2008/02/29

CFMの〃存在意義〃 - 当面「もっぱらしまばら」で!! -

 福岡市内での用事を終え、26日午後、久々に久留米市を訪ねた。日本コミュニティ放送協会九州地区協議会(会長・竹永淳一エフエムやつしろ社長)の会合に出席するためだった。

 高速に乗って1時間弱、移動は予想以上に短時間で済んだ。会場は伝統あるブリヂストンクラブ。同市内でコミュニティFM局(CFM)を運営している二又大榮さん(久留米運送社長)らがにこやかに出迎えてくれた。

 会議は監督官庁の総務省九州総合通信局の上席検査官も交えて約2時間。加盟18社のうち、半数を超えるCFMの関係者が出席していた。

 率直な感想を述べると、ふだん出席しているケーブルテレビ局関係(CATV)の会議の雰囲気とはまるっきり違った。皆さん、とても物静かな方ばかりで、正直ビックリした。

 小生は一番の〃新参者〃なので当初は発言を控えていたが、「各社の状況報告」という最後のコーナーで、少しだけ喋らせていただいた。

 その内容は、当社がCATV事業との緊密な連携のもと運営に取り組んでいることを中心に、「防災&防犯」が究極の経営テーマであることをお伝えした。

 全体的な結論から言うと、1点だけを除いて、相当〃実〃のある会議であったように思う。その1点とはCFMの〃存在意義〃に関する認識の違いだ。

 誤解を承知で敢えて言わせていただけば、先輩局の皆さんは「コミュニティが何であるか」という根源的な問題について、いささか〃的外れな見解〃をお持ちのようだ。

 裏を返した言い方をすれば、皆さんの気持ちのどこかにまだ、「広域的なもの」に対する憧れが燻ぶってはいないだろうか。

 確かに、「市」とか「郡」とかいった一定程度の「広域性」は必要である。ただ、それ以上のものを求めていくということは、ひいては「県域局」との競合を意味する。

 分かりやすい事例を挙げよう。台風時等に、県北地域の停電情報を聴いたとして、それが果たして島原半島の人々にとって役立つ情報と言えるだろうか?答えは「ノン」である。

 顕著な事例が、つい先年の新潟・中越&中越沖地震で実証されている。日本災害情報学会がまとめたアンケート調査によれば、災害時に「一番頼りになったメディアは圧倒的に(9割以上)CFMであった」という結果がはじきだされている。

 今回、初めてCFM業界の会議に出席させていただいて、同業者であることの〃連帯感〃の大切さは十分に感得できたが、一方で何かしら釈然としないものも残った。

 しかしながら、何はともあれ「もっぱらしまばら」である。まずはこの島原半島の地でCFMを成功させること。当面はそこ1点に〃焦点〃を絞ろう。


2008/02/27

映画出演が決まる!! - 島原の宣伝に少しでも… -

童謡に〈運転手は君だ。車掌は僕だ…〉というのがある。もっとストレートな表現に「籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草履を作る人」というのもある。

まあ、人それぞれに〃役割〃があるということの喩えだが、近々島原ロケが敢行される『まぼろしの邪馬台国』に関して言えば、泉下の康平先生は今回のキャスティングをどう捉えておいでだろうか?

ひょっとして「なしてオマエ(和子夫人)が吉永小百合で、オイが竹中直人な!?」なぁーんてボヤいておられたりして…。冗談、冗談!!

そのロケの話だが、先週末、東映の関係者から電話が入った。仮に〃出演交渉〃としておこう。

「モシモシ、清水さんですか。東映の○○と申します」「ハイ、清水です。ご用件は何ですか?」

「この度は、当社の映画に出ていただくことになりまして有難うございます」。「エッ、本当ですか?ところで、どんな役柄ですか?セリフはあるんですか?」

「現時点で余り詳しくは申し上げられませんが、そのーぉ、遺跡の発掘現場と言うか、バナナ園と言うか…。とにかく3月の○日と○日の二日間だけは空けておいて下さい」

賢い読者の方はすでにお察しだと想うが、いわゆる小生の役回りは「エキストラ」である。セリフなんかあろうはずがない。

「ところで清水さん、身長と体重をお聞かせいただいて宜しいでしょうか?」「ハイ、○○です」「どちらかと言うと、体格がよろしい方ですね」

「そうです。医者や友人からは『メタボのマモちゃん』と呼ばれています」「時代設定は昭和40年代後半なんですが、今のヘアスタイルはいかがですか?」

「短めですけど、一応全体的にフサフサはしています」「茶髪とかではないですね?」「ハイ」「安心しました。場合によっては、現場で刈上げにしていただくかもしれませんが?」「構いません」

