2008/04/28

新番組が始まります - 初回のゲストは吉岡市長 -

‐(株)ケーブルテレビジョン島原専務 清水眞守‐

ただ今の時刻、午前4時30分。誰もいない会社で独りパソコンに向かっている様は、どう見ても〃異常〃である。

経緯は忘れたが、とうとうレギュラー番組を持つ破目になってしまった。しかも、テレビ・ラジオ双方の〃同時生中継〃で。

ラジオを始めた時点から、新聞を合わせた「三位一体」方針を目指していたので、半ば既定の路線ではあるが、いざ自分が出演するとなると…。

番組タイトルは「ターニングポイント」。辞書で引くと、「転換点」「節目」などとある。誰かにその話をしたら、「映画にありましたよ、そのタイトル」というが記憶にない。「バニシングポイント」という作品はあったが(71年)。

「バニッシュ」とは「こつ然と消え去る」という意味だが、「空(から)になる」というのが、その語源だそうな。エーイこうなりゃ、色んな邪念を捨て去って「空」になって臨むしかない!!

一方で、同一タイトルの番組(テレビ朝日系)が10年程前にあったこともわかった。ユースケ・サンタマリヤと優香が司会し、山本寛斎がコメンテーターを務めていたというが、視た覚えはない。

余り視聴率が取れずに、1年で打ち切りになったそうだ。始まる前から縁起でもないが、ここは一つ「心を空にして」 - 。

話は変わるが、人気の大河ドラマ「篤姫」の舞台となっている薩摩では、物事に迷っている輩に送る有名な言葉がある。「泣こかい、跳ぼかい、泣こよか、ひっ跳べ」 - 。前向きな行動を後押しする教えだ。

本来であれば来月スタートの予定だったが、前倒しとなり、きょう28日から始まる。初回のゲストは、その薩摩とも縁の深い島原市の吉岡庭二郎市長。

はて、番組の中で何をインタビューしたものやら、少しも考えがまとまらない…。イヤイヤ、ただ「ひっ跳ぶ」のみだ。

放送枠は毎月曜日の午後7時から同55分まで。夕刊エリアでは、その時間帯には、すでに本紙が届いているはずだから、何ともまぁー間(ま)の悪い…。

視聴者、並びに聴取者の皆様にはどうか、このはっきりと予想される〃不手際〃の数々をお許しいただきたい。慣れるまでに幾度も幾度も「失敗」することは間違いない。

外はまだ暗い。車の音も聞こえない。ひたすら心を「空」にして、キーボードに向かっている。

と、もう一個別の「ポイント」が浮かんできた。マーケティング理論で言うところの「ティッピングポイント」という言葉だ。

その定義は「あるアイデアや流行、社会的行動が〃敷居〃を超えて一気に流れ出し、野火のように広がる劇的瞬間」のこと。

「ターニングポイント」という新番組を「ティッピングポイント」に持っていくまで、恥を忍んで頑張ろう。夜も明けてきた。


2008/04/27

粉商売は儲かる!? - ムーディーは気持ち悪い -

‐(株)CATV島原専務 清水眞守‐

俗に「粉(こな)商売はよく儲かる!!」と言われるが、チラシに誘われて煎餅を買いながら「なるほど…」と思った。

いかに原料の小麦粉が値上がりしたとしても、「原価率」からしたら、さほどのことはなかろう。むしろ着目すべきは、味付け、商品イメージといった「ソフト価値」ではないか。

同じ「粉」を扱っても、覚せい剤などの「麻薬系」の稼ぎは、もっと群を抜いているはず。ただし、これは「商売」ではなく「犯罪」である。

そんなアホらしいことを考えながら店を出て、「どうして身を粉(こ)にして働く、などと言うのだろうか?」と訝った。

早速帰って手元の「故事ことわざ辞典」(学研)で調べてみたが、「苦労をいとわず、一生懸命に働くようす」との解説はあったが、語源についてはまったく触れていない。

同種の四文字熟語に「粉骨砕身」(ふんこつ・さいしん)というのがあるが、こちらの用例説明もいま一つだった。

それなら「字通(白川静)をひも解いて…」ということになろうが、何だが今朝方は気が重くて、その苦労を易々と厭ってしまった。申し訳ない…。

以前に読んだ宗教学者の対談集に「日本は米の文化で、中央アジア以西は小麦の文化である」という一説があった。

すなわち、小麦とは「パン」のことだろうが、お米を「粉」にした食べ物は「きりたんぽ」(秋田)や「五平餅」(岐阜)くらいしか浮かばない。しかし、これとて炊いたご飯をつぶしたものだから、厳密に言うと「粉」ではいない。

