2011/01/30

馬鹿の後知恵物語②…「無常」だが「遁世」ではない

当初計画では、『方丈記・徒然草に学ぶ人間学』(致知出版)と、『悪名の棺・笹川良一伝』(幻冬舎)を柱に据えた「両面作戦」を考えていた。

ここで改めて紹介しておくと、前者の著者は東洋思想研究家の境野勝悟さん。後者は工藤美代子さんという気鋭のノンフィクションライター。余談だが、その父はベースボールマガジン社などを興した池田恒雄さんだ。

有体に言うなら、この2冊の本に書かれていることを引き合いに出しながら論を進めていきたい、と考えていた。が、結論から言うと、その考えは余りにも甘過ぎだった。

もう済んでしまったことなので、今さら何をどう「言い訳」したところで及ばぬことは分かってはいる。ただ、折角仕入れた「情報」なので、そのまま捨て置くのも「何だか勿体ない」という気もするので…。

てなわけで、それらの書物から学んだ「人生の智慧云々」といったものをご紹介することで、少しでも菩提寺のご住職や信徒の皆様に罪滅ぼしができれば、と思っている。

まず前者について―。前号でもお話した通り、『方丈記』という随筆集が完成したのは鎌倉時代の末期。西暦で言うと、1212年とされている。つまり、法然上人が没した年である。

ここ数日、新聞紙上を賑わせているのは、宮崎に端を発した鳥インフルエンザや189年ぶりと言われている新燃岳の溶岩ドーム出現のニュースだが、鴨長明が『方丈記』の執筆に取り組んでいたのは、まさに色んな「災禍」が頻発していた時代だった。

境野さんの記述によれば、「安元の大火」が起きたのは1177年。それから3年後に「治承の旋風」。翌1181年には大飢饉。極めつけが「長承の大地震」(1185年)といった具合だ。

つまり、時代がどう変わろうとも、大自然を前にした人間の営みには自ずと限界があり、いくら栄華を極めたところで、永遠に続くということはあり得ない、という教えである。

ただ一方で、境野さんは声を大にして述べている「方丈記も徒然草も『無常感』をテーマとしているが、決して遁世文学でもなければ厭世文学でもない」と。

その答えを探し出すことは至難の業であるが、日蓮や、法然、親鸞など偉大なる鎌倉時代の宗教家の布教の中に「大切な生き方のヒント」が隠されている、というのだ。

筆者が個人的にとても面白いと思ったのは、次のくだり―。「(鎌倉以前の)平安時代は、朝、みんな『南無妙法蓮華経』といっていた。夕方は『南無阿弥陀仏』と唱えていた。平安庶民はみんなそうやっていた」。

筆者は仏教の専門家でも何でもないが、何かしらその一文を読んでスッキリした。ちなみに、境野さんは上智大学(カトリック)のヨゼフ・ピタウ学長の親友だともいう。

-つづく-


2011/01/22

勘違いしてません?…冬至は「最短昼間」ですよ

政治も…。いや政治の世界はさて置くとして、この世の中はひょっとして小さな「誤解」や「失敗」が集積して出来ているのでは、とこの頃とみに思うようになってきた。

その伝なのか、今でも毎日のように〈ショーモナイ失敗〉を繰り返しては眠れぬ夜を過ごしている。もちろんこれは、個人の問題だ。やはり馬鹿という宿痾(しゅくあ)は死ぬまで治らぬものなのか…。

身の回りを見渡せば、本当にしきりと反省することばかり。しかし、敢えて本日は個人という立場を離れ、世間様一般が抱いておられるであろう「誤解の本丸」に迫ってみたい。

とは言っても、自分で調べた話なんかではない。自社のラジオスタッフがジオパークの寺井先生から伺った「又聞きバージョン」の一つだ。ただ時節柄、とても面白いと思う。

暦の配列(二十四節気)では、明日(12月22日)が一年中で一番日が短い「冬至(とうじ)」ということになっている。その説明自体に何の間違いもない。

問題は「日が短い」の捉え方。つまり、それは「日没時刻が早くなる」ことではなく、「昼間という『時間帯』が最も短くなる」という意味なのである。ここのところが、よく誤解される部分だ。

専門的には「太陽の黄経(黄道の一点と春分点とがつくる角度)は270度。北極圏では太陽が現れず、南極圏では太陽が沈まない」などとなる。

ただ、そんなに聞いたこともないような言葉を仰々しく並べて言われても、益々分からなくなってしまうばかりだ。ここはひとつ、単純第一に!

