま)ったものだという。

意味そのものは日本語における「詐欺」と同じだが、カタカナ表記されることで「より怪しさが増す」と言ったら、ちと言い過ぎか…?

話はまったく変わる(言葉遊びだ)が、直木賞作家・津本陽さんが織田信長の生涯を描いた歴史小説に、『下天(げてん)は夢か』という作品がある。

1986年から足掛け3年間にわたって日経新聞に連載され、ビジネスマン層を中心に多くの支持を得た作品だ。後に講談社と角川書店で文庫化。

混迷を極めた戦国の世で、信長の名を一躍有名ならしめたものは、今川義元率いる大軍勢を〃奇襲〃攻撃で打ち破った「桶狭間の戦い」(1560年)。

そしてまた、天下を取った信長が、明智光秀の〃謀反〃に遭って非業の死を遂げたのは「本能寺の変」(1582年)だった。

してみると、幕末の坂本龍馬と並んで日本人一般が最も好む歴史上の英雄として位置付けられる信長の人生は、〃奇襲〃に始まり〃謀反〃で幕を閉じていることになる。

別な表現をとるなら、今昔を問わず、政治の世界では「ペテンの世渡り」こそが帰趨(きすう)を制してきた、言えるのではないか?つまり、「ペテン」とは紛うことなき「現実」(政治上の常套(じょうとう)手段=いつもの手)なのである。

少し前の週刊誌上で、政治評論家の三宅久之さんと田崎史郎さんが「新旧首相対決」の構図を面白おかしく論じていたが、誰が見ても前任者の〃間抜け〃ぶりばかりが際立った三文芝居だった。

ただ一方で、「策士、策に溺れる」という昔からの〃金言〃があることも忘れてはなるまい。いかに言を左右して首相の椅子に居座ろうとも、いずれか〃答え〃は出る。

ハッキリ言って、現首相は、前首相が指摘したように「ペテン師」である。それは原子力発電政策について「所信表明」で述べた内容と、その後の「変節ぶり」を見比べれば、火を見るより明らかだ。

それでも総理の座から恋々として離れようとしない。その様子を見て、誰かが巧いことを言っていた。「余りにしがみつこうとすれば、いずれ死(し)神(がみ)が付きますよ」と。


2011/06/18

震災孤児・阪神の3倍…東日本大震災から100日

東日本大震災から100日が経過した、という。これから果てしなく続く「復旧・復興」への道程の遠さを想えば、被災現地の人々にとっては単なる〃通過点〃にしか過ぎまい。

それでも、マスコミは騒ぐ。「国は、政治家は、東電は…何をしているのか?」と。そうした論調の中で、ふと目にした関連記事2つ。1つは「生活保護打ち切り」のニュース。そしてもう1つが「震災孤児」の話題。

前者については、普賢岳噴火災害当時に、「特別立法を制定してでも何とか被災者を救ってほしい!」と必死の訴えを行った鐘ヶ江島原市長に対し、「そのために生活保護があるではないですか」と冷たく言い放った、とされる某大蔵大臣のことを思い出す。

ここ数日、新聞各紙が取り上げているのは、東電からの「仮払い補償金」や「震災義援金」は〃収入〃と見なして、地元の自治体が「生活保護」を停止した、という事態だ。具体的に数字を挙げると、福島県南相馬市で約150世帯、同いわき市で2世帯。

バブル景気が崩壊したにせよ、まだ幾分かその余韻がくすぶっていた20年前と、長きにわたって青息吐息の経済情勢下にある現在とでは、随分とその受け止め方にも違いがあろうが、しょせん「役所仕事」とはそんなものである。

ただ、勘違いしてならないのは、役人その者が悪いのではない。「規則」(法律)に則って仕事をするのが「公務員」という職業の依って立つべき「原点」である。

むしろこうした局面において、我々一般庶民が望むべきは「政治の力」である。端的に言えば、「選挙」という国民の洗礼を受けた先生方にもっと頑張っていただかないと、「復旧・復興」どころか、先行きはいつまで経っても覚束ない。

かつて「ミスター円」という〃称号〃を冠されていた榊原英資さん(元大蔵官僚)が16日付の産経新聞紙上で『民主党よ大人になって官僚使え』との見出しで、「政治主導」の掛け声ばかりが勇ましい現政権の在り様に苦言を呈している。

確かこの方は、その発言傾向から、政権交代以前は「隠れ民主党」とまで言われていたと記憶しているが、現政権の余りもの不甲斐なさに「菅総理の手法じゃもうアカン」という断を下されたのだろうか?