あー、こんがらがってきて、何が何だか分からなくなってしまった。だから、言葉は難しいし、面白いのだが…。

もう一度「粉」に戻ろう。化粧品の代名詞である「おしろい」は「白粉」と書く。「白塗り」の舞妓はんなどはその代表格であろうが、個人的な好みとしては余りいただけない。

おちょぼ口をきりっと結んでいる間は「綺麗だなぁー」なんて見とれたりするが、ニッコリ笑った途端に、歯の黄色さだけが目立つ。一瞬にして興ざめである。

英語で「化粧する」ことを「メイクアップ」(メーキャップ)という。これなどは洋の東西を越えた真実語(?)で、元々は「足りないところ補う」という意。つまり、「捏造」(ねつぞう)のこと。

事のついでに「ムーディー」について。最近ではちょび髭を生やした「ムーディー何某」というタレントが、鼻白むような戯れ歌をうたっているが、本来ムーディーは「気分がふさぎこむ」という意味なんだそうだ。

若い人間で喜んでいる輩も多いようだが、50歳を超えた身からすると、まったくもって気持ちが悪い。まさしく「名は体を現している」と言えよう。


2008/04/26

ついに600人を超える - 関東島原半島会の記念大会 -

‐(株)CATV島原専務 清水眞守‐

先般の東京出張で初めてお会いした、関東島原半島会創立60周年記念大会事務局長の平野康博さん(南串山町出身、口加高20回卒)から、熱のこもったメールを頂戴した。

同大会への参加者が600人をオーバーしたことをはじめ、すべて地元産の食材にこだわった「特別料理」が振る舞われること等が連綿と記されている。

指揮を執るのは、東京プリンスホテル執行役員で総料理長の柘植末利さん。小浜町生まれの超一流シェフだ。加えて当日は、八幡秀昭・同実行委員長(島原市出身、島高18回卒)の肝煎りで、マグロ3本の解体ショーも威勢よく繰り広げられる予定だ。

さらにさらに、カンパチ20本に、深江支部の人たちによる「ろくべえ&クロダゴ」の手作り実演。会場となる「鳳凰の間」は全て島原半島産の花で埋め尽くされる、という。

また、今年11月1日、全国東映系で封切予定の映画「まぼろしの邪馬台国」(ダイジェスト版)の試写会も同時開催。もっと、もっとあるぞ!!参加者全員に120ページ立ての「記念誌」が贈呈されるほか、お土産、お楽しみ抽選会も。

エーイ、こうなりゃヤケノヤンパチ、持ってけドロボー!!おっと、これは松竹の「寅さん」か。ひょっとしたら「吉永小百合さんの会場入りも!?」 - なぁーんて言ったら、東映関係者に怒られるか。

カボチャテレビとFMしまばらでは、当日の賑わいぶりをインターネットのストリーミングサービス等で「生中継」。現在、半島内3市からの出席予定者は行政、一般含めて約80人。市長、議長、県議の皆さんも揃い踏みだ。

欲深い(?)平野さんはこれでもまだご不満の呈。「もっと、もっとおいでよ、島原半島の皆さん!!」と盛んにエールを送る(詳しくは島鉄観光、新日本観光まで)。

とまあ、ヤンヤ!!の催促なのであるが、裏を返せば「それほど愛郷心と、会の運営を預かる責任感が強い」という証でもある。

直線距離にして1千キロも離れた関東地区と島原半島であるが、「心」はしっかりとつながっている。それは大阪でも、福岡でも、その他の都市についても同じことだ。

はなはだ荒っぽい考え方だが、地域浮揚のカギは「その絆」をいかに有効に活かすか、にかかっているように思う。誤解を恐れずに言うなら、「ユダヤ的発想」である。

ロスチャイルド家に代表されるように、イスラエルという中東の小さな国家が、世界経済の実権を握っているということは、誰でも知っている「事実」であり「現実」だ。

極端な「モンロー主義」の弊害は確かにあろうが、日本最西端の小さな半島が確固たる地位を占めるためには、そのパイプこそが「生命線」である。小生はそう思う。


2008/04/25

手を出すのはどっち? - 小4の10%以上が〃毛来〃と -

‐(株)CATV島原専務 清水眞守‐

ふだん何げなく暮らしている中で、たまらず可笑しい場面や言葉づかいに接することが多々ある。昨夜もそうだった。いつものように気の置けない仲間数人と、焼鳥屋で一杯やっているうちに、その言葉は出てきた。

「若いうちは、女房に『手を出す』ことも度々だったが、最近では年のせいか、それもすっかりなくなった。一緒に山登りなんかを楽しんでいる…」。

最初聞いた時は、「なるほど夫婦とはそうしたものか」と、ほのぼの気分に浸っていたが、よくよく考えてみると、「手を出す」のは「他所の女性」であって、「正妻」ではないはず。