年間で一番日没が早いのは12月4日(ごろ)。逆に日の出が遅いのは1月10日(同)。その間に「冬至」(12月22日同)があって、この日あたりが一番、昼間が短いのだ、と。

どうです、スッキリしたでしょう、皆さん!時に余談だが、この日を境に昼間の時間は〈畳の目ほどに〉ジワリジワリと延びてゆくのだそうだ。(何と言う詩的な表現だろう!)

それから、「陰」が去り「陽」に復することから「一陽来福(いちようらいふく)」というめでたい言葉も、ここから生まれている、という。

また昔から、冬至の日に南瓜(かぼちゃ)を食べると中風に罹らない、柚子湯に入ると風邪をひかない、などという言い伝えがあるが、栄養学的に見ても、なかなか尤もらしい話ではないか…。

ところで、人間とは勝手なもので、「冬至=日没時刻」との呪縛から解き放たれた途端、急にこのところの冬の夕暮れをやさしく感じ取ることが出来るようになってきた。

今日より明日、明日より明後日が長くなるんだ。そう思えるだけでも十分に幸せである。何せ「一陽来福」なのだから!

ただ、日の出がまだしばらく遅くなっていくのは困ったもの。せっかく最新式の「万歩計」を買ったというのに…。


皆様のご厚意に深謝!!…狼狽(ろうばい)する程に蠟(ろう)梅(ばい)が続々

「愛の反対は憎しみでなく、無関心」―。これはマザー・テレサが遺した〃名言〃であると、本当にそう思う。

下世話な調子で言い換えるなら、人間にとって、意図的に〃無視〃され続けるくらい屈辱的なことはない。その点で言えば、読者の皆様にここまで構って頂けるとは、筆者はなんてシアワセなんだろう!

昨夜は市外で新年会があり、一泊家を空けたのだが、早朝帰り着いたら、記事を読まれたというさるお方から、芳しい香りのロウバイの花が大きな枝ごと届けられていた。

本当に「生まれて初めて目にした」のだが、ネットの説明書きの通り、花の姿態はまるで蠟細工のような照りと艶である。聞けば、中堀町の江東寺の境内にも咲いている、という。

「何とも有難いこと…」と感謝の念を抱きつつ、とある式典に参加していたら、今度は商工会議所元専務理事の島田守さんから鉢植えの寄贈があった、との報。重ねて恐縮してしまった、という次第だ。

島田さんは岳父より一年先輩で(旧制島中)、最近でこそご無沙汰続きだが、現役当時は随分と可愛がって頂いていた。理由は色々あろうが、同じ「まもる」という〃名前〃もその要因の一つであろう。

かつて、ある酒席で筆者はその大先輩に対して随分と失礼な事を言ってしまった。「ボクは『真守』。アナタは『守』。故に漢字で書けば、アナタは『まぬけ』である」と。

勿論、酒席での戯言だったので、その場でのお咎めはなかったのだが、今朝ほど頂いた見事な鉢植えには「逆境に 種族保存の 花を付け」という即興句の脇に、「間(眞)抜けの守より」との意味深なサイン。

島田さんによれば、夏場(七月頃)に一寸いじめてやることが、育て方のコツなのだそうだ。それにしても、今頃になって「まぬけ」の話で逆襲してこられようとは、思ってもみなかった。当方「狼狽」の極みである。

ところで、島田さんと言えば、江田島(海軍兵学校)の出身者として知られる。つまりは、かつての大日本帝国海軍の一員で、系譜としては、あの山本五十六連合艦隊司令長官に繋がる。

なぜ、唐突にもこんな話を持ち出したのかについて少し触れると―。数日前から読んでいる工藤美代子さんのノンフィクションの(題名・悪名の棺)の中で、山本長官と右翼の黒幕と呼ばれた笹川良一氏が意外にも「大の仲良しだった」と紹介されおり、その展開が滅法面白いのだ。

これまでに約半分を読み終えたところだが、「東京裁判」のくだりになって、片脚を失くしていた重光葵氏(元外相)も新たに登場してくる。そう、この方の名前も「まもる」と読むのだった。

島田先輩、近いうちに「SM会」を開きましょうね。今さら「無関心」は許されませんよ!


