2011/04/28

「万能」の千分の一!?…ひとつ拾えば、ひとつだけ…

最近ではすっかり見かけなくなった家庭用品の一つに「ジュウノウ」がある。五右衛門風呂などで薪を燃やした後にカマドの中に残っている灰を取り除いていた、懐かしの道具だ。

今では電気やガスによって風呂を沸かしている家庭が大半だろうから、その〃存在〃を知っている若者などまずおるまい。分かり易く説明すれば、小型のスコップのような形状をしている。

「ジュウノウ」を漢字で書くと、「十能」だそうだ。玄(げん)侑(ゆう)宋(そう)久(きゅう)さんの芥川賞受賞作『中陰の花』を読んで初めて知った。

「ドゥ・ユー・ノウ・ジュウノウ?」な~んて駄洒落を飛ばしている場合ではないが、便利さの度合いを「万能」の1千分の1としたその奥ゆかしい表現に、筆者は勝手に感心した。

IT全盛のこの時代に、なぜ「十能」なのか?自分でも不思議な思い付きだが、事務所前の市道(音無川沿い)を毎朝掃除している際に、その〃必要性〃を感じたからである。

すっかり葉ザクラとなった桜並木の足元には、眉山から飛んで来た砂塵に交じって、朽ち果てた茶褐色の花茎が〃吹き溜まり〃のような様相を呈している。見た目にも汚い。

28日付の日経新聞の一面コラム『春秋』では、犯罪学の「割れ窓理論」を枕に振って、米二ューヨーク・シティのジュリアー二前市長が唱える「危機管理」と「情報公開」に関する卓説を紹介している。

筆者の知る限り、地下鉄の駅構内や車両を綺麗にすることによって、ジュリアー二市政における「犯罪発生率」は劇的に改善された、という。つまりは、「環境は人を制す」と。

ところが、世の中には意地悪な人種が必ずいるもので、いくら丁寧に掃除しようとも、その行為を嘲笑うかのようにゴミや空き缶を放り投げていく心ない連中が後を絶たない。

誠にもって腹立たしい限りだが、粘り強く対応していくしか方法はない。イエローハット創業者、鍵山秀三郎さんの言葉を借りれば、「ひとつ拾えば、ひとつだけ綺麗になる」だ。

ところで、玄侑さんは福島県在住の僧侶だが、この前NHKのテレビを観ていたら、今回の東日本大震災の「復興構想会議」(政府主催)のメンバーにも加わっておられていた。

番組では、司会役のアナウンサーが進行に行き詰まる程「問題の根深さ」が窺えたが、とにもかくにも前を向いて進んで行くしか「対処の術(すべ)」がないのも事実である。

現地入りした人の話を聞けば、死者の腐臭とともに、おびただしい量の「瓦礫」の山また山…が果てしなく続いているそうだ。

出来得ることなら「万能」の機器でもって一気に!と行きたいところだろうが、一方で色んな問題が介在している現実もある。結局のところは、「十能」の積み重ねしかないのか?


さよならだけが人生!?…スーちゃんも宗慶さんも…

好きで&好きでたまらなかったアイドルが亡くなったからといって、わざわざ斎場まで出かけていくような〃情熱〃など持ちあわせていないが、そこまでいってはじめて、本当のファンなのだろう。

25日、東京の青山葬儀所で営まれた元キャンディーズのメンバー、田中好子さん(愛称・スーちゃん)の葬儀には、二千人を超える参列者があった、という。スゴイ!!さすがに我らが青春時代の輝けるスターの一人である。

「享年55歳」というから、筆者と〃同い年〃ではないか。ただ、好みの問題からすれば、学生時代はキャンディーズよりむしろ、ピンクレディーの方に魅かれていた。

今考えれば〃赤面〃の至りだが、パブのステージに上がっては、多くの酔客が見守る中で『UFO』なんぞを歌い&踊っていた。あー恥ずかしい!!