この場合はやはり、「手を上げる」というのが正しい言葉の使い方だろう。それとも、疎遠になった閨房(けいぼう)での営みを懺悔した発言だろうか。

漢字の読み違いも面白い。我が家の「キンコスケヤク」君もこの春から晴れて高校生になったが、最近の子供たちの間ではこの手の間違いは割かし〃日常茶飯事〃だ。実際に聞いた傑作編をいくつか - 。

まずは、平安時代の武官「坂上田村麻呂」(さかのうえの・たむらまろ)。本人がいたって真顔で「いたのうえの」と発した時は思わず目が点になった。

「はしら・たろう」内閣にも笑った。もちろん正解は「かつら・たろう」内閣であるが、なるほど、「柱」と「桂」は良く似ている。

腹がよじ切れそうになったのは、偉大なる中国共産党の指導者「けざわ・ひがし」。そう、あの「毛沢東」主席のことだ。

こうした〃現実〃を裏付けるデータとして、読売新聞の記事広告が出ている。そのコピーにはこうあった。〈小学4年生の10%以上が、「たくさんの〃けらい〃」を〃毛来〃と書き間違えている〉と。

小生が大学生になって初めてフランス語を学び始めた頃に流行った言葉が「マオ・ツェ・トゥー」だった。直訳すると、「マオ(毛)は何でも知っている」というのだそうだ。

思想的な背景などはまったく知らなかったが、附属からエレベータ式に上がってきた「民青」所属の青年がしきりと口にしていたのを覚えている。

しかし、最近は同じ「マオ」でも、日本で有名なのはフィギュアスケートの「浅田真央」の方だろう。何せカワイイ!!

まあ、それはともかくとしても、言葉の乱れは決して歓迎すべきものではない。『国家の品格』の著者である藤原正彦さんは「祖国とは国語」と言い切っているくらいだ。

子供の間違いはまだ許せるとしても、テレビの司会者などが「何気に」とか「自分的には」などと言い放っているのを聞くにつけ「鳥肌が立つ」思いだ。

連中は「感動で鳥肌が立ちました」などと平気で使っているのだから、まったく…。


2008/04/24

恐るべしブランド力!! - 世界へ羽ばたけエタリの旨味 -

‐(株)CATV島原専務 清水眞守‐

島原城の堀端に何本の桜が植えられているのか知らないが、中に1本だけ「柿」の老木があることに、最近ようやく気付いた。場所は商高前の桜並木の道路側。もっと詳しく言うと、正門左手の頌徳碑とグラウンドが接する辺り。

最近では「メタボ克服」に願掛けして毎朝のように周辺を散歩しているが、何だか〃宝物〃を発見したような気分だ。

その「柿」に関して最近、面白い話を耳にした。東京出張の途中で立ち寄った「JLN日本地域紙協議会」(日比谷公園内)で伺ったものだ。

長野県南信州地方には「市田柿」(いちたがき)という〃干し柿〃があって、これが産地ブランド化によって〃バカ売れ〃している、というのだ。

生産地は下伊那郡高森町市田地域。そこでは、新年に〃縁起物〃として干し柿を食べる習慣があって、「種の数が多いほど、その1年で多くの富を蓄えることができる」という言い伝えがあるのだそうだ。

小生の覚え違いでなければ、確か島原地方では「種の数=苦労の数」ではなかったか!?もし、そうだとすれば、来年から〃前向き思考〃の市田方式に改めた方が断然良い。

話をしてくれた元時事通信社記者のNさんによれば、全国紙で全面広告を出すくらいだから、相当な生産量(売上高)を誇っているのだろう。

その伝でいくと、同じ「柿」でも、「実」ではなく「葉っぱ」ビジネスで大成功しているのが、徳島県上勝町。本欄でも以前に紹介したことがあるが、こちらの知名度もすでに〃全国区〃だ。

何せ、綺麗とはいえ何の変哲もない「柿の葉」1枚の値段が百円も二百円もするのだから、主役の〃婆さん連中〃ならずとも笑いが止まらないだろう。

げに恐ろしきは「地域ブランディング」の力で、小浜(橘湾)特産の「エタリの塩辛」にも大いに期待を寄せている。

23日付の本紙「こぼれ話」では、その話題を取り上げていたが、これぞ地域に埋もれていた、全国に誇れる〃宝物〃であった。

小生も小浜生まれ(昭和30年)であるが、幼い頃の記憶では、なぜあんな〃食べ物〃が存在するのか不思議であった。

ところが、時代は流れて、世に言う〃健康ブーム〃。食べ物にうるさい「(株)とっとっと」の松永忠徳社長に言わせると、「エタリの汁は優れた魚醤(ぎょしょう)だ」と。

確かに、伊勢屋旅館の草野肇社長がふるまってくれたパテ状のオリーブオイル和えは〃絶品〃であったし、熊本出張帰りに弊社に立ち寄られた有美子女将(専務)の口調も自信に満ち溢れていた。