2011/01/21

花も実もある人生を!!…知らなかったロウバイの花

この年(満55歳)になるまで、ウメの花は「白」か「紅」、或いはその「中間色」とばかり…いや「それしかない!」と、固く思い込んでいた。

ところが「黄色もあるよ」と聞いて、慌てふためいた。その名は「ロウバイ」。奇しくも、「狼狽」と同じ読みで、「蠟梅」と書くのだそうだ。

恥ずかしながら、その名を聞いた端(はな)は、比較的どこの家の庭にもあるような、「(梅の)老木」のことを想い浮かべていた。すなわち、単なる「老梅」じゃろもんと…。

もちろん「老梅」という表現もないことはな(あることはある)のだが、「大寒」の季節に相応しい花暦で言うと、やはり「蝋梅」に軍配が上がる。

「玉突き」のような反応で、島原半島で実際にその花を観賞する所はないのだろうか?と思い、周囲の人間に訊いてみた。だが、誰も存在を知らない。

そのまましていては「イメージ」も何も湧いてこないので、取り敢えず「ネット」を開いてみることに―。で、分かったことは「蝋紙細工で造ったような黄色い花の質感」から、そう呼ぶのだ、と。

主たる産地は「かかぁ天下とからっ風」でおなじみの、北関東の群馬県や栃木県。ちなみに、その原産地は中国で、17世紀頃に日本に入ってきたのだ、という。

ところで、ウメと言えば、島原市の「市の花」である。確か、合併する以前は「市の木」もウメであったが、合併後の今は有明町に敬意を表して「くすの木」とされているようだ。

その島原市内では様々なウメの姿を随所で見ることが出来る。中でも島原城内の「古野梅林」はその筆頭格で、「安中梅林」などがこれに続く。

そうした名所とは趣きが異なるが、我が家の庭先にも、名も無き「3本のウメの木」がひっそりと息づいている。いずれも息子たちが小学校に入る直前に、市から「お祝い」に頂戴したものだ。

それから20年前後が経過した今では、どの木も見かけは余り変わらない。ただ、よくよく目を凝らして見ると、それぞれに特徴がある。人間と同じだ。

十分な日光を浴びて幹がスクスクと伸びているのもあれば、ヒコクレタ(歪な形の)枝に葉っぱがぶら下がっているものも。ただ、どれも変わらぬ、大切な「記念樹」である。

島原のウメもこれからが本番。折からの経済不況で、彼らの人生もまた寒風吹き荒ぶ中での「厳しい船出」のようだが、ウメは冬の寒さをはねのけて「芳香」を放ち、綺麗な「花」を咲かせ、そして最後には「実」を結ぶ。

典型的な親バカの一人としては、どうか我が愚息たちにも「花も実もある人生を!」と願うばかりだ。チャンリン♪


2011/01/20

福神漬けのルーツは?…オバマもJALもケジメの日

年が改まって早3週間。暦の上で言うと、今年の「大寒」(二十四節気の一つ・年間を通じて「最も寒い日」と言われている)は20日だという。

別の角度で言えば、この日はバラク・オバマ氏が黒人初の米国大統領に就任して丸2年。また、日本のナショナルフラッグだった「JAL」の経営が破綻して満1年だ。

昨今のニュースによれば、オバマ大統領の支持率も順調に回復しているようだし、一方の新生JALも数々のリストラ効果で待望の「上昇気流」に乗ったとか…。まずはメデタシ&メデタシ!

ところで、それはそれとして、子供の頃の記憶で言えば、「大寒」というのはピンと来ないが、「二十日(はつか)正月(しょうがつ)」という響きには懐かしさを覚える向きも多かろう。

有体に言えば、「正月気分もここまで」という時節的な区切りのこと。ここで「節気」云々を持ち出せばコンガラガッテしまうが、そう考えれば実に解かり易いですよね、皆さん!

話は変わるが、一昔前のテレビCMに「お節(せち)も良いけどカレーもね!」というのがあったが、筆者の場合、3日に1度は「カレー」と「チャンポン」が欲しくてたまらなくなる。

最近のカレーでお気に入りは一番街アーケードの弁当屋さんで買うパック入りの〃逸品〃。ルーのみで220円だったか?これをアツアツのまま自宅に持ち帰って、2回に分けて食べるのが何よりの楽しみだ。

そのカレーに付き物なのは「福神漬け」だが、前々からどうしてそう呼ぶのか?不思議でならなかったので、今回改めて調べてみることにした。

結果、分かったことは、ルーツはあの有名な東京の老舗「酒(しゅ)悦(えつ)」(創業1675年)。何でも、江戸時代末期から明治の初めにかけて、当主の野田清右衛門という方が考案したものだそうだ。

したがって、元々それは「商品名」だったが、「由来」については、酒悦の店の所在地が上野・不忍池にあったことから。そこに祀られている「弁財天」にちなんで、戯作者の梅亭金鷲が命名したものだ、という。

材料は〃縁起〃を担いで、ダイコン、ナス、レンコン、カブ、ウリ、シソ、ナタ豆の7種(七福神)が入っているのだとか。へー、単なる〃添え物〃なんかでなかったんだ!!