歌手時代のスーちゃんは、何となく魯鈍(ろどん)な感じがした。ただ〃女優〃になってからは違った。黒目がちの大きな眼(まなこ)を輝かせた演技が、段々と役柄に深みを漂わせるようになっていった。そして、何と言ってもあの〃笑顔〃。

ひょっとしたら、早世した義理の妹、夏目雅子さん(女優)のイメージとだぶらせて見ていたのかも知れない。それにしても「佳人薄命」とはよく言ったものだ。

女優、田中好子で一番印象に残っているのは、故・今村昌平さんが監督した映画『黒い雨』の矢須子役。観ているうちに感情を移入し過ぎて、泣き崩れてしまった覚えがある。

原作は文豪、井伏鱒二さん(この方も故人)。井伏さんで思い出すのは、高校時代の現国の教科書に出てきた『山椒魚』。そして、荻窪の住人だったこと。

それと、これはつい最近知ったことだが、「花に嵐のたとえもあるぞ。さよならだけが人生だ」の〃名セリフ〃は井伏さんが編み出したものだそうだ。

田中さんの葬儀では、亡くなる少し前に収録された〃肉声〃が公開された。「天国で、被災された方のお役に立ちたい」―。原作者には悪いが、何だか「さよならだけが人生だ」とはにわかに割り切れないような気もする。合掌。

訃報関連ばかりが続いて恐縮だが、遠州茶道宗家の小堀宗慶さんも24日に亡くなっている。こちらは88歳。

実は、雲仙・普賢岳が噴火する少し前にお会いしている。眉山焼窯元の芝田さんご夫妻に招かれた、雲仙温泉での宴席だった。

「私の先祖は小堀遠州という人でね、広辞苑でも紹介されているんだよ」。調べてみたら、確かにあった。本業の茶道、華道のみならず、和歌、造園、建築の分野でも活躍した一種の〃天才〃だった。

12代目の宗慶さんも東京美術学校(東京芸大)に学んだ才人で、実にカッコよかった。重ねて合掌。


2011/04/25

災害見舞金が次々と…ご紹介が遅れてスミマセン

こんな他愛もない雑文でも楽しみに待って下さっている方もいるもので、しばし休んでいたら「すわ病気では」とのメールが家人宛に届いた。昨夜のことだ。嬉しかった!!中村雅俊さんのヒット曲ではないが、やはり「ひとはみな一人では、生きてゆけないものだから♪」…か?

実はここ1週間ほど他人に任せられない大切な案件に追われ、身動きがとれない状態が続いていた。したがって、各方面の方々に〃不義理〃を重ねてしまっていた。

まずもって謝らねばならないのは、パリー装飾の横田啓(ひろし)社長。亡父・横田豊松さん(元島原市議会議長)の香典返し(10万円)を、東日本大震災への義援金として預かっていながら、記事で紹介するのがすっかり遅れてしまって…。

勿論、寄託を受けた浄財はその日のうちに、市福祉事務所を通じて日本赤十字社に送っていただいたのだが、前述のような事情で誠にもって申し訳ない。

ところで、横田議長さんで思い出すのは、何と言っても普賢岳噴火災害時のことだ。今でこそ各地のケーブル局で市議会の生中継が当たり前のように行われているが、どこよりも早く着手したのは我がカボチャテレビなのである。

20年前の島原はまさに混乱の極にあった。何せ、市議選(開票作業、市体育館)が行われたのは「6・3大火砕流」の前夜。今でも、その時の様子だけは鮮明に覚えている。開局からちょうど1月が経って、初めて迎えた〃生中継〃による開票風景。

梅雨シーズン特有の横殴りの大雨で、中継作業の後、徹夜状態で選挙速報の紙面を組み上げ、夜明けとともに眠りこけた。そこから先の現地の惨状については、もう説明を要するまでもあるまい。来る日も来る日も「火攻め」「水攻め」の状況が続き、街には600人もの報道陣がたむろしていた。