「世界スローフーズ協会の認定も頂いているし、イタリアのアンチョビにも絶対負けないわよ!!」。この方、オリーブオイルがなくても口調は滑らかだ。


2008/04/23

韓国資本が日本を急襲 - 近い将来、同一経済圏に!? -

‐(株)CATV島原専務 清水眞守‐

韓国からの観光客が多い。今朝も島原市内のホテルを訪ねたら、団体客がロビーを席巻していた。

商売柄、海外に出かけることは多かったが、韓国出張の記憶は余りない。最近では4年程前にジェトロ(日本貿易振興機構)の使節団員として、テジョン市を訪問したくらいだ。

21日付けの長崎新聞社会面には、韓国資本の進出が相次ぐ「対馬の現況」がレポートされていた。がしかし、週刊新潮(24日号)の後追いのような内容で、余り面白くなかった。

だが、今やその傾向は対馬だけに限らない。韓国資本によるゴルフ場の買収は〃日常茶飯事〃で、先週末に同業者と回った琴海町の「オーシャン・パレス」も例外ではなかった。

初めて訪れたゴルフ場だったが、以前は「長崎空港カントリー」という名称だった、そうな。

身近なところでは「愛野カントリー」がすでに韓国系だ。一緒にプレーしたことはないが、彼らは焼肉&キムチパワーで、やたらと〃飛距離〃が出そうな気がする。

そんなことより、食堂等で韓国語が容赦なく飛び交っている中にいると、「ここは日本なのに…」などと、何かしら〃違和感〃を覚えてしまう。

これも一種の〃愛国心〃かも知れないが、以前ニューヨーク・マンハッタン地区の高層ビルなどをジャパンマネーが買い占めていた〃史実〃を振り返ると、割り切れない思いだ。

日本より緯度が北に位置する韓国の気候は厳しく、冬場にはクローズするゴルフ場も多い、と聞く。その点、九州内のゴルフ場は余程のことがない限り、閉まることはない。

恐らく、韓国のデベロッパー関係者もこの点を考慮に入れて、積極的に資本を投下しているのだろう。加えて、海外旅行客も運べるのだから。

日本も〃円高〃の今こそ、海外旅行のチャンスである。しかし、折からの物価高の影響で、それほど余裕のある人は…。少なくとも小生の周りにはいない。

ただ、ここに来て、4年前の渡韓時にジェトロ関係者が語っていた話の内容が、にわかに〃現実味〃を帯びてきたような感じがする。

それは、いずれそう遠くない将来に、世界からすると日本と韓国とは同じ〃経済圏〃に属するようになる、というもの。

極論すれば、両国間の交易における「関税」の類いが撤廃されるということだろうが、それはともかくとしても、こうも頻繁に接する機会が多くなると、改めてその言葉の意味を考えさせられてしまう。

たまたま韓国の大統領が来日していることもあって、日韓関連の記事に触れる機会も多いが、お互い隣国同士、仲良くすることに越したことはない。

ただ、一つだけお願いがある。浴場の後始末だけはきちんとしていただきたい。郷に入っては郷に従え、だと思う。


2008/04/22

モノじゃないヒトだ - 心を亡くさぬようにせねば!! -

先週は、出ずっぱりで慌しい毎日だった。一転今週は、腰を落ち着けて取り組まなければならない仕事が山積している。

こうしてコラムを書かせていただいているお蔭で、時々、見知らぬ方からお声をかけられる。恥ずかしくもあり、励みにもなる。だから、止められない。

率直に言って、ネタ不足の時など、〃多忙〃を理由にサボりたくなる。でも、サボってしまうと、何となく後味が悪い。

太平洋戦争終結時の「玉音放送」の草稿を書いたとされる陽明学者の安岡正篤さんによれば、「忙しい」と口にしてはならない、という。なぜなら、「忙」の字の意味は「心を亡くす」からだそうだ。