以上が電話でのやりとりの要旨だが、どうも当初こちらが予想していたのとは〃違う方向〃で話が進んでいるようだ。

前置きが随分と長くなってしまったが、なぜ小生がかくも〃映画出演〃に拘っているかについて、少し語ろう。

昨年のCATV協議会の忘年会で、佐賀の武雄ケーブルテレビ(ケーブルワン)のH社長の話を聞いてしまったからだ。

「清水君、オイは映画(がばいばあちゃん)に出たとばい」「そら凄かですね。セリフはあったとですか?」「うんにゃ、そがんた無かった。ばってん、たいて武雄の宣伝になった」

いささか尻切れトンボになったが、簡単に言うとH社長と同じ〃心境〃である。敢えて言うが、H社長も小生も、その体型が文字通り「エキストラ・オーディナリー」なのである。


2008/02/26

インド人もびっくり!?…「もっぱらカード」にご協力を

「もっぱらカード」の新聞広告を3日連続して掲載させていただいた。決してサボろうとして訳ではなく〃できたてホヤホヤ〃の真新しいカードを手にして「何とかせんと!!」と思い立った次第である。

〃言いだしっぺ〃の小生のカードナンバーは発行数1万枚のトップを飾る「000000番」。ちなみに「000001番」は高校受験を間近に控えた我が家の三男坊君だ。

良くは知らないが、「ゼロ」の概念を編み出した国はインドである、という。一度も訪れたことはないが、さすがにエジプトやメソポタミヤ、黄河(中国)と並ぶ世界四大文明発祥の地だけのことはある。

聞くところによると、インド(旅の話)に関する限り、完全に病みつきになってしまう派と、もう決して訪れたくない派の〃二通り〃に、完全に分かれてしまうそうだ。

思い出した。昔は肌色の黒い人のことを「インド人」と呼び、白人全般を「アメリカ人」と言っていた。

今考えると、何とも乱暴な人種の見分け方だが、当時は別段その表現に〃違和感〃はなかった。「インド人の○○○○」という他愛もない遊びも流行っていたくらいだ。

そのインド経済が今、急速に見直され始めている。近い将来中国を凌ぐと言われる人口規模に目を付けた自動車メーカー等の日本企業も、続々と参入の機会を窺っている、とか。

もう一つ面白い話を以前に聞いた(少し古いかな…)。インドの人々は語学が堪能で、アメリカにいるインド人はまるで「ネイティブ・スピーカー」(地元の人間)のような会話ができる、という。

その結果、コールセンター等はインド人の〃独壇場〃で、次のIT業界の主導権は〃数字にも滅法強い〃インド関係者が握るであろう、という大胆な予測も行われるほどだ。

まあ、それはそれとして、我が「もっぱらカード」。詳しくは申込パンフを読んでいただけばすぐに分かるのだが、例えば「加盟店特典」。月額1万円(税抜)の加盟店料を支払うと - 。

1.『クラブもっぱらマガジン』(B5版・64ページ・2万5千部発行)にお店情報の掲載。2.毎週1回、FMしまばらで2分間程度の〃生コメント〃によるお店紹介。3.カボチャテレビによる加盟店コーナーでの紹介。

数字に置き換えると、そのサービス内容は「1万円の投資で2万円以上の告知効果」という〃不等号〃を使った数式が成り立つというスキームだ。

商売繁盛のポイントは - 。まず何と言っても、1.お店や会社を知ってもらうこと。2.とにかく一度利用してもらうこと。3.お客様に満足して頂きリピーターになってもらうこと。

弊社では現在、社を挙げて1.マガジン 2.会員 3.加盟店の「三位一体戦略」を展開中。インド人もびっくりするかな!?


2008/02/25

確かに近まる春の訪れ - 二枚の扇で巧みにバランスを -

連日、寒い日が続いているが、確実に春は近まっている。弊社事務所前の木々の芽も日増しにやわらいでいるように見える。

初冬に植えたチューリップの球根は、重い土を持ち上げるようにしてそろって芽を出し始めた。春はもうすぐそこだ。

「春」という字を『字通』(平凡社・白川静著)で引くと、長い、長い説明書きの後に、「蠢(うごめ)く」とあった。虫が地下からはいだす、いわゆる「啓蟄」(けいちつ)の意だ、と。