そうした中で開かれた市議会には、幾重にもカメラの放列が並んだ。時の議長が横田豊松さんで、「時代の要請」を瞬時にご理解下さって許可をいただいた、という次第だ。

また、こういう巡り合わせも何かの〃因縁〃とでも言うのであろうか…。逝去後の通夜式が営まれたのは東日本大震災が起きた、まさにその日。啓さんはその「七七忌」(49日)の法要を期して、筆者のもとを訪ねてくれたのだった。

そしてまた今日!この記事を書いているうちに、啓さんの「不知火太鼓」の仲間である宮崎印刷の宮崎好申社長から、同趣旨の香典返し(亡父・宮崎武夫さん、5万円)を預かった。
打てば響くとは、こうした〃連鎖〃の動きを言うのだろうか、と一人ごちた。

【追伸】このほか、「花みずき会」(三宅一光会長)から3万円、「呉服の丸三」(高橋浩二社長)から展示会場での募金(4,502円)もいただきました。


2011/04/13

大きい政治の役割…再び「心が痛む」を考える

前回は「心が痛む」という言い回しについて駄弁を弄してしまったが、つまるところは、そうした使い古された表現でもって、書き手自身が誰からも批判を受けない〃安全地帯〃へと逃げ込んでいないか、という素朴な疑問から湧いたものである。

その矛先は筆者自身へも向けている。決して、未曾有の大震災後に肉親や親族、多くの知己を失くした上に、不自由極まりない避難所暮らしを強いられている被災者のことを慮(おもんぱか)る行為(思考)自体を否定したものではない。仮に、誤解を受けるようなことがあるとすれば、極めて遺憾である。

会社そのものが被災地内にあるような新聞社や放送局は別として、多くのマスコミ関係者や、発表の場を持つ有識者の場合は、率直に言って今次災害からすれば「門外漢」。だからこそ、より冷静沈着な論評が求められる、というわけだ。

では、実情はどうか?背広を着たまま、或いは何不自由ない普通の生活を送りながら、現地から送られてくる様々な情報をもとに、「心が痛む」と紋切り口調で結ばれても…。なかなか「はい、そうです」とは言い難いですよね!?

他人の胸の内までは読み取れないが、恐らくその心中を忖度(そんたく)すればこういうことだろう→「被災者の人たちは大変だろう。しかるに、自分らはこんなに平穏無事な思いをさせてもらっている。これでいいのか?気の毒だな」云々。

災害発生から一月が経って、最近はよく「余り自粛せずにこれまで通りの生活に戻しましょう」といった呼び掛けがなされるようになってきた。それが「(経済的な)国力」を取り戻すことになり、ひいては「被災地支援」にも繋がると。

確かに、そうした側面があることも事実であろう。ただ一方で、「経済的沈滞ムードが国全体を覆っている」と焦ったところで、それはそれで仕方のないことではないのか?個人的にはそう思う。

各種報道によれば、これまでに寄せられた義援金の総額は阪神大震災当時を上回るハイペースで、1千200億円から1千300億円とも言われている。つまり、新聞やテレビ等で被災地の惨状を見るにつけ〈居ても立ってもおられない〉〈義を見てせざるは勇なきなり〉の心境になって、多くの人々(外国人も含む)から贈られたものだ。

「可処分所得」とは、ふだんは余り使わない経済用語だが、要するに多くの庶民や事業所は当面使っても生活や経営に困らない「お金」を「義援金」に回したのである。当然、そうなると、服飾や遊興、福利厚生などの諸経費は削られてしまうのが「事の道理」というものだ。

そこから先は「政治」の問題。薄く広くかける「復興税」の創設がいいのか、はたまた「国債」なのか?主導権争なんかしている場合じゃなかですバイ。きっと、「心」ある官僚の皆さんもそう思っているはずだ。


2011/04/12

今こそ意地を見せる時…「心が痛む」だけでいいの?

数日前から鼻の穴、いわゆる「鼻腔」がカサついて風邪のような症状が続いている。イヌの場合の健康のバロメーターは鼻先が濡れているかどうかだというが、筆者のようなブタにもその〃原理〃がハテ当てはまるのか…?