とは言っても、小生のような〃凡人〃はついつい「忙しかけん、そいは後回しにしてくれ」などと、しょっちゅう口走っている。これでは一生〃凡人〃のままで終わってしまう。

ただ、開き直りではないが、個人的には「それでもよい!!」と思っている。〃凡人〃は〃凡人〃らしく一生を送っても構わないではないか。それが〃庶民〃というものだ。

旅行会社勤務時代(徳島県)のお客さんに、「凡智」という名前のブティックが、同県庁前の通りにあった。多分、今もあるだろう。

飛び込みで契約を取ってきた所だが、そこの社長ご夫妻から大変に可愛がってもらった。息子さんは東大を出て住友商事に就職していたということだったので、もう随分と出世もされていることだろう。

そこの奥さんがいつもこう言って励ましてくれた。「あんな、人間はみんなボチボチや。今の境遇に腐らんと、しっかり頑張らんとあかんで」。

小生にとっては最上級の顧客であった。何より客筋が良かった。今で言う〃セレブ〃の集まりであった。次から次へと新しいお客さんを紹介してくれたり、何より旅行そのものが超ゴージャスであった。

小生もその期待に応えて頑張った。一冬で、百万円以上もするフェンディの毛皮を何着も売ってあげたこともある。

\当然、社長ご夫妻は大喜びしてくれたが、釘を刺すのも忘れなかった。「えーか、お客さんは毛皮というモノを買うてくれはったけど、同時にあんたを買うてくれはったんや。大事にしーや」。

正直言って、あの頃の勢いも情熱も、今は持ち合わせていない。ただ、どんなに時代や環境が変わろうとも、失くしてはならないものがある。

口癖だろうか、週初めの早朝会議で、ある社員が「一応…」という言葉を連発したので、堪らず注意した。それは取りも直さず、自らに向けた注意の喚起でもある。

何でも「一応…」で済ませてはいないだろうか?「多忙」にかまけて、心を亡くさぬようにせねば!!


2008/04/17

そろそろ出張に飽きる - 島鉄〃逆襲スイッチ〃はいつ -

昨日は終日、打合せに追われた。ジャスダックに上場している取引先のオフィスは、恵比寿駅のすぐ近くにあった。

淡いグレーのスーツ姿で現れた社長は、びっくりするほどカッコ良かった。後で年齢を訊くと、40代後半ということだったが、10歳は若く見えた。

午前中2時間、途中昼食を挟んで夕方6時まで、懸案の課題について意見を交わした。それが何であるかは現時点ではまだ〃企業秘密〃である。

一つだけ言える事は、それが弊社にとっても、はたまた島原半島にとってもグッドニュースであることだけは確かだ。特段、投資を伴う事業ではないが、かなりの〃先進性〃を含んでいるテーマなので慎重を期したい。

学生時代は、その恵比寿に住んでいた。卒業からかれこれ30年近い歳月が流れたが、都内でもこれほど変貌を遂げた街も珍しいのではないか。

昭和50年代の恵比寿は、交通の便こそ良かったものの、サッポロ(エビス)ビールの工場の臭いが蔓延する、渋谷のオマケみたいな所で、駅前にはパチンコ屋とサウナくらいしか大きな建物はなかった。

それが今ではどうか。駅ビルはオシャレなテナントショップで埋まり、テレビ局の分室まである。乗降客の数も昔と比べると〃雲泥の差〃である。

だが何より、この駅に降り立って一番先に感じるのは、姿は違えどもサッポロ(エビス)の城下町である、ということ。その証拠に、山手線のホームでは常にエビスビールのテーマ曲が流れている。

この方式は、ここだけの〃オリジナル特許〃ではないが、何となく耳になじむから不思議だ。ちなみに高田馬場駅では、手塚治虫さん(虫プロ)に由来して「鉄腕アトム」が流されている。

今ではどうか知らないが、以前に訪れた大分・竹田駅では、滝廉太郎生誕の地にちなんで「荒城の月」が迎えてくれた。

翻って、我が島原駅。確かに駅前広場には「子守唄人形」が設置されてはいるが、音楽はない。響いてくるのは、駅員の無機質な案内アナウンスだけだ。

これでは、観光の表玄関としては余りにも〃無愛想〃過ぎないだろうか。ホテルやレストランに限らず、客商売では「いらっしゃいませ」の挨拶が基本だ。善処方を望みたい。

さて、東京滞在も今日で4日目。財布もすっかり薄くなり、ホテル暮らしもそろそろ飽きてきた。正直、早く島原に帰りたいが、もう1日だけ長崎市内での会合が控えている。

窓の外を眺めると、さっきまで静かだった大崎の街も徐々に動き始めた。原稿も一段落したところで、コーヒーでも飲もうか、と電気ポットのコンセントを差し込んだが、何の反応もない。