『広辞苑一日一語』(岩波書店)によれば、この季節に吹く風を「貝寄せの風」と言うそうだ。〈貝寄する風の手品や和歌の浦〉=芭蕉。

プロ野球のキャンプも各地で始まり、スポーツ新聞に「球春」の見出しが躍るのもちょうどこの頃。そして島原では間もなく、藩制時代以来の四百年の伝統を誇る「初市」が始まる。

そんな季節の移ろいの中、今日は東京から〃珍客〃が訪れた。弊社58チャンネルで放映している「囲碁・将棋チャンネル」の部長Iさんだ。

Iさんとは、昨年11月に宮崎市で開かれたCATV業界のトップセミナーでご一緒して以来、親しくお付き合い頂いている。

聞けば、同社の社長Mさんはハワイ・カウアイ島で不動産管理をしながらの優雅な暮らしぶり、とか。羨ましくもあるが、常夏の地に居ては「春到来!!」の感激はとても分かるまい、と勝手に一人ごちた。

Iさんからお土産を頂戴した。将棋の第14期銀河位の羽生善治さんと、第15期竜星位の張栩さんの直筆の書が印刷された扇だ。羽生さんの言葉は「克己」。張さんは「大志」としたためている。

Iさんには「島原・松平藩の家紋が『重ね扇』である」旨を伝え、丁重にお礼を述べた。それにしてもお二人とも字が下手だ。

扇で思い出した。経営コンサルタントの立川昭吾さん(TSKプランニング代表)が著書の中で、面白い〃例え話〃をしている。タイトルはずばり『なぜかお金が逃げる人大きくたまる人』(アーク出版)。

立川さんによれば、「団扇(うちわ)経営はダメ、扇(おおぎ)経営でなくてはならない」と。つまりは、「広げっぱなしでは、経営は成り立ってゆかないよ」との戒めだ。

なるほど、分かりやすい。その時々の経営環境に応じて、扇の幅を広めたり、狭めたり…。まさしく時宜にかなった論法だ、という気がする。

さらに感心したのは風呂敷の話。包む物が何も無ければ、たたんで懐に仕舞い込むことが出来るし、物の大きさに合わせて柔軟に対応出来る。これが日本文化を代表する、風呂敷最大の特長である。

繰り返すが、島原・松平藩の家紋は「重ね扇」。二枚の扇で巧みにバランスを取りながら、島原半島経済が破綻しないような道を皆で模索していかねば!!


2008/02/20

早く自首せよ〃放火犯〃 - 手放し運転でコケてしまう!! -

〃桃尻桃子〃こと上田桃子選手が海の向こうのアメリカツアー初戦で、見事5位入賞を果たした。まだ20歳そこそこだというのに、大したものだ。

それに比べて、嗚呼この俺は…。もっとも比べること事態がナンセンスだが、せっかく超えた〃百の壁〃なのに、再び引き戻されてしまった。

前にも書いたように先月末、都城市のCATV局の幹部とともに回った南国カントリー(鹿児島)では散々な目に遭った。

ところが、島原に帰ってきた途端、何を開眼したのか、一挙に「90」を出してしまったのである。これで妙な自信をつけ一挙に〃天狗〃になった。

まあ、単純と言えば単純至極。裏を返せば、何とも深みのない、薄っぺらな性格だ。

しかし、自信とは恐ろしいもので、一度その壁を破ってしまうと、「何とはなしに出来てしまいそうな」気がする。その証拠に、前回のプライベートコンペでは楽々と「98」で回れたのである。

そして迎えた昨日(17日)のコンペ。ハンデも「これでもか!!」と言われるくらいに頂いているので、「優勝間違いなし!!」の自信満々の心境で臨んだのだが…。

結果から言うと、軽く「100」超え。平成新山下ろしの寒風が、ひときわ身にしみた一日だった。何事も油断大敵。

もっともコースに出る前から、目に余る〃天狗ぶり〃を危ぶむ声も一部から上がってはいた。それに対して小生は、教本で読んだ「自転車理論」で対抗していた。

〈自転車は一度乗れるようになると、次から自然と乗れるでしょう。あれと一緒ですよ。だから、ボクは余程の事がない限り、もう『100』以上を叩くことはありませんよ〉

その〃余程の事〃がこうも簡単に起きてしまうとは…。そうだ、良い〃言い訳〃を思いついたぞ!!

〈自転車に乗れるようにはなったのだが、たまたまその日は『手放し運転』をしていたものだから…〉。これなら、皆さん納得してもらえるだろうか?