未曾有の「東日本大震災」から一月が過ぎたというのに、被災地及びその周辺は「余震」でまだまだ揺れている。昨日起きた地震にしても「マグニチュード7」というから規模的には十分過ぎるほどに大きいのだが、これまでと比べてさほどの驚きを感じない。「狎(な)れ」とは怖いものだ。

災害発生以来、色んな識者やジャーナリストによる「分析・検証」が各方面でなされている。どれも一理あり、納得させられることも多い。ただ、皆さん、被災した「当事者」ではないので、見よう、聞きようによってはいささか「無責任」の誹(そし)りも免れない。

かく言う筆者だってそうだ。本当に悲嘆にくれた被災者の胸の内が分かるのか?と問われれば、自信をもって「もちろんです」とは答えられない。これはある意味「仕方のないこと」なのかも知れない。批判を覚悟で言えば、「心が痛む」の一点張りで文をまとめているコラム子の善人ぶりが妙に「鼻」につくのである。

その点、文芸春秋5月号に掲載されている塩野(しおの)七生(ななみ)さん(イタリア在住)のご高説はさすがである。『日本人へ』シリーズ96篇目となる今回のタイトルは「今こそ意地を見せるとき」。

塩野さんが同原稿を書いたのは、災害発生後13日目の先月23日。物書きとしての覚悟を「考(・)え書(・)くこと」としたうえで、自説を展開している―。

〈何よりも重要なことは、日本人の間で、批判や攻撃をし合わないこと。批判だけでは解決に結びつかず、非建設的。外国のメディアに格好な餌を与えることにもなる〉

〈メディアの本性は権力や時の政府に反対すること。日本人の中に『不協和音』を見出せば、鬼の首を取ったかのように(海外メディアは)嬉しがって報道する〉

〈世論調査では、日本人の95%までが日本は復興すると答えた。気概も十分。要は、原子力発電所だけが落ちつけばよい〉

こうした現実の事態を大前提に塩野さんが提案しているのは①イタリアがEU入りに際してとった金融政策(対ドイツ連銀)②古代ローマの「富裕税」③宗教法人への応分の課税―などといった各種「禁じ手」も厭(いと)わない復興諸策。

一方で、「政権維持・奪取」や「(震災後の)票の行方」にばかり気を取られているようにしか思えない現代日本の政治家の動向を痛烈に批判。最後は国民に向け「背筋を伸ばし、視線を正面に向け、毅然として耐えて行こう」と呼びかけている。

スゴイ!!と同時に、己の筆力のなさに改めて「心が痛む」ばかりだ。


2011/04/09

大震災からはや一月…これからは「震後」の時代

「千年に一度」と言われる東日本大震災(3月11日)が起きてから、早くも一月(ひとつき)が過ぎようとしている。朝日新聞社のまとめによれば、8日までに確認できた死者は1万2千787人。安否不明者は1万7千307人。

加えて、今なお15万人以上の人々が不自由な避難生活を強いられている現状を想えば、何とも言葉が見つからない。卑近な事例で恐縮だが、愚息の友人宅(仙台市内)は何とか難は免れたものの、15人もの被災親族を抱えてテンヤワンヤの毎日だという。

今次災害をさらに深刻化させている要因は、原子力発電施設の爆発事故と、その事後処理の問題だ。現在、関係機関の総力を挙げて対策が講じられているというが、いま一つ「全体像」がハッキリしないことで、国全体に不安が募る。

そうした雰囲気の中で「全国地方統一選挙」が繰り広げられているわけだが、本来ならもっと世間の耳目が集まるはずの「東京都知事選挙」が今回ばかりはやけに物静かなままだ。

各種報道によれば、「現職有利」の情勢で進んでいるようだが、果たしてどうか?7人の泡沫候補はさておくとして、それぞれに出自が明確な4人を見比べてみると、「原発」に関しては、「維持・推進」を主張する現職と、「見直しの必要性」を唱える3新人との間では、その「政治的スタンス」は大きく異なる。