一方、ライバルでもなかろうが、「らっきょう」も「福神漬け」と並ぶ〃カレーの友〃。ただし、こちらの原産地はぐっと国際色豊かで中国・ヒマラヤ地方。漢字で書くと「辣韮」だそうだから、ニンニクやニラの近い縁類であろう。

さぁー今日も寒そうだけど、昼には何を食べようか…。カレー、それとも風水で〃金運〃が上昇すると言われている「大寒卵」入りのチャンポン?


2011/01/19

「雪女」×「他所ゆき男」…馬鹿丸出しの雪中行軍ドライブ

『雪女』と言えば、日本名「小泉八雲」こと、ラフカディオ・ハーン作の怪談に出てくる美形だが、夜半の吹雪の恐ろしさといったら…。

先週末の夜、あの予測された寒波の中を、何をとち狂ったか、筆者はひたすらある「目的地」を目指して疾駆していた。そこが何処なのかは事情があって言えないが、午後9時きっかりに家を出たのは紛れもない事実である。

広域農道を抜け諫早市内に入ると、すでに路面には薄らと白いモノが積もっていたが、用心すれば、走れない程ではなかった。たまに風が止むと、雲間から月明かりさえ見えた。

諫早インターから乗った高速(福岡方面)の走り出しは極めて順調。「この調子だと、早ければ零時過ぎには本州に入れる」と思ったくらいだった。

ところが、東彼杵に入った辺りから様相が一変した。そう、冒頭で述べたように「雪女」の登場を予感させるかのような横なぐりの猛烈な吹雪に襲われたのである。

雪はその後も断続的に降り続いた。途中、給油のため金立のパーキングエリアに立ち寄り、そこで目的地までの「残存距離」を調べたら、まだ700余キロ。

「どうせ明日は休みだし、遅くとも昼前には着くだろう」と高を括った。幸いにして、天候は小康状態となったので、通常と変わらぬくらいのスピードで先を急いだ。

「異変」を感じたのは福岡インターを過ぎた辺りから。俄かに視界が塞がり始め、段々と睡魔も襲い始めてきた。

それでも馬鹿の真骨頂を遺憾なく発揮。「どうにかなるさ」との希望的観測のもとハンドルを握り続けた。ただ、「さすがにこのままだとまずい」と気付いたのは、九州最北端のめかりパーキングの直前。

トイレ休憩の後、作戦を練り直そうと愛車に戻ったが、「小月~小郡間は冬タイヤでなければダメ」との道路情報。「そんなら地道を走れば…」となかなか諦めもつかなかったが、一方で「退却も勇気」と、思い直す気持ちも。

しばらくの逡巡の後、対岸の下関インターで下車。料金千円。そのまま関門トンネルを引き返して、再び九州へ。門司市内で一泊しようかなとも思ったが、取りあえず帰途につくことに。

結論を言えば、古賀のパーキングで2時間程仮眠。高速道路は路面凍結のため筑紫野インターで下され、佐賀、鹿島などの地道を通って自宅に辿りついたのは朝の9時きっかり。

家では母と家人が遅めの朝食を摂っていた。「オイ、馬鹿よね?」と聞いたら、2人とも大きく肯いて炬燵を指差した。

「雪女」ならぬ「他所ゆき男」の元気もプライドもそこで溶けて流れてしまったという、何ともお粗末な「雪中行軍」の一幕でした。


2011/01/16

立ちションの〃効用〃…何と座ってする男性が4割

のっけから尾籠(びろう)な話で恐縮だが、解剖学者の養老孟司先生が「立ち小便」(立ちション)の効用を説いている。朝日新聞社刊『アエラ』の1月17日号だ。

先生が聞いた話によると、洋式便所の普及に合わせて、最近では男性のうち4割が小用を座ってしている、という。

理由については、奥様方から「掃除が面倒くさい!」と文句を言われて仕方なくそうしている輩が多いそうだが、何とこれが「目に見えないストレス」につながっているというから、恐ろしい。

つまり、その状態が高じてしまうと、男性の精子の数が少なくなり、ひいては「不妊」の原因になってしまうのだとか…。本当かなとも思うが、先生が実例を挙げて説明されているので、きっと根拠のある学説であろう。

