2011/03/31

今こそ無人化工法を!!…心温まる両陛下のお振舞い

どうしても外せない〃用事〃があって、昨日から上京している。例年なら桜の開花や入学シーズンに合わせて盛り上がっているはずの東京も、今年はさすがにおとなしい。

モノレールの車内灯も移動の途中で切れた。心なしか道行く人々の姿にも元気がない。まあ、このご時世だから仕方のない話ではあるが…。

ところで昨日、訪問先の待合コーナーで読んだ『産経抄』(30日付)に雲仙・普賢岳災害のことが取り上げられていた。もちろん、今次の大震災になぞらえての話である。

要諦を引くとこういうことだ。普賢岳災害当時に採用実績を持つ、GPS機能を使った、あの画期的な「無人化工法」(国交省)を、なぜいま原発事故の処理に役立てないのか、と。

なるほど、考えてみれば確かにそうだ。距離的スケール等の差異はあっても、原理・原則論に立てば、その指摘は的を射ている。20年近くが経って、その方面の技術革新も相当に進んでいるはずだ。

時代劇なら「殿(総理)、ご決断を!」と老中など周囲の重鎮が激しく迫るところであろうが、どうやら総理は「勉強好き」と言うか、なかなか「慎重居士」なようで、同コラム子が放つ〃舌鋒〃は鋭い。

普賢岳の話が出たついでに、天皇皇后両陛下のことを持ち出すのは不謹慎であるが、これも何日か前の『産経抄』で知った。

なんと両陛下はもう2週間も前から、自主的に第1グループの「計画停電」に協力され、日によっては、ロウソクや懐中電灯のもとで夕食を摂られている、というのだ。

お揃いで東京武道館(足立区)をご慰問されたニュースが今日31日付けの紙面でも紹介されているが、これもまた普賢岳関係にとっては「デジャビュ」(既視感)の光景である。

自ら膝を折られ、被災者と同じ目線の高さで言葉を交わされるお姿は、20年前と寸分も変わらない。比較にもならないが、過日の東電副社長の「中腰」での謝罪対応をつい思い浮かべてしまう。

話は変わるが、いま東京は知事選の真っ最中である。街には候補者のポスターが掲示されているが、立ち止まって眺めている者など、まずいない。

現職やタレント出身の他県知事経験者、若手辣腕経営者に交じって、今回も「ドクターN」の〃顔〃が見える。今話題の「フェースブック」を前面に押し出した新人(類)もいる。

残念ながら「百花繚乱」の華やかさには遠く及ばないが、強力なリーダーシップの持ち主であることが〃必須条件〃であろう。

現職の石原さんに言わせれば、東京は「頭脳」であり「心臓」なのだ、と。しかし、それ以前に、そうした虚飾に満ちた繁栄を多方面から支えているのが「地方」であることも、どうぞお忘れなく!!


2011/03/26

失敗は伝わらない!?…見えない「政治家」の姿

なにぶん知識や情報の抽斗(ひきだし)が少ないので、平板な構成しかできないのが難点だが、そこは平にご容赦いただくとして…。本日は、昨報文末で触れた「油断」について少し語らせていただきたい。

と言うより、本欄でも度々取り上げている鴨長明さんがもうすでに『方丈記』の中で、震災に対する人々の注意力が日毎に薄れゆく様を筆法鋭く描き出している。原文を引く―。

〈(前略)人皆あぢきなきことを述べて、いささか心の濁りもうすらぐとみえしかど、月日かさなり、年経にし後は、言葉にかけていい出ずる人だになし〉

つまるところ、各種自然災害の中でも一番であると、震災の恐ろしさを伝えているのと同時に、のど元過ぎたら忘れてしまう人間の愚かしさを厳しく指弾している、のだ。

長明さんが『方丈記』を書き上げたのは1212年とされているから、今からちょうど800年前のこと。奇しくもこの年、浄土宗の開祖、法然上人が亡くなっている(※長明さんは熱心な念仏者だった)。

何もそこまで時代を遡らなくても、最近ではNHKテレビがいみじくも今次大震災の中心被災地となった「三陸海岸」一帯の問題を取り上げている。『失敗は伝わらない』と題された2006年の番組だ。