週の初めから〃バカ話〃で恐縮だが、世の中、余りにも厭(いや)な事ばかりが多すぎて、ストレスは溜まっていく一方だ。

今朝、出勤の折にアーケード街を通っていたら、すれ違ったのは高校生3人とネコ2匹。それとバキュームカーが1台。折からの冷え込みのせいもあろうが、何とも寂しい限りだ。

実は昨日、所用で諫早方面に出かけた。唐比の生鮮市場はマイカーで乗りつけた客でごった返していた。夕食に立ち寄った回転寿司は小一時間待ち。

時間帯が違うとはいえ、島原はドガンカセントイカン!!放火の犯人(?)もバイクではなく、人々の心に火を点けてよ。それより早く自首しなさい!!


上田桃子 ~ 桃尻 桃子の「待ってろ世界!」


2008/02/18

折角の〃島原ブランド〃 - みんなで盛り上げましょう!! -

偶然の為せる業か。たまたま昨日「映画」の話を書いたら、東映九州支社のスタッフの方々が夕刻、弊社を訪ねて来られた。

夜は夜で、誕生日を迎えた母と共にテレビを観ていたら「チャングム」(NHK・BS)の後で、「日本アカデミー賞授賞式」(日テレ)を放映していた。

東映スタッフの来社の目的は、今秋封切予定の「まぼろしの邪馬台国」の現地ロケ等への協力依頼。言うまでもなく同作品のテーマは、我が島原の宮崎康平&和子夫妻の生き様に焦点を当てたものだ。

主演は和子夫人役の吉永小百合さん。康平先生役は竹中直人さんが演じる。脚本は一昨年のNHK大河ドラマ「巧妙が辻」を書いた大石静さん。監督は新進気鋭の堤幸彦さん。

若き日の〃長浜和子さん役〃を、お孫さんの香蓮ちゃん(島一中2年)が演じるのも、大きな見所の一つだろう。

この日の打合せには香蓮ちゃんの父親で、「FMしまばら」のパーソナリティとしても活躍している春而さんも同席、貴重なアドバイスをくれた。

同スタッフによると、島原ロケは今月の後半から来月初めにかけて行われる予定。お許し頂けるなら、小生もエキストラとして出演するつもりだ。

ただ、幾つか気がかりな点がある。映画の世界の〃掟〃なのかどうか知らないが、ロケ開始まであと2週間足らずだというのに、現地との接点が薄いような気がする。

同時に、今回の映画誘致に対して、地元関係各機関の〃熱意〃が杳(よう)として伝わって来ないのも解せない。

佐賀では「がばいばあちゃん」の二匹目のドジョウを狙って、古川知事らが〃秋波〃を送っている、とか。そんな話を聞くと、余計心配が募るのである。

宮崎さん夫妻が島原半島に収まりきれずに、九州全域を舞台に活躍されたことは〃周知の事実〃であり、否定はしない。ただ、地元としての受入態勢を考えた場合、余りに安閑としていないだろうか?

相手は「東映」という大配給会社。しかも、主演が「吉永小百合」(国民的大女優)という〃大事な局面〃を軽んじ過ぎていないだろうか。

「観光業は裾野が広いので、地域を挙げて力を入れていく必要がある」「定住人口の増加は望めそうもないので、今後は交流人口をどう増やしていくか」 - 。普段よく耳にするこうしたフレーズは〃空念仏〃なのか。

「市町村合併」が進み、近い将来の「道州制」が論議され始めた現在。そうしたお上主導の「行政枠」に埋没しないよう努めるのが地方の生き延びる道だろう。必要なのは地域固有の「ブランディング」だ。

「宮崎康平&和子」というれっきとした〃島原ブランド〃を他所に略奪されていいの?佐賀人の歩いた跡にはぺんぺん草も生えないと言うではないか!?


2008/02/16

市川監督のメガホンで - 「東京オリンピック」を撮影 -

14日から15日にかけての新聞各紙を読むと、映画監督・市川崑さん(13日死去)にまつわる記事に多くを割いている。

小生は〃映画通〃ではないので、氏の作品は余り観ていない。ただ、「東京オリンピック」だけは別。スクリーンいっぱいに太陽が昇るシーンは特に印象に残っている。

同大会が開催されたのは昭和39年(1964)であるから、映画化は恐らくその翌年だろうが、当時、学校教育の一環として鑑賞させていただいたことを覚えている。

小生の学校の近くには映画館なるものがなかったので、小浜の温泉街にある映画館まで、先生の引率で歩いて行った。形を変えた遠足のようなものだ。

その頃、小生はまだ小学生(4年生)だったが、子どもの目に映る小浜の温泉街は〃大都会〃だった。温泉熱を利用した「バナナ園」もあった。

映画の中身云々はともかくとして、薄暗い照明の向こう側で繰り広げられる華やかな〃スポーツの祭典〃には、完全に度肝を抜かれた思いだった。

一方で、これで味をしめた訳ではないが、何となく〃淫靡な香り〃が漂う映画館そのものに魅かれていった。中学生になってからは、脚が少しでも伸びるようにとの願いを込めて、自転車のサドルを目一杯上げて通いつめた。