また、最近ではとんと見かけなくなったが、立ちションはかつて、田舎の風物詩(?)であった。

「男女同権」の今の時代を先取りしたかのように、ヒョイと体を「くの字」に曲げて、所期の目的を堂々と達成される豪のご婦人もいた。嘘でも誇張でもない。

まあ、すべてにおいて、昔は大らかで良かった。その点、現代は何かにつけて小うるさい「指摘」「注文」が付きまとう。

「一歩前へ。君のはそんなに長くない」「こぼさぬ先のつゆ」―。小涌園の男子トイレで見かける貼り紙だが、皆の気持ちを代弁すれば、「そこまで一々干渉するな」「余計なお世話」といったところだろう。

が一方で、施設の所有者からすれば「綺麗に使ってほしい」とのごく自然な願いでもあろうから、一概に切り捨てるわけにもいかない。結果、ホテル側の「思う壺」にはまってしまうという次第だ。

閑話休題。実は今日、とうとう我慢ならずに立ちションをしてしまった(軽犯罪法違反か)。場所は県道・愛野島原線沿いの某所。前後に車両が近づいて来ていないことを確認した上で、おもむろに事に臨んだ。

感想を一言でいえば、「何という開放感!そして気持ち良さ!」。よくぞ人間に生まれたものだ、と一人ほくそ笑んだ。

人工飼育を除く、およそすべての動物の中で、「尿意を我慢する」という感覚を持っているのは、ひょっとして、我ら人間だけではなかろうか?それをもってして人間が「万物の霊長」とするのはいささか怪し過ぎる仮説だが、当たらずとも遠かるまいとも思う。

養老先生は思い出したそうだ。子どもの頃に、自宅2階の物干し場から庭をめがけて小用をした経験を。その時の印象を「文明的ではないが、気持ちよかったのは確か」と語り、「世の女性たち、男性が立ってすることを許してほしい」と懇願口調で結んでいる。

おっ、もうそろそろ締切だ。オシッコもしたくなってきた。では皆さん、また来週!


2011/01/15

センター試験始まる…高峰秀子さんの完璧人生

今年もいよいよ「大学入試センター試験」(15日~16日)が始まる。我が家の末子(ばっし)(三男坊)も今朝ほど緊張した面持ちで出かけていったが、そうまで心配するには及ばない。

あるがままの自分を出して、結果認められないのなら、再び、三度(みたび)…やり直せばよい。何も大学に行くだけが人生の最終目的でもないはず。とにかく、「人間万事塞翁が馬」なのだ。みんなノビノビと頑張れ!

ところで、やや時間が経ち過ぎて恐縮だが、女優の高峰秀子さん死去(先月28日)のニュースは大ショックだった。と言うのも、たまたまその1週間ほど前に、『高峰秀子の流儀』(新潮社)という新刊本を買ったばかりだったから。

作者は斉藤明美さんという津田塾出の女性記者。1956年(昭和31年)生まれというから、筆者(私のこと。ややこしいなぁ…)とほぼ同世代だ。

なぜ「センター試験」の後唐突に高峰秀子さんの話を持ち出したかについて少し説明すると、高峰さんはおよそ「学校教育」というものを受けていないにも関わらず、不世出の大女優であると同時に、すぐれた文章家でもあったからだ。

本の表紙を飾っているのは、晩年の着物姿。目鼻立ちの美しさより、全体から滲み出ている「気品」に何より心魅かれる。もう文句の付けようのない「知性派女優」がそこに立っているのだ。

高峰さんは北海道函館生まれで、わずか5歳でデビュー(昭和4年)。引退時の年齢が55歳だったというから、かっきり半世紀間の銀幕スター生活であった。

女優・高峰秀子がいかにスゴカッタかについては、出演本数「三百」という数字だけ見ても驚嘆に値する。単純に計算しても、年に6本平均。もちろん、『二十四の瞳』や『喜びも悲しみも幾歳月』をはじめほとんどの国民が涙して鑑賞した名作も数知れない。

本を読んで初めて知ったことばかりだが、高峰さんは幼少のみぎりより家庭的に恵まれた人ではなく、年端もいかない頃から親戚十数人の生活を支えるため、「映画という特殊な世界で働かされ続けてきたのだ」という。

しかし、筆者が何よりスゴイと思ったのは、学校なんかに行かなくても独学で素晴らしい教養を身に付け、結婚その他でもいかんなく「自我」も発揮。その「凛とした生き方」は、まったくもって小気味良い。

我々の仲間内でよく使われる冗談に、こういうのがある。「やっときゃやっと。やらんこつが多かバッテンか」―。

巧く言えないが、高峰さんの場合は、ご自身が良いと思われた事柄については、「全部、素晴らしい手際で片付けていかれた」ようだ。もう完璧!!