まあ、おっつけ「民主」にせよ「自民」にせよ、新しい日本国のリーダーが選ばれることになろうが、事は「生活保護」云々の問題ばかりではない。今回の災害で両親を失くしてしまった「震災孤児」は阪神大震災当時の3倍に相当する206人もいる、という。

原発事故の被災者はもとより、こうした「弱者」を救えないような「先生方」の存在って、一体何なのだろう?「100日」という節目を機に、どうか震災対策の「潮目」が変わりますように!


2011/06/16

都会で成功したアナタ…カスで悪うございましたね!?

誰がそんなことを口走ったのか「犯人捜し」はしないまでも、無性に腹が立った。その苦々しい思いは時間が経つにつれ、余計に強まるばかりだ。

過日、筆者の記事を読んだという、とある県外在住者が、わざわざ弊社まで訪ねて来られた。きちんとした肩書きのある、大変に生真面目そうなお方であった。

初対面ではあったが、こちらが驚くほど随分と熱心に「自説」を展開された。ちゃんとしたデータの裏付けもあり、当方も膝を乗り出してその説明に聞き入っていた。

ところが、次の一言を耳にした途端、頭から冷水を浴びせ掛けられたような気がして不愉快になった。曰く―「地元に残っている連中は『カス』ばかり、と知り合いの島原半島出身者が嘆いていた」と。

もちろん、訪ねて来た客も「発言者」の氏名など語りもしないし、当方とて知ろうとも思わないが、随分と失礼極まる言い草ではないか!

先般、普賢岳噴火災害から20年の歳月が流れたのを機に、シンポジウムが開かれ、島原半島全体の在住人口が被災前に比べて3万人近くも減っている、という逃れようもない「現実」を突き付けられた。

確か、そのデータを発表したのは着任後間もない島原振興局長さんであったが、改めて慄然とした思いを抱いた聴衆も多かったことだろう、と思う。

手元に資料がないのでいつの年代が人口のピークであったか知る由もないが、単純に3万という数字だけで考えれば、旧1市16町体制に置き換えるなら、3町~4町の住民がこの地から忽然と姿を消した、に等しい。

これは、ひとり行政に限らず、地元で様々な事業を営む市井の人間にとっても、死活につながる「大問題」である!

そんなことは、日本の「地方」(田舎)と称されている場所では至極当たり前の話であって、特段、筆者ごときが改まって気色ばむ必要もあるまいが、少なくとも何であれ、我々はこの地で生き抜いていかねばならない!

噴火災害当時、古里の「実情」を見るに見かねた出身者の方々が物心両面にわたって支援の手を差し伸べてくださった。20年という時は流れたが、本当に本当に得難い体験であった、と深く心に刻んでいる。

いま改めて思い出す言葉がある。混乱極まる中で、宮本秀利さん(宮本造園社長)が出身者へ向けて発した次のようなメッセージだ。

〈効率・金銭面だけで考えれば、田舎の暮らしぶりは間違っているかも知れない。ただ、ここには『ご先祖様』が眠っておられる。我々の最大の責務はその墓守である!〉

前段の「暴言」の主に「カスの立場」もわきまえず敢えてお訊きしたい。貴方はまったく独りの力で大きくなったのですか?


2011/06/14

深夜放送は〃方言〃で…頑張っている東北の各局

どちらかと言うと「雨男」のはずなのに、東京に出かけていた先週末は不思議とそのジンクスから逃れた。それでも梅雨シーズン特有の湿度の高さは都会地でも同じで、ちょっと移動しただけでも、贅肉の隙間を縫うように大粒の汗が流れ落ちていった。

一般社団法人・日本コミュニティ放送協会(JCBA)の定時総会があり、部下とともに出席してきた。会場は浜松町にほど近い「アジュール竹芝」。小涌園と同じ藤田観光系のシティホテルだ。

例年と違うのは、東日本大震災を機に、コミュニティラジオ放送が担う「防災対策」の在り方について、活発な論議が交わされたこと。被災地各局から寄せられた「現状報告」の数々は、まさに傾聴に値するものばかりだった。

そのうちの一つ、福島県いわき市にある「いわき市民コミュニティ放送」の社長さんと担当者の話が特に印象に残った。なぜなら、同社の対応の指針となったのは、阪神大震災当時(1995年)に、実際に被災現場で活躍した神戸市内のミニFM局の動きだったそうだからだ。

こう言ってはなんだが、やはり現実問題として「自然災害」の凄まじさを身を以って体験していない限り、あの「辛さ」「絶望感」などといった心理的負担の度合いは分かろうはずもあるまい。そんな思いで熱心に拝聴させていただいた。

その点で言うと、すでに3年前(調べてみたら本日6月14日が発生日!!)岩手・宮城内陸地震を経験していた「奥州エフエム放送」の現場レポートはさらに強烈であった。

同社の取締役放送局長は、幾分の怒気を込めてこう言い放った。「あのような大混乱の最中でも、火事場泥棒のような卑劣な行為を働いた同業者がいたことは極めて遺憾である」と。具体的な名称こそ明かさなかったが、やはりそういった「不逞の輩」はどこにでもいるんだ!?