お目当ては「不良番長シリーズ」。この時、ハリウッド映画等の名作に触れておけば、少しは人生の方向性も変わっていたのかもしれない…。

同シリーズの主役は梅宮辰夫や山城新伍ら。今で言う「アクション喜劇」の一種で、適度にお色気シーンもあって、胸をときめかせていたのも事実だ。

話がまったく脇道に逸れてしまったが、「東京オリンピック」の太陽が昇るシーンを撮影したカメラマンは、実は、島原市三会出身の人だ。

確か「林田さん」という方で、もう10年以上も前に、その伝記本を島原新聞で紹介した記憶がある。残念ながら、お名前を失念してしまった…。ということで、本日は取り上げることができないので、後日また改めて!!

ところで、今年(2008)は北京オリンピックの年だが、東京オリンピックはアジアで初めての開催だった。確か第18回だった、と記憶している。

この大型イベントを機に、日本は〃高度成長への道〃をひた走ることになるのだが、政治家・河野一郎と市川監督との〃確執〃ばかりでなく、その背景では色んな〃ドラマ〃も生まれている。

東海道新幹線(夢の超特急)の開通もそうだろうし、高度経済成長路線へ舵を切った池田隼人総理の無念の死もその一つだ。

島原でも同年、島原城天守閣が完成。漏れ聞くところによると、我がNTT局舎もその年に竣工したとのことだが、本当だろうか?


2008/02/14

宅島サキヨさん逝く - 「愛」に溢れた句集を遺して -

宅島建設社長、宅島壽雄氏の母堂、サキヨさんが12日午後、入院先の諫早市内の病院で亡くなった。享年85歳。子供は長男の壽雄氏を筆頭に、次男が同社専務の壽晴氏。このほか4人の娘さんがいる。

通夜は13日午後7時から、告別式は14日午後1時から、いずれも雲仙市小浜町北本町の来迎舎「小浜会館」で営まれる。

同郷の大先輩であるが、余りにも世代がかけ離れているため、面識は少なかった。ただ1度だけゆっくりとお話を伺う機会を作って頂いたことがある。

平成11年6月。自選句集『いわし雲』を出版された時のことで、取材のためご自宅にお邪魔した日のことを〃昨日の出来事〃のように憶えている。

ペンネームは平仮名ではなく、「咲代」という漢字を使われていた。久方ぶりに同句集を読ませて頂いてみて、門外漢ながら、その「観察眼」の鋭さに驚きを禁じえない。

「あとがき」で確認すると、サキヨさんが俳句の道に入られたのは、今を遡ることちょうど30年前。夫(先代社長)の看病生活を続けながら、であった。

句集は、昭和53年から平成11年までの足掛け20年余で詠みためた378点を、編年スタイルでまとめてある。

題材はその折々の身の回りの出来事が中心で、女性ならではのたおやかな〃感性〃が息づいている。まるで筆の運び音まで聞こえてきそうな感じだ。

誤解を恐れずに言えば、作品の「底流」を為すものは「愛」そのものに他ならない。そのベクトルは肉親や家族、自らの古里、さらには世の事象すべてに向けられている。

ユーモアもある。平成2年に詠まれた〈帰省子の服に煙草の匂いあり〉との一句は社長の長男か、はたまた次男か!?

巻頭を飾っているのは〈病む夫の寝息聞きつつレース編む〉という作品。本のタイトルともなった「いわし雲」が出てくるのは昭和60年作の〈思うこと数限りなし鰯雲〉から。

指導に当たった「きさらぎ」の朝倉和江さんは序の中で、「宅島さんの俳句の傾向は、鈴木真砂女に似ている。(中略)馬酔木の作家でいうと、及川貞の作品に近い」と専門的な立場から分析している。

残念ながら、ここ数年は病魔との闘いが続いていたこともあって、社長が望んでいた「米寿」「白寿」の記念句集は出せなかった。しかし、その分『いわし雲』の存在価値は増す。

小生も昨晩(仮通夜)、小浜町上脇にあるご自宅を訪ねたが、さらに驚いたのは、その達筆ぶり。よくよく句集を眺めてみると、カバーから奥付まで、全てがご本人の直筆であった。