受験生諸君、高峰さんの生き様を見よ。きっと勇気が湧いてくるぞ!


2011/01/14

年末掃除のやり残し…塵(ごみ)のように銭(ぜに)も貯まれば…

昨年末、中途半端なまま終わっていた仕事部屋の整理・整頓(掃除)に追われている。もう今日で3日目だ。忘れないうちに復習しておくと、「整理」とは不要なモノを捨てること。「整頓」とは元あった場所に戻すこと。

「ホコリやゴミんごてゼンも貯まれば良かとにね、マモッさん?」。昨年亡くなったお婆様の口癖だったが、本当に塵芥だけは増えこそすれ減ることがない。

まさに意を決して「断・捨・離」を実践しなければ、その勢いを制止することなど不可能なのだ。それ自体は分かっているつもりだが、いざ捨てるとなると、やはり「もったいない…」がつい先に立つ。

つまり、ここで求められるのは「エイ、ヤー」の思い切りの良さ。あれこれ考える前に、行動(破棄処分)に移れるかどうかがポイントなのである。

まあ皆さんも同じだと思うが、書類等に関して言うと、筆者の場合、大切に保存しておいて後から役立った事例などほぼ皆無。結局はゴミ箱行きの運命が待ち受けている。

「ならば!」との思いで、今回はいつにもまして思い切り良くゴミ袋の山を築いているわけだが、どことなく後ろめたさが残っているのも事実。ただ、ようやく「峠を越した」感じで、気持ちの方も段々と落ち着いてきた。

ところで、昨日から今日にかけてのニュースと言えば、民主党大会と、タイガーマスク、それに日本ハムの佑ちゃん。それぞれに手短に枕を振れば〈混乱〉〈善意〉〈人気〉ということになろうが、各社ともその論評に大差なし。ビートたけしさん言うところの「赤信号」でなく、「皆で青信号を渡っている感じ」がして面白くも何ともない。

だいたい、タイガーマスク絡みの話を美談仕立てにして、トップニュース扱いとする必要があるのだろうか?いつの頃からだろう、大手マスコミが我々のような地域紙が取り扱うような「小ネタ」まで取り扱うようになったのは?まるで「神々は細部に宿る」と言わんばかりに…。

余計なお世話だろうが、それぞれに「役割」、或いは「存在価値」のようなものがあるのだから、それぞれの分野で本来の働きをすべきなのでは?

今回のタイガーマスク騒ぎも、現時点では〃美談〃に留まっているが、一歩間違えば、得体の知れない団体などによる、金の力に飽かせた〃寄贈合戦〃になってしまう恐れすらある。

覚えておいでだろうか、今から20年ほど前、まことしやかに伝えられ、映画にまでなった「一杯のかけそば」の話を?今回はやや趣きが異なるとはいえ、皆で一斉に同じ方向を見て、考えることを取りやめてしまったら、世の中は一体全体どうなるのか?

そんなことより、今は掃除!掃除!


2011/01/12

タイガーマスク参上!?…「違和感」ないと言えば嘘

〈しろいマットの ジャングルに きょうもあらしが吹き荒れる ルール無用の悪党に 正義のパンチをぶちかませ ゆけ ゆけ タイガー…♪〉。

もうその〃旋律〃のさわりの部分を聴いただけで目頭がジーンと熱くなってしまう。そう、我らが若き日の、劇画界のヒーロー「伊達(だて)直人(なおと)」の活躍ぶりを謳った『タイガーマスク』の主題歌だ。

当時は原作者が誰かなどさして気にも留めなかったが、改めて調べてみたら、『あしたのジョー』や『巨人の星』と同じ梶原一騎さん(故人)だったと分かり、より合点(がてん)がいった次第。

なぜ、ここに唐突に『タイガーマスク』が出てきたのかの説明などもう不要なほど、今や「伊達直人」は〃時の人〃である。ひょっとしたら、同じ「直人」でも現職の総理大臣より世間一般の〃支持率〃は高いかも知れない。