ただ、同選挙の争点は原発ばかりではない。築地市場の移転をはじめ、大都市としてのトーキョーが抱える様々な政治課題が山積みだ。現職は事もなげに述べる。「東京は心臓であり、頭脳である」と。なるほど、人間観察の大家、佐野眞一さん(ノンフィクション作家)をして『テッペン野郎』と言わしめるだけの自信家ぶりである。

ただ、「脳」も「心臓」もそれ単体では何の用もなさない。その他の「臓器」、「血管」、果ては「爪」、「髪の毛」等々に至るまで、それぞれに機能を果たしてこその「健康体」である。

もっと直截に言う。東京にとって地方とは、はたまた、地方にとって東京とは一体何なのだろう?

その名を「東京電力」というからには、少なくとも「首都圏内」に発電施設があるものとばかり思っていた国民も多かったはずだが、今回の福島の事故(以前には新潟・柏崎刈羽)で、図らずもその「実態」が白日の下にさらされた。

政治学者、御厨(みくりや)貴(たかし)さん(東京大学教授)が、3月24日付の読売新聞文化欄で語っている言葉が興味深い―。「戦後政治はもう通用しない。震災後は今までとは違う『震後政治』の時代だ」。

その上で、同教授は「救国の異端的人材」の出現を期待しているわけだが、果たして現政界に、関東大震災後の後藤新平・帝都復興院総裁に匹敵するような「人物」が隠れているものだろうか?


2011/04/08

チャンポンで元気付け…SNA機内誌に幸利屋登場!!

本県名物の「チャンポン」を東日本大震災の被災地の人々に味わってもらおうと、長崎・新地中華街の有志14人が7日、宮城県気仙沼市へ向けて出発したニュースが、今朝の長崎新聞で紹介されていた。

心暖まるいい話である。気仙沼市が中華料理の具材に良く使われるフカヒレの産地であるところから、「美味かチャンポンば食うて、元気ば出してもらおう!」と思い立った、とか。

被災地に出向いての「炊き出し」で言えば、阪神大震災の折に、島原半島産の「ソーメン鍋」(地獄煮)がふるまわれたという記憶がある。確か、俳優の渡哲也率いる石原軍団もその手の趣向で被災者の皆さんを励ましたはずだ。

「チャンポン」とは不思議な食べ物だ。ふだん島原にいる間はそうでもないが、県外出張が何日も続くと、帰ってきたら何はさておいても食べたくなる。

この前の東京出張でもそうだった。もう長崎空港に着く前から「今日の晩飯はチャンポン!」と固く心に決めていた。残念ながら、看板に引かれて飛び込んだ諫早の店はいささか期待外れではあったが…。

ところで、SNA(スカイネットアジア航空)の機内誌『リプラス』の3・4月号が「長崎ちゃんぽん・皿うどん解体新書」という特集を組んでいる。

最近は、出張に便利だったANA(全日空)の回数券が廃止になったため、日程が十分にある場合は宿泊セット、それ以外はSNAのネット割引制度を活用している。

したがって、同機内誌を開く機会も増えたのだが、前々から注目していたのは宮崎県副知事から知事になった河野俊嗣(こうのしゅんじ)さんの随筆。余り宮崎に固執せず「オール九州」の視点で書かれている点が素晴らしい!!