ナビゲーターは『失敗学のすすめ』などの著書がある工学院大学教授の畑村洋太郎さん。番組では、2万人以上の犠牲者を出した明治29年の大津波災害(高さ38m)から37年後の昭和8年にも、3千人以上が亡くなった〃史実〃を重視。「油断大敵!」との論点で関係各位の〃注意力〃を喚起している。

象徴的な事例として紹介されているのが「大津浪記念碑」のこと。そこにはこう記されている―「高き住居(すまい)は児孫(こまご)に和楽。想へ惨禍の大津浪。此処(ここ)より下に家を建てるな」と。

畑村さんは嘆く。三陸海岸には同種の石碑が各所に建てられているが、皮肉なことに、後の世の人々はその貴重な教えを次第々々に忘れてしまっている、と。

地勢的に見て、三陸地方には田んぼや畑に適した平地がなく山がストンと落ちたような形になっているので、自ずと漁業で生計を支えるようになった。それでも、震災直後は用心して高台に家を建て暮らしていた。だが、時が経つにつれて段々海側へとすり寄っていってしまった云々。

その〃結果〃としての今回の「大震災」ということになろうが、果たしてそれだけで割り切れぬところに問題の根深さがある。発生から2週間が経過していよいよ「政治家」の出番であるはずだろうに、官邸関係者以外の姿が見えないのはどうしたことだろう。

少なくとも、普賢岳噴火災害当時には地元の久間代議士(当時)をはじめ先生方のハッキリした存在感があった。小沢さん、安住さん、渡部さん…もう出番ですよ!


2011/03/25

桜開花宣言の陰で…夜半に嵐の吹かぬものかは

東日本巨大地震から早くも2週間が過ぎた。死者・不明者の数は今も刻々と増え続けており、各種報道記事を併せ読むと、まだまだ事態は悪化の一途をたどりそうな気配だ。

そんな中、本県を含む西日本地域一帯では数日前から桜の開花宣言が続いている。言われてみると確かに、我が事務所前の老木を見ても花芽が次々と膨らんできているのがわかる。

〃先日〃と言っても、もうかれこれ3週間くらい前の話になるが、とある東京在住の方より〃みちのく初桜〃と称する啓翁桜の束が送られてきた。

ソメイヨシノより一足早く開花するという点では、南国各地でよく見かける緋寒桜と同じだが、さすがに北国育ち!万事〃控え目〃な装いで、却って心魅かれるものがある。

皮肉なことに、その小ぶりな薄紅色の花々は震災直後あたりから徐々に蕾をほどき始め、今もけなげに我が家の玄関先を飾ってくれている。

調べてみると、品種を改良して世に送り出したのは福岡県久留米市の良永啓太郎さん。昭和5年のことだそうで、名前の一部を取ってそう命名されたのだ、という。

現在の主たる産地は、被災地とは背中合わせの位置関係にある山形県。もちろん物言うこともないが、大震災から免れたことをあたかも恥じ入るかのように、うつむきがちに見える。

古来、日本人は一見華やかでパッと散る桜花に、人の生き様や世の移ろいを重ね合わせて、多くの優れた和歌を詠んできた。すぐにも思い浮かべるのは西行法師作とされる次の一首。〈願はくは 花の下にて 春死なん その如月の 望月のころ〉

また、ことし七五〇回大遠忌を迎える浄土真宗の始祖、親鸞聖人の作品も忘れ難い。〈明日ありと 思ふ心の 仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは〉

お二方の存命期間は今から八百年~九百年も前の昔。しかしながら、それから幾星霜が過ぎようとも、根本的には、人と自然の係わり方にさしたる「変化」は起きてないようだ。

踏み込んだ表現をするなら、いかに科学技術が発達した今日といえども、人は大自然の前では赤子も同然。まったくもって「無力」なのである。

聖人の御説を拝借するなら(夜半ではなく白昼の出来事だったが)、誰しも予期せぬ大地震が発生し、それに連なる大津波が「古里そのもの」を跡かたもなくかっさらっていった。

さらに憂うべきは、原発施設事故をめぐる政府並びに電力会社のもたつきぶり。これらが余計に事態を深刻化させている、と言っても過言ではない。

今回の地震が「千年に一度の規模」であったことはデータが裏付けている。ただ、迎え撃つ人間の側に「油断」があったことも忘れてはならない事実である。


2011/03/20

高橋長大教授が退官…果てしなき災害との戦い…

長崎大水害に加え普賢岳噴火災害の復興過程でも学術的見地から大いにご貢献いただいた長崎大学工学部教授、高橋和雄さんの退職慰労会が19日夜、長崎市内のホテルで開かれた。教え子や防災関係者など約200人が出席。元知事の高田勇さんも元気なお姿を見せて下さった。