今改めてその才能の喪失を嘆くとともに、小生も帰途、澄み渡った夜空を見上げながら一句ひねってみた。〈冬夜空思ひ遥けく流れ星〉大先輩の苦笑する顔が浮かぶ。


2008/02/13

水仙は〃自己陶酔〃の花 - もしオバマ候補が勝ったら!! -

3連休の中日、散歩がてらに島原城のウメを見物した。文化会館側から入る石段の坂道を抜けると、白亜の天守閣をバックに紅梅の並木が落ち着いた色合いの固まりを作っていた。

背伸びをしながら、一つひとつの花びらをつぶさに鑑賞していくと、いずれも少し渇いた様子。種類は違えど、「花の色は移りにけりな…」であった。

その点、古野梅園の白梅は今が〃盛り〃といった感じで甘い香りがした。ふと傍らに目を移すと、石垣の隙間(すきま)から伸びた可憐なスイセンの花が風に揺れていた。

スイセン(水仙)は福井県の県花である。英語で言うと「ナーシサス」。広辞苑によると、ヒガンバナ科の多年草。原産地は地中海沿岸で、シルクロードを伝って東アジア地方に渡来したのだそうだ。

その「ナーシサス」から生まれた言葉が「ナルシズム」(自己陶酔)。ギリシア神話で、水に映る自分の姿に恋して、とうとう水死してしまう美青年の故事に由来する。

そんなこんなを思い起こしながら文化会館の駐車場に戻っていく途中で、大判のマジックミラーに映った〃我が立ち姿〃が目に飛び込んできた。美青年とは対極の心境で、もう死にたくなってしまった。

ところで先日、米国の次期大統領の候補者を決める予備選挙(特に民主党)が白熱しているが、黒人初の大統領を目指す「オバマ候補」に、福井県の「小浜市」が盛んに秋波を送っている、というテレビ報道がなされていた。

共和党が勝つのか、はたまた民主党が勝つのか予断は許さないが、仮に民主党の「オバマ候補」が当選するとすれば、「絶対に小浜は有名になる!!」との予想は図らずも当たった。

福井県の小浜市は現在、NHKの朝の連ドラ『ちりとてちん』のヒロインの生誕地という設定だ。これはもうウカウカしていては、ヤラレテしまう。

先般、その小浜市生まれの中年の女性(大阪在住)から名物の「ヘシコサバ」を送っていただいた。ただ、味の方はいかんせん塩分が強すぎて…。

その点、我が雲仙市の小浜は、「温泉」も「海&山の幸」もふんだんにある。警備の問題はあろうが、長身でハンサムな大統領が浴衣掛けで「湯せんぺー」をかじっている姿などはとても絵になるではないか!?

とにかく誘致合戦そのものより、小浜同士、共同戦線を張って取り組んでみたらどうだろう。まずは当事者が楽しむこと!!

そこからまた新たなアイデアも生まれてくるだろうし、ほのぼのとした「地域間の交流」も始まるのではなかろうか!?

とまあ、勝手なゴタクを並べてみたが、よくよく考えると、これも小生に巣くう「ナルシズム」の一種。豪快に笑い飛ばしていただければ…。


2008/02/12

少しは役に立ったかな!? - 奈良・壺阪寺先代住職の教え -

島原とも馴染みの深いフリージャーナリストの江川紹子さんから、先日メールを頂いた。中身は知人から頼まれた「人探し」。

手がかりはその方(物故者)の「旧姓」と「生年月日」くらいで、本籍や学歴等のさしたる手がかりはなし。

さーて、困った。いかに島原半島が、過疎化が進んでいる地域とはいえ、その年に生まれた人間は何千人といるはずだ。加えて、最近は「個人情報」等の問題もあって、そうそう簡単には割り出せない。

困り果てていたら、岳父が「島高の卒業名簿ば見てみろ」と一言。素直にその教えに従ってページを捲っていたら、ナント偶然にもその方と思しき人の名前が見つかったのだ。

条件もピッタシだったので、喜び勇んで江川さんに返信。江川さんもことのほかに感激してくれて、小生に「SCIA」長官の称号を下さった。

「SCIA」とは「CIA」(アメリカ中央情報局)をもじったもので、「S」は島原半島を意味するものらしい。

江川さんは以前、週刊文春誌上で「人を助ける仕事」と題して連載コーナーを受け持っていた。その点では、今回は小生も少しは〃手助け〃になったかな、と思っている。

話は変わるが、ひと月ほど前に車の運転をしながらNHKラジオの『宗教の時間』を聴いていたら、奈良県にある「壺阪寺」(真言宗・南法華寺)のご住職(常盤勝範氏)が出演されていた。