このところの紙面によれば、「伊達直人」なる匿名で、文房具やランドセルなどを児童養護施設等に届ける〃篤志家〃の寄付行為が全国各地で相次いでいるそうだ。

県内でも9日朝に、長崎市内の福祉施設にランドセル7個が「ヒバクシャ」という名前で届けられた、と地元紙が報じている。

目を覆うような変な事件と違って、こうした〃連鎖〃は罪が無くて良いと思うが、同時に「ニュース」としてどことなく〃違和感〃を感じないわけでもない。

〃善意〃はある意味、「秘すればこその花」である。マスコミ各社とも、世知辛い社会風潮の中で、そのような得難い行為が営まれているからこそ〃価値〃を認めたのであろうが、一方で過ぎたるは何とやら…、とも言う。

だいたい、このランドセルというのが曲者だ。日本語で言うと、小学生向け背嚢ということになろうが、最近はどういうわけか売り出しのCMが異常なまでに早い。いや、早過ぎる。

通常、春先に求める「新入学用品」であろうはずなのに、元NHKテレビの体操のお兄さんとやらが随分と季節はずれの頃から画面に出てきて、「背筋ピーン!」と売り込みに余念がない。

まあ、それを規制する法律も何もないだろが、繰り返し&繰り返しそのフレーズを流されたら、いわゆる「サブリミナル効果」みたいなもので、ついつい「手」も出てしまおうというものだ。

だいたい、伊達直人なる架空の人物でなく、れっきとした菅直人という内閣総理大臣が、毎月「子供手当」を出そうとしているのに、屋上屋を架してどうすんの?

もっと別に〃善意〃の使い道があるのでは?と憎まれ口も叩きたくなるが、世の中にはそんな下世話な思いとはかけ離れた奇特なご仁もきっといるはず。静かに事の成り行きを見ていくことにしよう。


2011/01/06

雪の島原城天守閣…簡単には見せられません!!

初正月だったため、今年は極めてじみにスタートした。ただ、年越しの天候は例年になく荒れに荒れ、早くも「異変が起きやすい」という兎年独特の〃習性〃を先取りして想わせた。

そうしたわけで、今この時点において「明けましておめでとうございます」と言っていいのかどうか分からないが、とにもかくにも平成23年がやって来た。

1週間ほどが経ってもうすでに記憶が薄れかけているが、大晦日から元旦にかけては、島原地方は思いもよらぬ「雪景色」に覆われた。

となれば、我が家の庭(上の町)も風情ある、立派な「日本庭園」に一挙に変身だ。誰だ、「ボロ隠し」なんて言っているのは?

とにかく朝起きて窓を開けたら、一面「白銀の世界」が広がっていたので、デジカメ片手に撮影に出かけた(12月31日)―。

おっ、氷が張っているではないか!計ってみたら、5ミリほどもある。が、さして冷たくはない。

スリッパ履きのまま植込みの状況を観察。色鮮やかな紅の花弁と葉っぱの緑が雪の白地に栄えて、見事なまでの対照美。朝日を浴びた氷柱(つらら)の輝きはダイヤモンドのようだ。

さらに〃夢遊病者〃のような足取りでフラフラと近くの堀端へ。陳腐な表現で恐縮だが、うったまげてしもーた!前年大晦日の島原城の美しさはそれほどまでに〃格別〃だったのだ。

ひたすらシャッターを押しながら、絶好のビューポイントと言われている八尾病院前まで移動。すると、すでに〃先陣〃がいた。失礼、いらっしゃった。

ほかでもない、堀端(城内)にお住まいの宮崎圭介先生だった。少し解説を加えるなら、宮崎さんは「二科会」の重鎮で、故西川清人さんの師匠筋。

つまり、筆者にとっては師匠の師匠に当たる、やんごとなきお方なのである。もっとも、これは筆者サイドの勝手な思い込みで、正式な「弟子」として認められたものではない…。

「今日はまた特別にキレカですね!」と興奮気味に語りかけると、「はよこっちに来んね。ここが良かポイントばい」と、やさしく導いて下さった。

移動を終えると、ひとたび雲に遮られた陽光が再び姿を現した。と、時を同じくして、白亜の天守閣が黄金色に輝き、凍りついた蓮田の湖面にその雄姿をクッキリと映し出していた。

何十枚シャッターを押しただろうか…。気付いた時には蓄電池がなくなりかけていた。

本来なら写真を掲載した上で、自慢げに解説を加えたいところだが、今日のところは止めておこう。これは天が配剤して下さった、先生と筆者二人だけの〃宝物〃だ。そんなに簡単に公表できようか?

なぁ~んちゃって!読者の皆様、今年もどうぞこのバカと、我慢強くお付き合い下さい。それでは、ゴキゲンヨー!!


2011/01/01

出でよ、平成の信長&龍馬…情報戦を制して〃天下〃を狙おう!!