祝辞を述べたのは高橋裕(東京大学名誉教授)、小嶺啓蔵(長崎大学工学部土木工学科1回生)、横田修一郎(島原市長)の各氏。それぞれに高橋教授の謹厳実直な人柄を称え、「象牙の塔」に収まり切れない数々の研究成果の一端を語った。

乾杯の音頭をとったのは副知事の藤井健(たけし)さん。「普賢岳」で親交の深い太田一也(九州大学名誉教授)、吉岡庭二郎(元島原市長)、清水洋(九州大学教授)の三氏も高橋教授ならではの微笑ましいエピソードを交えながら、学究生活41年にわたる〃永年の労〃をねぎらった。

何を隠そう、この筆者も高橋教授に大変にお世話になった者の一人である。もちろん、まったくの畑違いであるから「学問の世界」の話ではない。「普賢岳」でもない。答えを言う。「コミュニティFMラジオ」に関して、だ。

一昨年秋のこと。「FMおおむら」の免許取得に当たって、現地の関係者から相談を受け、高橋教授の研究室を訪ねて、色々とお話を伺った経緯がある。お蔭で、同社はちょうど1年前に、正式に開局することができたのである。

その後の同局の動きに関しては、たまに大村市内を移動する際に周波数を合わせるくらいだが、仮に同市周辺で災害が起きた場合には、その威力を大いに発揮してくれるはずだ。

さて、日曜日の今日(20日)も、テレビは朝早くから災害報道一色である。一泊後、長崎からの帰途、たまたまカーナビテレビのスイッチを入れたら、聞き覚えのある懐かしい声が聞こえてきた。

信号待ちを利用して画面を確認してみると、NBCテレビの人気番組『サンデーモーニング』に出演していたのは、なんと社会安全研究所前所長の木村拓郎さんだった。

同放送によると、「安中三角地帯かさ上げ事業」の理論的指導者で島原市とも関係の深い木村さんの生家は、今回津波被害を受けた宮城県石巻市にあり、96歳の母親とやっと連絡が取れたところだ、という。

高橋教授と木村さんとは「師弟」の関係で、2005年12月にその指導のもとに博士論文を書き上げたことは記憶に新しい。また、木村さんは東大大学院時代、故・廣井脩教授の愛弟子でもあった。

慰労会の席上、テーブルスピーチを求められた高田元知事はこう言い切った。「災害は必ず来る。ただ、いつ来るか判らないから、高橋先生のような地道な研究が大切なのだ」。災害と人間との終わりのない戦いはまだまだ続く。ガンバランバ!!


2011/03/15

我々に出来ること…東北の被災者のために

手元に少し古びて黄色くなった絵はがきセットがある。発行者は岩手県釜石市と同市の観光協会。もう10年以上も前、現地を訪れた際に購入したものだ。敢えて申すまでもなく、同市は今次の地震・津波災害で甚大な被害を受けた、陸中海岸国立公園内にある港町の1つだ。

その存在を有名ならしめたのは、近くは松尾雄治氏率いる新日鉄釜石(社会人ラグビー)であり、いま少し時代を遡れば、『反骨』(鎌田慧著)の市長、鈴木東民(1895~1979)ということになろう。

筆者が訪ねたのは凍てつくばかりの真冬であった。太平洋沿岸域に位置している関係で、積雪の量自体は少なかったが、夜間の冷え込みが異常に厳しかったことを、今でも鮮明に覚えている。

出張の目的は、日立系メーカーの指導のもとに、新日鉄釜石病院と地元のケーブルテレビ会社で運営されていた「在宅介護医療前線」の視察だった。

確か、その頃の岩手県知事は若手改革派の旗手の一人として知られていた増田寛也さん(建設省出身・後に総務大臣)で、ちょうどその年に「全国豊かな海づくり大会」が開かれていたはずだ。