被災者向け放送の「要点」についての話は大いに参考になった。曰く「深夜の音楽放送はご法度。避難している人たちを何よりも勇気づけるのは人間の肉声。それも標準語ではなく、方言こそが支えとなる」。

同社は中継基地の流失などでテレビ放送がまったく視聴出来なくなった大船渡と、陸前高田向けに臨時のアンテナを建てて、被災状況や生活情報等に関するニュース番組を今も流し続けている、という。

その他、幾つかの用件を済ませて島原に帰り着いたのは日曜日の深夜。羽田の待合ロビーでは長崎市内の土砂崩れなどのニュースが放映されていたが、大村に降り立った時には月明かりが薄く路面を照らしていた。

仲間内からは「お前が来ると雨になる」と忌み嫌われているのに、本当に今回ばかりはどうしたことだろう?世の中も、人生も、かくの如しか…。


2011/06/07

酒にて風土を考える…早く根付いて「復興のタネ」

普賢岳噴火災害から「20年」という歳月の流れを考える各種行事も滞りなく終え、島原はこれからいよいよ本格的な夏のシーズンを迎えます。

筆者も時間の許す限り会場に足を運び、関係の方々の話に耳を傾け、ひたすら記憶の糸を手繰り寄せてみました。そこで気付きました。忘れてしまった事の何と多いことか!

今さら逆説的なことを言うようですが、何であれ、記憶は「風化」していくものです。これはもう抗いようのない「現実」であり、身過ぎ世過ぎを平穏に送っていく上での人間の「智慧」でもあります。

しかし「だから」と言って、何でもかんでもパソコンの「デリートキー」を押すようには、人間の脳はできていません。嫌な事も、楽しかった思い出も「無意識」のうちに蓄積されているのです。

そうした思いの数々を、地域として集大成したものが「風土」という表現で言い表されるものだ、と筆者は勝手に解釈しています。いかがでしょう?

この「風土」について考える好例を、宮崎康平先生が実に巧みなワザで紹介されています。その真髄を教わり、さらに伝播しているのが早稲田後輩の永六輔さんです。

前にも書きましたが、このくだりだけは、なかなか記憶が「風化」しませんので、敢えて再録させていただきます。

〈旅先で酒を断ることは失礼だ。飲む真似だけでもしなさい。できるだけ大杯をもらって、飲むのができないんだったら、酒の上をわたってくる「風」を飲め〉=『もっとしっかり日本人』より。

どうです、皆さん、詩的な素晴らしい話だと思いませんか?少なくとも筆者は、この例えに脳天までシビレてしまいました。

そうしますと、島原市の山崎本店酒造場の『まが玉・大吟醸』が2年連続で、全国新酒鑑評会の金賞を受けたのは、とても嬉しいニュースです。

少し脱線しますが、先般、島原市医師会の総会の席に社長代理で呼ばれた時に、各テーブルに福島県会津若松市の末廣酒造がつくった『大吟醸・玄宰』(こちらも金賞受賞)というお酒が置かれていました。

最初は怪訝な思いで眺めていたのですが、小島進会長のご挨拶を聞いて得心しました。今回の大震災被災地への医療スタッフの派遣に対しての、現地医師会からの〃返礼〃だったそうです。

最近では、「東北の日本酒を飲もう!」というキャンペーンが繰り広げられているそうです。皆さん、これからは焼酎、ビールに加えて、日本酒もジャンジャンいただきましょう。

最後になりましたが、今日(6日)は二十四節気で言うところの「茫(ぼう)種(しゅ)」。穀物類のタネをまく日だそうです。東日本の被災地に「復興のタネ」が一日も早く根付きますように!


2011/06/03

教えてよ!つばめ君…私はどう生きていけば?

地元紙の記者として、今日あたりは20年前に思いを馳せ、国や自治体の災害対策上の矛盾点などを厳しく断罪する辛口の文章を書かねばならないところだろうが、何分そうした分析能力も気概も持ち併せていないもので…。

そんな〃反省〃にも似た思いを抱きながら事務所前の音無川沿いをトボトボと歩いていたら、巣立ちからまだ間もないと想われる燕(つばめ)の若人が颯爽(さっそう)と宙返りのアクロバット飛行を披露していた。

いや、筆者に見せるためにワザワザ飛んでいるはずもなかろうから、「披露」という表現は当たるまい。無難に「練習」(稽古)とでも言っておこう。

ネットで調べてみたら、日本で越冬する個体もあるそうだが、そもそもの習性は「渡り鳥」であろうから、これから何処へ向かうのだろうか?まあ、いずれにしても音無川で「飛び」を学んだ後は、彼らにも「長旅」が待っていることだけは確かだ。