「推敲」(すいこう)と言えば、中国の故事に由来した言葉で、皆さんもきっと耳にされたことがあろう。何故こうした書き出しになってしまったのか?それは、取りも直さず「推敲」の為せる業(わざ)である。極論すれば、「推敲」を重ねる余り、せっかく書き上げていた長尺の原稿をボツにしてしまったのだ。嗚呼…。

故事によれば、唐の時代、「科挙」(官吏登用)の試験を受けるため長安にやって来ていた賈(か)島(とう)が詩作の途中で、「推(お)すか、敲(たた)くか」で大いに悩んだ挙げ句、知事である韓愈(かんゆ)の行列に突っ込んでしまった、というエピソードにちなんでいる。転じて、文章を書いた後、何度も何度も読んで、練り直すことの意。

率直に言って、ボツにした原稿が特段「出来損ない」というわけではなかった。それなりに考え抜いたテーマだったし、力を込めて書いたつもりだった。が、いかんせんシックリこない…。

ましてや、一年の計を占うという「元旦版」である以上、変な失敗だけはしたくない。色んな不安が頭をもたげ、すっかり自信を失くしたまま、長時間にわたってパソコンと向き合っていたという次第だ。

しかし、よくよく考えてみたところで、筆者の書く文章に一々期待を込めて読んで下さるような奇特な読者などあろうはずもない。しょせん「雑文」。もっと気楽に、普段着のままの自分を晒せばよいではないか。そう思ったら、急に気が楽になった。

では何を書こうか?2011年はカボチャテレビが放送サービスを開始して20周年だし、あの「6・3大火砕流災害」からもちょうど20年。情報では、日仏合作のNHKのドキュメンタリーに加えて、TBS系の衛星放送でもドラマ制作が計画されているようだ。

どちらも大いに「島原の存在」を世にアピールしていただきたいものだが、やはり何より大切なのは、ここで暮らす我々の心の持ちよう(生きる姿勢)であろう。もっと直截に言うなら、島原の強みは何?どこがウイークポイントなの?

「推敲」に倣うわけではないが、「敵を知り、己を知らば―」という『孫子の兵法』の真に意味するところを見落としてはいけない。人生も世の中も「戦い」に変わりはないし、たとえ不利な状況が続いたしても、勝つ(生き延びる)チャンスは必ず隠されている。

先般、所用のついでに南九州・霧島温泉の麓にある「丸池湧水」を訪ねた。以前からその存在は知ってはいたが、一言で印象をいうと、「島原の原点」であるような清々しい気分を覚えた。

それは肥薩線・栗野駅の脇に佇む、一見何の変哲もない湧水池である。規模も白土湖と比べると、遥かに小さい。しかしながら、その存在感は圧倒的ですらある。例えていうなら、「四明荘」(新町・旧伊東邸)の拡大版のような感じなのだ。

たまたま筆者が訪れた日は曇天だったため、上空の青空とのコントラストは楽しめなかったが、豊富な湧水量(日量2万トン)と透明度は圧巻だった。また、音無川に相当する水路のせせらぎの風情も抜群で、妙に観光地ずれしていない点にさらに好感が持てた。

返す刀で「それに比べて島原は…」などといった論法は、正月ならずとも「野暮の極み」であるから止めておくが、同じく「日本名水100選」の称号を授かった地として参考にはなるはずだ。

ところで、新年のNHK大河ドラマは、人気の『龍馬伝』に続いて浅井三姉妹の一人『江(ごう)』ということだが、その主人公にとって伯父に当たる、天下人、織田信長は若い頃、自国に訪ねてくる旅人の話を好んで聞いては、各種の情報を収集していた、という。

「土地から土地へ歩いていく旅人というのは、今生きている同時代人が何を求めているか、という情報がそのまま歩いているようなものだ」(童門冬二『戦国を終わらせた女たち』)。つまり信長は、誰に教わるでもなく「情報戦の大切さ」を知悉していた、というわけだ。

いわんや現代は、インターネットの普及が猛烈な勢いで進むIT社会である。極論すれば「情報こそが勝敗の岐路となる可能性」が高い。言い換えるなら、市や商工会議所、観光協会などといった公的な区割りに縛られないで、それぞれの立場で「正しい&生の情報」を得ることがごく普通に可能になった。

要は、やる気とアイデア次第。それほどの資本力はなくても、十分に天下を窺える時代となってきたのだ。信長、龍馬とまではいかずとも、この島原半島の持つ潜在力を引き出し、さらにそれを天下に知らしめる「傑物」が一日も早く出現することを願って止まない。