「チャンポン」の話に戻る―。最近は「小浜チャンポン」の名前も随分と知れ渡ってきたようだが、やはり〃筋〃からいけば「長崎」、そして発祥の地「四海楼」であろう。

四海楼チャンポンが誕生したのは明治32年。福建省からやって来た陳順平さんが考案した「支那(しな)饂飩(うどん)」がその原型と言われている。名前の由来は福建語の「吃(しゃ)飯(ぽん)」(ご飯は食べたか?の意味)だそうだ。

同誌ではチャンポン・皿うどんの作り方から栄養効果、お奨め店、果てはトッピング、派生商品に至るまで、実に事細かに調べ上げている。

さて、そこで思わず目が留まったのが「島原チャンポン」の項。「底力」と題されたコーナーに、中組町の「幸利屋」の特製チャンポン(アナゴの白焼き入り!!千二百円)と特製皿うどん(千三百円)が取り上げられているのだ。

最後にまったくの余談だが、我がケーブルテレビ業界では武雄市の「井手チャンポン」の評価がすこぶる高い。まだ食うたこちゃ無かばってん。


2011/04/07

普通であることの幸せ…人類の歴史は災害との戦い

「入学式」のシーズンであるが、不思議と自分の分は記憶に残っていない。なら「卒業式」はどうか?こちらもほとんど覚えていない。要するに、大した感興もないままに〃節目〃をすり抜けてきた、平凡な人生だ。

ただ、ガリレオの言葉を借りれば、「それでも地球は回っている」。そうすることで、我が祖国ニッポンでは、世界に冠たる「四季の美しさ」を毎年味わうことが出来るのである。

やや時節外れの「冷え込み」のおかげで、例年にも増して長らく命脈を保ってきた桜の花も、どうやら〃散り際〃を迎えたようだ。桜吹雪が眩しい。

一方で、その他の木々の〃芽ぶき〃が一斉に見られるようになってきた。「何もそこまで!?」と思うほど枝を落とされた紫陽花を筆頭に山椒、柿…などなど、それはもう見事なまでの命のデモンストレーションである。

勝手な想像ながら、東日本の被災地でも、もう何かしらの植物が瓦礫の隙間を縫うように根を付けているのかも知れない…。

「頑張って下さい!」と他人が口で言うのは容易いが、そうした自然の摂理はきっと無言の励ましとなるはずだ。否、是非そうあって欲しい。

数日前、FMしまばらの番組に出演してくださった島原広域圏組合のSさん(災害派遣隊)の言葉が印象的だった―。

「普通に生活できることの幸せを痛感。被災地では水一杯が貴重品でした」「『災害は忘れた頃にやってくる』と言いますが、最近は忘れる間もなくやってくるんですよ」

確かにそうである。数年前の中越・中越沖地震に続いて、今年1月には宮崎・鹿児島県境の新燃岳が噴いた。これまでにも幾度となく書いてきたことだが、人間は自然災害を前にしては〃無力〃に等しい。

だが、完膚なきまでに叩かれても、踏まれても、その都度雄々しく立ち上がってきたのが「人間」である。そしてその傍らにはいつも「植物」がいたはずだ。

まだ被災から一月も経っていない段階でこうした内容の文章を記すことは「KY」(空気が読めない)の典型なのかも知れないが、「悪事は吉事の前兆」という言い方もある。

長い長い戦いになるであろうが、どう被災地の皆さんには「復旧・復興への道程」を諦めないで進んでいただきたい。「KY」にしても「きっと良くなる」と読むことだって可能だ。

筆者自身、今出来ることは各方面から要請のある義援金に応じること、或いは避難施設向けに「小型ラジオ」(電池式)を送ることぐらいで、情けない気もするが、きっとこの思いは通じるはず!!

入学式も卒業式も遥か記憶の彼方だが、火砕流・土石流と阪神大震災の光景だけはこの先も忘れることはあるまい。


2011/04/06

孫正義という日本人…被災者救済に100億円

恐らく「人物」を書かせたら、この方が〃当代一〃だろう。ノンフィクション作家の佐野眞一さんだ。

その佐野さんが最近取り上げたのがソフトバンクの孫正義社長。昨年11月から今年3月にかけて、計11回にわたって、週刊ポスト誌上に連載された。

題名の『あんぽん』は、孫さんの元々の苗字「安本(やすもと)」から引用したもの。その孫さん、今や色んな意味で〃時の人〃である。

直近では、東日本大震災の被災者救済のために、個人資産から百億円を寄付することを発表。ユニクロの柳井正さん(十億円)や楽天の三木谷浩史さん(十億円以上)らと比べてもその額は〃桁違い〃だ。