〈つばめよ 高い空から 教えてよ 地上の星を つばめよ 地上の星は 今何処に あるのだろう♪〉

島原でも中村光利君(ナカムラ広芸社)を中心に圧倒的な人気を誇る中島みゆきさんが2000年代初頭に歌った『地上の星』は、NHKの人気番組『プロジェクトX~挑戦者たち~』の主題歌でもあった。

その曲と何の脈絡もないけど、島原にとって「特別の日」でもある今日(6月3日)を迎えるに当たってふと思うことは、果たしてこの地域、いや何よりもこの自分が「挑戦者であること」をいつしか忘れ去ってはいないだろうか?

あの頃は、それこそ「未曾有」という表現がピッタリくる長期大規模自然災害の幕開けの時期で、いつ終わるとも知れない不穏な空気の中で、気持ちの中にはいつも張り詰めていたモノが充満していた。

それがいつしか、今日の原発事故で言うところの「メルトダウン」(溶解)のような道筋をひょっとして辿っているのではなかろうか…。

もちろん、50代半ばという年齢的なモノからくる体力的な衰えもあろう。ただ、気力は別次元の問題だ。どうして、あの当時には普通にあった「何とかせんと明日はない!」といったような切迫感や生命力が湧いてこないのだろう。

物言わぬ「水の流れ」をじっと見る。鴨長明が今から800年以上も前に『方丈記』の中で語っているように、「淀みに浮かぶうたかた」は一瞬たりともじっとしていない。

さりとて、ボンクラ頭でいくら悩んでみたところで正しい答えなど見つかろうはずもない。これが「浮世」(憂き世?)、「世の中」なんだ。仕方がない。

「つばめよ 川の底から 教えてよ 私の正しい 生き方を♪」。だなぁ~んて、バカばかり書き続けて今日でとうとう900回です。


2011/06/01

「6・3」を前に想う…あれから20年の歳月…

月が替わっていよいよ6月。陰暦で言うと「水無月」(みなづき)であるが、諸説あって、「水が無い月」と今風にストレートに解するのは間違いで、「水の月」なんだそうだ。

まあ、そんな小難しい話はさて置くとして、20年前の島原では「水無川」を舞台に大自然が大暴れした。5月中旬の土石流を皮切りに、続いて溶岩ドームが出現。そして忘れもしない「6・3」。大火砕流が43名もの尊い人命を奪い去った。

20年前の6月2日は島原市議選の投開票日で、昼間は立ち入り規制がしかれていた上木場地区一帯を巡回取材。夜には市体育館に詰めて開票作業を見守った。

横なぐりの激しい雨が降っていた。ちょうど1月前に放送を始めたばかりのカボチャテレビでは「ここぞ!」とばかりに人を配して、生中継で票の行方を追っていた。

結了時刻は午前零時をとっくに過ぎていた。その折、中継スタッフと交わした会話の内容だけは今でも鮮明に覚えている。何となれば、それが筆者にとって「命の分水嶺」だったからだ。

「選挙明けで、今日(3日)は休みじゃろもん」(スタッフ)。「うん。何かあっと?」(筆者)。「天気が回復したら、一日がかりで奥まで入って土石流感知センサーば付けに行くとばってん、一緒に行かん?」。

結果から言うと、激しい雨は明け方になっても降り止まず、筆者は消化不足の感を抱いたまま自宅に戻り深い眠りについた。そして迎えた運命の瞬間…。

「大変だ!大変だ!」の絶叫口調に叩き起こされて雨戸を開けたら、まだ夕刻前だというのに辺りはやけに暗かった。それに何やら焦げ臭い。最初のうちは火事に伴う「停電」かと勘違いしたほどだ。

心配する家族を制して「とにかく『現場』へ!」とカメラを掴んで車に飛び乗った。が、当時はケータイなど普及していない時代で、どこで何が起きているのか皆目見当も付かない。

まず向かったのは、写真仲間が観測ポイントとしていた垂木台地。誰もいない。すぐに踵(きびす)を返して市内に舞い戻り、安中地区を目指した。

市道は多くの車で渋滞。そのうちワイパーが動かなくなり、沿道住まいの人々がホースで水をかけて下さったので、やっとのことで五小の体育館(避難所)まで辿り着くことができた。それから被害の概要を確認出来るまでには、随分と時間を要した。

毎年、「6・3」が近づくたびに、あの時の「切迫した情景」を如実に思い出す。ましてや、今年は「節目」の20年だ。

振り返ってみれば、人それぞれに口では言い表せない様々な思いがあろう。筆者はたまたま生き延びることができた。火砕流に消えた43柱の「無念」に思いを馳せ、島原の「現実」と「将来」について改めて考えている。