前置きが長くなってしまったが、その釜石市を含む東北地方(東日本)一帯が未曾有の自然災害に見舞われている。遠く離れた九州の地でその被害状況を知らせるニュースを見聞きする度に、本当に胸がふさがれる思いだ。

「たまたま」であるが、3月11日の「その日」の朝、筆者が開いていたのは「天災は忘れた頃に来る」という警句で知られる、寺田寅彦博士(1878~1935)の随筆集(筑摩書房)であった。

さすがに漱石門下の一人であって、その文章は読むほどに味わい深く、巻頭に収められている『団(どん)栗(ぐり)』に遭遇した途端、その魅力にハマってしまった。

一流の科学者にして、その研ぎ澄まされた感性、そして人へ思いやり…。最終章を飾っている『天災と国防』に至っては、社会風刺の側面もいかんなく盛り込まれており、改めてその慧眼のほどに脱帽する。

アメリカ同時多発テロ(2001年9月11日)の時もそうだったが、余りにも「リアリティ」があり過ぎて、逆に津波の実態が「現実のもの」とは思えなかった。恐らく、読者の皆さんの多くもそう感じられたのでは…。

その後に連綿と繰り広げられた、数々のショッキングなシーンを目の当たりにしながら、「よもや?」「まさか?」の念を抱いた人もきっと多かったはずだ。ただ、残念ながら、それらは紛うことなき「現実」だったのである。

発生から数日が経ち、自分たちの身の回りで繰り広げられている平穏無事な暮らしぶりを反芻してみて、「同じ日本人としてこれでいいのだろうか…」との思い(自責の念)が日に日に強まっているのも事実だ。

思い起こせば、今から20年ほど前、「カボチャテレビ」が呱呱(ここ)の声をあげようとしていた矢先に指導を受けたのは、「キャベツ」という愛称を持つ仙台市内のCATV局だった。

また、仙台・伊達藩と島原・松平藩との深い縁(えにし)についても、元島原市教育長の野村義文先生が本紙々上等にも確たる記録を残して下さっている。

最終的な犠牲者の数や施設等の被害規模がどれくらいになるのかについては、現時点ではまったく予想だにつかないが、離れていても当面出来ることは「義援金」や「救援物資」等の後方支援であることは誰の目にも明らかだ。

その点、本県の各自治体ともそれぞれに素早い対応を心掛けておられるようで実に頼もしい限りではある。ただ、同じ「自然災害」の被災地(経験者)として近い将来に出来ることについても、今から考えて準備をしておく必要もあろう。

報道によれば、避難住民の総数は50万人とも60万人とも言われている。テレビや新聞等の報道を見る限り、被災地が元の居住環境を取り戻すにはまだまだかなりの年数を要することは想像に難くない。

昨日お会いした、とある識者がしきりと力説されていた話が妙に耳にこびりついたまま残っている。それは、こうした内容だ。

<幸か不幸か、島原半島には「遊休農地」や「空き住宅」がそこかしこに点在している。決して無理強いするような性格の話ではないが、もし今回の被災者の方々が再起を期す上で利活用してもらえるようであれば、積極的に「一時移住の呼び掛け」を行ってもよいのではなかろうか…〉

奇しくも、被災翌日(12日)、北は青森から南は鹿児島まで、「新幹線」という大きな動脈で本州と九州がつながった。これは我が国の国土形成を考える上でも極めて意義深いことであり、同時に、国民同士を固く結びつける社会的・精神的な「紐帯(ちゅうたい)」のようなものでもあろう。

御年92歳になられる清水トシエ先生が、12日に開かれた「島原半島文化賞」の受賞式の席上でおっしゃっていた言葉が何とも印象深い―「ひょっとしたら、今回の災害は自然界(神様)が我々人間の智慧(団結力)を試されているのかも知れない…」と。

後出しジャンケンの挙げ句に、「天罰だ」と切り捨てられた石原都知事発言の真意については計りかねるものがあるが、清水先生のご指摘にはいちいち納得がゆく。

人知の及ばぬ未曾有の自然災害の体験者、同じ日本人、そして地球市民として、「被災地復興」のために何が出来るかをしっかりわきまえ、行動に移していきたいものだ。


2011/03/11

島原素材の再検証を!!…「特例措置」にも限界がある…

今年はとうとう「初市」に出向かぬまま「春」を迎えてしまったようだ。別段これが「吉凶」につながることとは思えぬが、心の奥底に「後味の悪さ」だけが残る。

が、済んでしまったことは仕方がない。気分を切り替えようと表に出た。と、モクレンの蕾が今にも張り裂けそうな勢いで列を為している。改めて本格的な「春の訪れ」を実感した。