アレコレいじくりまくっているうちに、ようやく赤ランプが点いた。島鉄に開業百年目の〃逆襲スイッチ〃が入るのは、はていつ頃だろうか…。


2008/04/16

東映本社を訪ねる - 「背に腹はかえられぬ」の語源 -

東京の朝は早い。6時前から斜向かいの総ガラス張りのビルの壁面には、眩いばかりの陽光が反射している。さて、今日はどんな1日となるか。

翻って、昨日は〃実り多き〃1日であった。来月17日、東京プリンスホテル(鳳凰の間)で開かれることになっている「関東島原半島会」の創立60周年記念大会のキャンペーンを兼ね、銀座の東映本社を訪ねた。

ご随行いただいたのは、八幡秀昭・同会実行委員長(島高18回卒)と、平野康博・同会事務局長(口加高20回卒)の両氏。約束の時刻より15分ほども早く8階ロビーで待機されていた。

電話を入れると、島原ロケで大変にお世話になったTプロデューサーが早速お出ましになり、秘書部長をご紹介いただいた。「先ほどまで岡田社長もいたのですが、急用で出かけてしまいました」。

映画界の大物というより、学生時代に観て感動した「赤頭巾ちゃん気をつけて」(芥川賞作家、庄司薫原作)の〃主役〃に、直に接することが出来るまたとないチャンスだったが、ウーン残念…。

昼食をいただきながらの会話は楽しく、かつ有意義であった。中でも、八幡さんの〃博覧強記〃ぶりには、全員舌をまいた。

「この前、築地の魚市で仕入れた話です。よく『背に腹はかえられない』と言いますが、これは『マグロ』から来ているんですね…」。

「最近でこそ『トロ』(腹の脂身の部分)が珍重がられていますが、江戸の昔は『赤身』(背の部分)の方が好まれたことから、そう言う表現が生まれた、ということなんだそうです」。

なるほど、これは一つ利口になった。「忘れないうちに書いておこう!!」とうことで早速、拙稿の〃ネタ〃に使わせていただきました。

夕刻から行ったホテル関係者との打合せには、山本十一(じゅういち)さん(島工1回卒)も合流。深江弁だか、島原弁だか、ベランメー調だか俄かには判じがたい口舌で皆を楽しませてくれた。

聞けば、吉永小百合さんの大々々ファンとのこと。生誕地の細かな番地まで覚えておられたことは敬服に値するが、誕生日を1月以上も間違っておられたのはご愛嬌だった。

打合せ後の反省会は、ほぼこの方の〃独演会〃であった。「俺はよー、この『十一』という名前で随分と人生で得したね…」。

「何だか、高利貸しか、テレビの深夜番組のような名前ですね」と小生がチャチャを入れると、八幡さんが「1月28日生まれだから、足すと『11』になるの」と続いた。

すると、ご本人は悪びれもせず「バカヤロー」と一言発した後ペンを持ち出して〃画数〃談義。そのうち、あちこちに電話をかけまくり東京の夜は賑やかに更けていくのであった。

ふと時計を見ると、「11時」を過ぎていた…。


2008/04/15

鐘ヶ江夫妻とバッタリ - 東京との〃落差〃こそ浮沈の鍵 -

どうしても片付けなければならない緊急な用件が幾つか重なって、14日から上京している。帰ったらすぐ長崎市内でケーブル業界の会合があるから、ほぼこの1週間は出ずっぱりである。

羽田に着いたのがちょうど昼過ぎだったので、同行した社員とともに空港内の蕎麦屋に入ったら、元島原市長の鐘ヶ江管一さんご夫妻と遭遇した。

お互いにビックリであるが、見知らぬ土地で旧知の人と出会うのは、何となく面はゆくもあり、嬉しいものだ。何よりもお元気そうで安心した。

東京と鐘ヶ江さんで思い出すのは、5年ほど前の出来事。その時も今回と同じようにバッタリと出くわしたのだが、「これからどこへ?」と訊かれたので、「総務省へ」と答えた。

すると、計らったかのように、「ちょうど良かった。それなら私も一緒に行こう!!」と言われので、お伴した。

「とこっで市長さん、総務省のどこへ行かれるんですか?」と尋ねたら、「片山虎之助先生の所ですたい。紹介しますけん!!」と、実に手短かな答え。

田舎者の常で、玄関先で免許証や名刺を出してグズグズしていたら、訝る門衛に向かって「ああ、この人は私の友人だからいいの!!」と一言。

中に入ってからも、会う人ごとに右手を軽く挙げて、「ごくろーさん」と声をかけながらスイスイ。「市長さん、お知り合いですか?」と訊いたら、「知るもんですか!!」と。

その堂々たる振る舞いは大臣室に入るまで終始変わることはなく、いとも簡単に数々の〃難関〃を突破。広い執務室におさまった大物大臣とも打ち解けて歓談することができた。

さて、今回の出張目的の1つに総務省関係者との打合せが入っているが、それほど簡単でないのは覚悟の上である。ただ、「物怖じせず、正面から堂々と」といった鐘ヶ江さんの教えは守り抜いていくつもりだ。