米誌フォーブス(2011年版)によれば、孫さんは世界の長者番付で113位。日本人では堂々のトップで、総資産は6千723億円だという。

筆者は何もそうした金持ちぶりを喧伝するつもりなどない。むしろ「在日」というハンディをものともせず、徒手空拳の身から今日の地位を築き上げた「人物像」にこそ興味がある。佐野さんの取材も、そこに〃焦点〃が当てられている。

孫さんは昭和32年、佐賀県鳥栖市で生まれた。その後、父の仕事の関係で北九州、福岡などと転校を重ね、高校は名門進学校の久留米大附設へと進んだ。

ただし、そこから先が並みの〃秀才君〃とは違う。2年時に早々と見切りを付け中途退学。単身、米国に渡って「カリフォルニア大学バークレー校」(UCLA経済学部)で学んだ。

余談だが、医者の娘だった夫人とはその頃に知り合い、後に「安本」から「孫」への改名と併せて、日本への帰化も果たす。

若くしてその名を一躍有名ならしめたのは、「シャープ」に売り込んだ自動翻訳機。そこで得た1億円の資金が今日のソフトバンク社の〃出発点〃だと言われている。

ただし、実業家としてのスタートは順風満帆と呼べるものではなかった。会社を立ち上げてすぐ慢性肝炎を患い、数年にわたって闘病生活を余儀なくされてしまうのだ。

そうした苦境の時代をどう乗り越えていったかについては、間もなく上梓されるであろう佐野さんの著作を読んでいただきたいが、とにかく、孫正義という人物は「バイタリティ」と「知恵」の権化であることだけは確かだ。

かつて、島原税務署の関係者から聞いた話がある。「新人の頃、鳥栖駅前の朝鮮人集落に行って〃密造酒〃の摘発をよくやらされたものですよ」と。まさにその地が、日本における孫さんの古里である。

佐野さんによれば、孫さんは日本人以上に日本人であることを強く意識している、という。だとすれば、ソフトバンクという会社は「ジャパニーズ・ドリーム」の〃金字塔〃と言っても過言ではないのかも知れない。


2011/04/05

小説で読む〃大震災〃…白石一郎&吉村昭が描く

平穏なる春の一日。今日も島原の空はどこまでも青く澄み渡っている。折からの冷え込みのおかげで、桜の花はまだまだ元気だ。

時おり仕事の手を休めては、背後にそびえる眉山の姿を拝む。筆者が島原入りする以前、当社現社長の叔父に当たる清水辰一氏(故人)は『対山語』なるタイトルで、本紙々上で健筆を奮っていた。

氏は早稲田露文科を卒業後、教職に就き、公立高校長などを歴任。退職後は専門学校長を経て、オイの営む新聞業を側面から支えた。

さて、その「眉山」(古くは「前山」)の話だが、東北関東地方を襲った今次大震災を契機として、改めて「島原大変肥後迷惑」と呼ばれた寛政4年(1792)の災害に思いを馳せてみる。

史料によれば、地鳴りを伴う山体崩壊によって都合3回の大津波が発生。対岸の熊本・天草合わせて1万5千人もの犠牲者が出た。まさに我が国災害史上における最大規模の〃惨事〃であった。
直木賞作家、白石一郎さんが『島原大変』という短編(文春文庫)を著したのは、雲仙・普賢岳噴火災害直前の平成元年(1989)だった。

時が時だけに、昨夜改めて読み直してみたのだが、迫真の「描写力」といい、類い稀なる「構成力」といい、ほとほとその力量に敬服した次第。

何より素晴らしいのは、物語の中心に常に「ヒト」が存在していること。作家は、自然の猛威に苛まれながらも、人間本来の生命力の強さ・尊さを、物の見事にあぶり出している。

ところで、今年は大正100年であることを、「大同生命」から頂いたカレンダーで知った。災害を語るに当たっては、大正12年(1923)9月1日に起きた「関東大震災」を外すわけにはいかない。