「初市」には行きそびれたが、昨日&今日と久方ぶりに朝の散歩を楽しんだ。正確には知らないが、最近の「日の出」(島原市)の時刻は6時40分前後であろう。

上の町の自宅から新田の踏切を渡るコースで10分も歩くと、長浜海岸に着く。整備中なのか完成したのかよく分からないが、スクイ内の海面は鏡のように落ち着きはらっている。

沖合の「岩肌」(瀬)越しにオレンジ色の光の帯がスーッと押し寄せてくる様は圧巻でもあり、また神々しい。自然と畏敬の念に打たれ、柏手を打つ。

我ながら、少しジジむさい感じがしないでもないが、気持ちは文字通り、晴れ晴れ!大きく深呼吸をして、さらに歩くこと小一時間…。やけに朝飯が美味かった。

さて、いよいよ今日12日、九州新幹線・鹿児島ルートが全線開通するそうである。何はともあれメデタイ限りだが、島原半島にとっては熊本駅で下車する客をどう誘導できるかに、観光業の浮沈がかかる。

関西から熊本までは約3時間。さらに島原に足を延ばせば、計4時間強。6月までは無料のシャトルバスも運行されるそうだが、そうした行政上の「特例措置」に甘えてばかりいても繁栄は覚束ない。

素人考え(思いつき)でしかないが、熊本や鹿児島にない島原半島の魅力をこの際、多方面から「再検証」してみる必要があろう。

端的に言えば、地勢的な特徴であり、歴史であり、風土である。もちろんこの中には、(郷土)料理も含まれる。

遠く離れた鹿児島の地はさて置くとして、熊本は「指呼の間」のような近さである。熊本から見れば、島原半島は西方海上の先にあり、山の端に夕陽が沈む対岸である。

一方、島原半島から眺める熊本は、朝の散歩でも明らかなように「日いずる大地」であり、背後には大阿蘇が控えている。言葉も食文化も似ているようで、その実は微妙に異なっているから面白い。

例えば、魚の「カサゴ」のことを島原では「アラカブ」と言うのに対して、熊本では「ガラカブ」と呼ぶ。頑張る意の「ガマダス」は双方同じだ。

筆者が何より「違い」を実感しているのは「月の出」のこと。有明海を跨いで渡ってくる月明かりこそ、島原でしか味わえない風情の極みであろう。さあ、開通を機に、みんなで「島原フィルター」を通した観察眼を磨きましょう!


2011/03/06

我が身の春はまだ…場違いの結婚パーティ

インフルエンザ崩れの「腸炎」以来、何となく体が宙に浮いた感じで毎日を過ごしているが、歳月はその間も几帳面に足取りを重ね、時折その轍(わだち)の内に季節の移ろいを見つけては、涙ぐんだりしている。

過日、大事な取引先(社長)の結婚披露パーティに招かれ、上京してきた。会場は恵比寿の高台にそびえ立つ、元ハンガリー大使公邸。都心にありながら静かな空間が広がる、絵に描いたような瀟洒なレストランだった。

ハッキリ言って、住む世界が全く違うと思ったし、そうした「場違い感」は最後まで払拭できなかったが、身の丈以上の御祝を包んだ以上、「取材」も忘れてはなるまい…?

招待客は約百人。数の上での圧迫感は何ら感じなかったが、受付を済ませて控室に入った途端、ただならぬ気配を感じた。

一目でイタリア系だと分かるマカロニ紳士軍団が部屋の中央広く陣地を取り、それを取り囲むように、ドレス姿の日伊の淑女たちが列をなしていたのだ。

と、そのうちに「何かお飲み物は」と、フロアスタッフが注文を訊きにきた。本当はビールを頼みたいところだったが、ジンジャーエールにとどめた。

誰と話すでもなく、そのまま待つこと半時間。おっ、やって来たぞよ、有名人が。敢えて名前を挙げることはしないが、ある時期、相当にマスコミを賑わせた、ヤリ手の経済人だ。