宿泊先はJR山手線大崎駅にほど近い「ニューオータニ・イン・東京」。原稿を書きながら窓の外を眺めると、駅前の再開発事業でクレーン車がせわしなく動いている。

「品川」と「渋谷」という交通の要所の間に挟まれたこの土地も、今や次第に〃マイナー〃ではなくなりつつある。前回泊まった頃よりは高層ビルの数も増えた感じだ。

昨夜はホテル近くの居酒屋で夕食。生ビール大ジョッキ1杯千円。焼き鳥1本220円。手元に資料はないが、値段設定は島原のほぼ2倍のはず。

折しも、その店では「長崎フェア」と銘打って「皿ウドン」を提供していたが、麺は限りなく塩辛く、味付けもイマイチ。

それでも980円である。支払いを終えた後で如実に感じたのは、東京は確実に〃バブル〃が復活している、ということ。併せて、その〃落差〃こそが古里活性化の鍵であると。


2008/04/14

不審火の犯人つかまる - 偽装に〃カボチャ〃使うな!! -

詳しくは〃本文〃をお読みいただきたいが、不審火の犯人が13日、ようやく捕まった。手元に資料がないので初犯がいつごろだったか忘れてしまったが、かれこれもう2カ月くらい経つだろうか。

直接〃被害〃をこうむられた方々ばかりでなく、周辺の住民も随分と不安な日々を余儀なくされた。幸いにして〃ボヤ止まり〃で済んだが、仮に本格的な火災となって犠牲者でも出ていようものなら…。

被疑者がどんな人物か、或いはまたどのような境遇なのか知る由もないが、その咎(とが)は厳しく問われて然るべきである。

確かに人的な被害はなかった。だが、火の手を見たショックで愛犬が亡くなったという〃悲劇〃もあるや、に聞く。飼い主にとっては〃家族〃も同然だったはずだから、恨んでも恨みきれまい。

「安心」「安全」は、何はさて置いても、行政運営上の「大きな柱」である。別の表現で言えば、「治安」の維持だ。

これに「法」が付くと、何かしら思想的な小難しい話になってしまうが、誰だって夜は枕を高くして寝たい、に決まっている。

その、人間として至極当然な〃欲求〃を、犯人は無慈悲に引き裂き、長きにわたって不安に陥れたのである。まったくもって怪しからん話だ。

「怪しからん!!」と言えば、中国産の野菜を国内産と偽って出荷していた島原市内の食品製造業者が摘発された。今だから明かせる話だが、実はこの件については、弊社もあらぬ嫌疑をかけられていた。

とは言っても、それは警察や行政関係者からということではなく、ネット上の「ホームページ名」のこと。事もあろうに、その会社の関連サイトに「カボチャ畑」というタイトルが冠してあったのだ。

知り合いの放送記者から電話をもらったのは、事件が明らかになる2日前のこと。

「まさか、清水さんの所ではないでしょうね」。藪から棒の質問に、事の真相がつかめないでいたが、事実が明らかになるにつれ、段々と腹が立ってきた。

もちろん「カボチャ」は普通名詞であるから、誰がどう使おうと勝手な話だが、今や社会問題と化している〃偽装表示〃とリンクしていようとは、思ってもみなかった。

こちらも幸いにして〃実害〃までには及んでいないが、愚直な「カボチャ」のイメージを逆手にとった〃猪口才な仕掛け〃に開いた口がふさがらない。

ところで、「統計」は取っていないが、このところ毎週のように日曜日は雨天である。これでは屋外の「観光施設」はたまらないだろう。

「泣く子と地頭には勝てぬ」とは昔からよく言われた喩えだが、お天道様には誰も抗えない。火付けも偽装屋も、陽光のもとでしっかり反省しなさい!!