今でもその日は「防災の日」に指定され、全国各地で大がかりな避難訓練が行われているのは、周知の通りである。

諸説あるが、犠牲者は10万人を数え、帝都・東京や神奈川、千葉など、今でいう〃首都圏〃は壊滅的な被害を受け、国の機能は完全にマヒした。

とりわけ、在日朝鮮人や社会主義者に向けられた、官憲主導による辛酸極まる理不尽な仕打ちは、我が国近代史の恥ずべき一頁であろう。

実は、この大震災も同名で小説化されている。著者は『戦艦武蔵』などで知られる吉村昭さん。個人的には、「阪神大震災」(平成7年)の折に、取材先の神戸市内の書店で求め、帰りの車中で貪り読んだことを覚えている。

文末になってしまったが、今月10日まで、長崎市の県立図書館で、このお二方に司馬遼太郎さんなどを加えた「長崎ゆかりの文学展」が開かれている。入場無料。是非お運びを!


2011/04/04

早くもツバメの姿…桜満開!!春爛漫の島原に

しばらく所用で家を空けている間に、島原はすっかり〃春〃と化していた。先週末の夜遅く帰ってきたのだが、一夜明けたら、商高前の桜のトンネルがいつにもまして鮮やかだ。そんな気がする。

実は、それより少し前にも、気の置けない仲間の誘いで、小城公園~南阿蘇~熊本城などを巡る日帰りツアーに参加したのだが、いずれの名所もまだ〃早過ぎ〃だった。

余りアテにもならない〃記憶〃ながら、例年なら北部九州の〃桜の見頃〃は「3月末~4月初頭」のはず。やはり、桜の木も今年ばかりは、東北&関東の被災地に気を遣っていたのだろうか…?

新年度を迎えて仕事始めとなった今日は、前日の〃花曇り〃から一転して、抜けるような青空。まさしくもって〃春爛漫〃の様相である。

事務所のすぐ前を流れる音無川沿いの桜もほぼ〃満開〃。川面のキラメキに、もう冬の寒さを感じることもない。

そんな中、時おり、風に揺れてハラハラと舞う〃桜吹雪〃の下に立つと、しばし〃浮世の憂さ〃も忘れしまう(現実は悩み多き人生なのだが…)。

わずか数日間ではあったが、実際に北国に近い場所に身を置いてみて改めて思ったのは、季節のスピード感の違いだ。島原ではすっかり盛りを過ぎたモクレンの花が、彼の地では今がピークなのだ。

一方、南国の我が島原の地では、早くもツバメの滑空が始まった。「花鳥風月」という言葉に、いささかツバメの姿は場違いな感が否めないが、桜の枝越しに確かに飛んでいる。

少し前の話になって恐縮だが、音無川の川べりの石垣に、無数のメジロの群れが羽を休めていたのは、まだわずか一月ほど前の出来事である。

それが早くも初夏の到来を想わせるツバメの姿に取って代わろうとは…。驚きを通り越して、感動すら覚える。

車での移動中、信号待ちをしながらカーナビで朝のワイドショーを観ていたら、ともに東北地方出身の千昌夫(岩手・陸前高田市)、中村雅俊(宮城・女川町)の両氏が、香港で行われたチャリティコンサートで歌声を披露していた。

久方ぶりに拝見した千さんの顔からはトレードマークの〃ホクロ〃が消えて無くなっていた。中村さんの表情にさほどの変化はなく、〃万年兄貴〃の雰囲気は相変わらずだった。

千さんと言えば、何はさて置いても、中国でも大ヒット曲となった『北国の春』。対する中村さんの代表作は『ふれあい』だ。

敢えて紹介しないまでも、その歌詞を覚えている人は多いだろう。何の脈絡もないが、歌声を聴きながら、もし星野哲郎さん(昨年没)がお元気だったら、今次大災害に際してどんな「援歌」を書かれただろうか、とふと思った。