そのうちに芝生張りの庭園に移動して、人前スタイルの挙式が営まれた。ここで初めて見る花嫁。いやー背が高い!どう少なく見積もっても、百七十センチは下るまい。

改めて受付で貰った資料をひも解いてみると、年の差は15歳。それに社長は2度目だし、成人した男の子供さんもいたはずだ。

チクショー、それにしても花嫁の美形なこと。あの社長、どうやって口説いたのだろう…。「神仏」の前ではないので、下世話な想像力を膨らませながら、時間をつぶした。

そして迎えた披露宴。隣席はいかにも都会育ちといった感じの黒服兄さん。オールバックの髪形がやけにカッコいい。

祝辞を述べたのは、新郎のかつての上司で、現在は作家という肩書きの紋付オジサン。なかなか風刺の効いた、良い挨拶だった。

料理はフランス風でナイフとフォークがいっぱいあって迷ったが、「全ては外側から」の原理原則を墨守。物足りない分はパンのお代わりでしのいだ。

島原と違って「ヨメゴドーイ」も「カマブタカブセ」もなかった。しかし、プロのマジシャンの手品で大いに盛り上がった。

パーティは大過なくお開きになった。でも、筆者はよほど緊張していたのだろう、クロークに預けたコートのことはすっかり忘れたまま会場を後にしていた。

翌日、東京には雪が舞った。どうやら我が身の春はまだ遠いようだ。


2011/03/03

小人閑居して不善…改めて思う〃世の無常〃

「鬼のカクラン」と呼ばれるほど頑健でも丈夫でもないが、一昨日はどうにも具合が悪くて、仕事を休んでしまった。決して「サボリ」ではない。れっきとした「病欠」である。
 
診察の結果は「腸炎」。すでに社員の半数ほどが罹患しているので「インフルエンザ間違いなし!」と踏んで病院の門を叩いたのだが、またしても〃流行〃に乗り遅れてしまった感じだ。

実は、インフルエンザの検査を受けたのは今年に入って2度目である。用心のために、予防注射は接種していたのだが、周囲の環境が環境なだけに、少しでも微熱や咳が続くと疑念はすぐに深まる。

すべてにおいて我慢強い性質(たち)ではないので、痛みを伴う検査は、他人様以上に苦手である。まず、胃カメラの類いを受け付けない。進入口の異なる大腸検査も出来たら避けたい。

最近ではこれらに、インフルエンザ検査が新たに加わった。経験された方ならお分かりいただけると思うが、細い綿棒のようなもので鼻腔奥のデリケートな部分を容赦なく〈ツンクジラレル〉のである。

時間こそ短いが、あの瞬間の「辛さ」と言ったら…。別段、思い出も何にもないのに、涙がとどめなくボロボロとこぼれ落ちてくる。

それにしても日がな一日床(とこ)に伏せっていると、退屈この上ない。日曜や祭日に何もすることがなくて畳の上でゴロゴロしているのとは、まったくもって異質の空間だ。

テレビもそのうちに飽きてくるし、読書にも限度がある。かと言って、平日・昼の日中に戸外をふらつくのも傍目(はため)(世間様)にどう映るかと思えば、つい二の足を踏む。

そんな宙ぶらりんな心境の中で思い当ったのが「小人(しょうじん)閑居(かんきょ)して不善(ふぜん)を為(な)す」という古い諺。小人とはすなわち、この私自身のことに他ならない。

しかし、たまに休むことがそんなに悪いこととは思えないが、やはり人間は働いてナンボの世界。裏を返せば、哲学者でない普通の人間は、悪事を働かぬよう目の前の仕事に没頭せよ!ということか。

そう言えば、同趣旨の諺が英語にも――。確か「ドゥーイング・ナッシング・イズ・ドゥーイング・イル」とか言った。直訳すれば、「何もしないことは悪いことをすることと同じ」という意味だ。

まあ、洋の東西を問わず、人生を賢く送っていく上での「ポイント」が簡潔な表現でまとめられていることに、改めて感嘆するばかりだが、ソレをなかなか実践できないのが「人間」という憐れな存在。

ニュージーランドの地震災害や、中東・北アフリカの民衆蜂起による内乱のニュースを仄聞(そくぶん)しつつ、改めて「世の無常」に思いを馳せる。そして、その中心にはいつも、弱くて、厄介な「人間」がいる。