同寺院は大宝三年(西暦703)に創建された古刹で、西国三十三箇所第六番札所として知られる。人形浄瑠璃「壺阪霊験記」の舞台としても有名だ。

番組の中で同住職は自身の経歴について触れ、「父親の死によって、科学の世界から急きょ、宗教界に引き戻されてしまった」と苦笑いされていた。

その父、常盤勝憲氏が常々子供達に言い聞かせていたことは「いつも人を喜ばせるよう心がけなさい」という教えだった、という。

「最初のうちは何が何だかサッパリ分かりませんでしたが、跡を継いでみて、ようやく父が諭していたことが呑み込めてきたような気がします」と述懐する同住職。

今回の江川さんの依頼事と壺阪寺とは何の関係も脈絡もない。ただ、我が身を振り返ってみて、果たして小生の仕事や行動は人様のお役に立てているのだろうか…。思わず自問自答してしまった。

「この能なし野郎」「役立たず」…。他人を誹謗中傷する言葉は枚挙にいとまがないが、考えてみれば、「引き立て役」あってこその「主役」である。

そう、「醜男」あってこその「色男」なのだ。入学試験に失敗したからといって嘆くな。落ちる人間がいるから合格者が生まれる。人生は長~いのだ!!


2008/02/09

金色鯛の勇姿をとくと - 田中熱学社長が釣り上げた -

前号で少しふれたが、〃金色の鯛〃を釣り上げた人がいる。江島栄太郎さん(古川青果社長)の紹介によると、その太公望は島原市栄町、田中金属社長の田中泰信さん。

時は平成20年1月25日。南風楼沖合い約8キロの海中から見事ゲットした。体長77センチ、重さは7.5キロだったというから、まぎれもない〃大物〃である。

何はさておき、論より証拠。まずは「写真」をとくとご覧あれ。残念ながら、白黒紙面ゆえ〃金色〃の肌合いがお伝えできないが、魚体全体がやや渋めの〃シャンパンゴールド〃の輝きを放っているのだ。


実はこの日、田中さんはほぼ同サイズの〃桜色の鯛〃を釣り上げているというから、対比の妙も鮮やかに、さぞかし〃二重の慶び〃に浸ったに違いない。

さて、肝心のお味の方は…。数日間、島原外港内の生簀(いけす)で休ませた後、先月29日の晩に仲間内10名ほどで召し上がった、とか。

実は、その晩に小生にもお呼びがかかったのだが、あいにく長崎から〃珍客〃が訪れていたため、残念ながらご相伴にあずかれなかったのである。

そのせいもあって、恨みがましく「本当に美味かったですか?」としつこく尋ねたら、江島社長はぐっと胸を張って「当然やろもん!!」とバッサリと切り捨てられた。

そう言えば、食通として知られた作家の池波正太郎氏によれば、魚は釣り上げた直後より、生簀でしばらく泳がせた方が美味いのだそうだ。

さすがに江島社長らは心得たもので「魚は、釣り人との苦闘で筋肉が痛んでいるので、それをゆっくりと冷ましてあげる一定の時間がいるのだ」と説明してくれた。

なるほど科学的だ。それにしても、なんでそんな日に限って、あの珍客が…。今度は池波先生が「日本一美味い魚を食べさせるお店」と言っていた茂木の「二見」で奢らせてやる!!


2008/02/06

5日は「マラソン」の日 - 最近のラッキーカラーは金色 -

昨年末から今年にかけて結婚式の披露宴に良く呼ばれる。ひと月ちょっとの間に、都合3回だ。めでたくて清々しい気持ちになれると同時に、年老いていく我が身を案じる。

最近の特徴は余り招待客が膨大でなく、仲人を立てない「人前式」が多いことだろうか。知人に訊くと、福岡あたりではもうそれが〃当たり前〃らしい。

一方で、お世話になった方々が櫛の歯が抜けていくように亡くなっていく。いかに〃世の定め〃とはいえ、寂しい限りだ。

久々の完全休日となった3日の日曜日。自宅でいぎたなく寛いでいたら、吾妻町「長崎清水」の社長、清水誠一さんの訃報が飛び込んできた。

お会いすると、いつもニコニコ顔で冗談を言っていた、やり手の経営者が〃忽然と〃旅立ってしまった。これにはタマげた。

聞けば、昨年からガンとの闘病生活が続いていたそうだが、元気な姿しか知らない小生にとっては、〃忽然と〃としか言い様がない。今となってはご冥福をお祈りするばかりだ。

とまあ、そんなこんなで娑婆の暮らしを送っているのだが、何かしら今年に入って「一本たりないなぁー」という感じが拭えなかったので、護国寺にお参りすることにした。

会社の車両10数台の「交通安全」祈願と合わせて、社員全員の「身体健全」、並びに「商売繁盛」を願ってきた。

岩永泰賢住職によると、新暦の2月5日は、旧暦では12月29日。守り神様は「苗鹿大明神」ということだ。

その場で「何の神様なのか」尋ねれば良かったのに、足が痺れてつい聞きそびれてしまった。会社に戻って改定されたばかりの広辞苑第六版を引いたが、掲載はなかった。

その新装広辞苑の付録「一日一語」を開いてみると、2月5日は「マラソン」とある。説明文は実にありきたりだ。

〈陸上競技の一つ。ギリシアの勇士が戦場マラトンからアテナイまで約40kmを走り、戦捷を報じて死んだという故事にちなむ競技〉 - 。

それによると、現在のようにマラソンの距離が42.195kmに統一されたのは第8回の「パリ大会」以後のことだと。

詳しいことは忘れてしまったが、確かその当時は、正式競技種目に「釣り」が含まれていたのではなかったか!?

そうそう、「釣り」の話で思い出した。古川青果の江島栄太郎社長から電話を頂いていた。「オーイ、金色の鯛ば釣り上げた人のおらすぞ!!写真も撮っとるけん早よ取材に来んね」。

実を言うと、小生にとっての、最近のラッキーカラーは「金色」。ケータイ、名刺入れ、カサ…身の回りは「金色」だらけである。

そう言えば、お経を上げる岩永住職のお膝元にも「金の龍」が泳いでいたなあ。こいつは春から縁起が良いわ!!


2008/02/01

G馬場は読書家だった - 無名時代のアニマル浜口 -

平成20年も早ひと月が過ぎた。きょう1月31日は、以前に勤めていた会社の創立記念日だった。過去形で書いているのは、すでに社名が変わってしまったからだ。

今朝「FMしまばら」を聴いていたら、パーソナリティの女性が「今日は日本橋の東急百貨店が閉店した日(1999年)です」と喋っていた。

面白くなってネットで調べてみると、同じ日にジャイアント馬場が亡くなっている。一度だけだが、プライベート姿の同選手を見かけたことがある。

場所はキャピタル東急ホテルのロビー。もう10年以上も前に、島原生き残りと復興対策協議会の皆さんと一緒に上京した折に、その巨大な姿を認めた。

グローブのような大きな手で文庫本のページをめくっておられた。大の読書好き、との噂は聞いてはいたが、「確かに間違いない」と、その時思った。

プロレスで思い出した。娘がアマレス界で活躍しているアニマル浜口氏のことだ。最近では「気合だぁー」の掛け声で清涼飲料水のCMにも出るなど、ちょっとした人気者だが、初めて見た時はまだペーペーの存在だった。

中学2年の頃だった。老舗の「日本プロレス」(NTV系)に反旗を翻して立ち上がった「国際プロレス」(TBS系)の興行が小浜町の体育館で開かれた。

役場に勤めていた叔父から千四百円のリングサイドのチケットもらって、今では高校の英語教師となっているプロレ狂の友人と観戦に出向いた。

会場は試合が始まる前から熱気で溢れていた。気を静めようとトイレに立った折に、アニマル浜口選手と出会ったのである。

一緒に並んで用を済ませた。その時感じた「この人、意外に小柄だなあ…」というのが偽らざる第一印象であった。

同選手は鏡に向かって胸の辺りの筋肉をブルッと震わせてみせた。「オー!!」。いささかオーバーに驚いて見せたら、嬉しそうな表情を浮かべ「坊主、しっかり勉強しろよ」と声を掛けられた。

今からもう40年近くも前のことだが、当時はさすがに「気合だぁー!!」とは叫ばなかった。それにしても、人生は面白いと感じるのは、その後の有為転変の流れであろう。

レスラーとしては最も小兵の部類で、タイトル戦とも縁がなかったような人間が、並み居るチャンピオン経験者を押し退けて、今やちょっとした芸能界のスターである。

ただ、これだけは言えるのではないか。自分が余り日の当たる道を歩かなかった分を〃子供の教育〃に力を注いで、それが時代の要請と上手くマッチングした結果だと。

「今日は何の日」で調べると、2月1日は「テレビ放送記念日」(昭和28年)。力道山が活躍していた頃のプロレス中継(金曜夜)が懐かしい。