2008/04/12

組織の浮沈はヒト次第 - カギ握る〃団塊世代〃の動向 -

 新年度の挨拶を兼ねて久方ぶりに県都・長崎市へ出向いた。まずは資本提携先で、島原半島関係のニュース素材を送っているテレビ長崎(KTN)へ。

 ここは普賢岳噴火災害以来、旧知の人も多く、何かしら〃他人〃のような気がしない。これまで幾度となく訪ねているが、同社敷地が幕末・土佐藩の志士、後藤象二郎の邸宅跡だったとは知らなかった。

 続いて訪ねた県庁の玄関先では、雲仙市選出の徳永達也県議と遭遇。さすがに2期目となると、その立ち居振る舞いも板に付いた様子。感心した。

 アポを取っているわけでもなかったので、庁内配置図を頼りに、気ままに回った。改めて気付いたことは女性が美しいことと、職員の真面目な勤務ぶり。

 約2時間をかけて一通り挨拶回りを済ませ、長崎新聞社へ。受付嬢に訪問の目的を告げると、電話で確認の後、磁気付きの入館カードをくれた。

 6階の報道フロアは、放送局や県庁とは異質の活気で溢れていた。案内されるままに、一番奥まった小部屋へ。何のことはない、「健康増進法」とやらで、隅っこに追いやられた「喫煙室」だった。

 窓越しに眺める浦上川の向こうに校舎が見えた。「あれが長崎西高か?」と尋ねると、「そうだ」という。なるほどそうか、校門前の坂道が、かの有名な「遅刻坂」か。

 1階の喫茶フロアは、いつになく閑散としていた。しばし歓談。世間話のついでに、本年末に迫った次期島原市長選の話題となった。

 「もう、かなり活発な動きがあるのでは?」。改まって取材をしているわけでもないので、正直に「知らない」と答えた。

 ここの窓からは、今秋オープン予定の再開発ビル(長崎バス)の目玉と言われている「大観覧車」が鎮座しているのが見えた。

 完成の暁には、その高みからは何が見えるのだろう。長崎名物の夜景、坂の街、港の景観、それとも脇に腰掛けた恋人の横顔だけだろうか…。

 余計なお世話だが、漏れ聞く所によれば、最近ではスピードやスリルを競う「ジェットコースター」より、昔懐かしい「観覧車」や「コーヒーカップ」などの〃ユッタリズム〃の魅力が見直されている、という。

 背景には、700万人とも言われる「団塊世代」の大量定年がある、とか。いずれにしても、「競争」に明け暮れた戦後ベビーブームの落とし子たちの行方が、今後の日本経済を大きく左右するのだ。

 「ゆとり」か、「管理」か。教育の世界にとどまらず、組織はありよう如何によって、浮きもすれば、沈みもする。

 夕方、会社に帰り着いて弊紙を広げたら、「島原市が機構改革」の記事。県も変わった。市も変わるか。ただ、動かすのも、動くのも「ヒト」である。はて、次の市長さんは!?


2008/04/10

くいだおれ人形が定年 - 山北さんの清掃奉仕作業 -

 めずらしく夜明けとともに起床し、早朝の散歩を楽しんでいたら、中央公園付近で島原市社会福祉協議会事務局長の山北好一さんがせわしなく箒(ほうき)を動かしていた。

 実は、前日の帰り際にも同じシーンに出くわしていた。ということは、山北さんは朝な夕なに清掃奉仕作業に汗を流していることになる。ご苦労様です。頭が下がります。

 島原は昔から「水の都」と呼ばれて久しいが、キタさん(愛称)のような奇特な人がいるから「名水百選」にも指定されるんだ、とつくづく思った。

 ちょっぴり幸せな気分になって、7時少し前に帰宅して新聞を広げたら、大阪ミナミの道頓堀名物の一つ「くいだおれ人形」が60歳の〃定年〃を迎えて、近く引退するという記事が出ていた。

 「京の着だおれ、浪速の食いだおれ」とは、両都市(住民)の性格の違いについて、昔からよく聞くセリフだ。

 言われてみれば確かにそうで、「京料理」は見かけほどに美味くない。その点、大阪は〃商人の町〃だけに、外見より中身(味)にうるさいのが特徴だ。

 とは言っても、大阪を代表する「名物料理」って、果ていったいナニ?うす味ウドン、寿司、ずぼらやのフグ、鶴橋のホルモン、タコ焼き…?

 あくまでも個人的な感想だが、どれを取っても「長崎=チャンポン」ほどの歯切れの良さが伝わってこない。

 ただ、ミナミ(難波)に限らずキタの梅田駅周辺でも飲食店の数はべらぼうに多い。少し路地に入れば、大小の店が軒を連ねていて「くいだおれ」の名に恥じない賑わいぶりだ。

 2年ほど前に、梅田の「丸ビル」というホテルに泊まった時は、朝のバイキングにタコ焼きが出ていて、エロー〃感動〃したことを覚えている。

 しかし、それとて、島原の南風楼で見かけた「ご飯のオカズにパンを並べていた」浴衣姿のオバサンを見かけた時ほどの〃驚き〃はない。

 うまく説明できないが、大阪近辺で食べる晩飯は、なぜか「鉄板焼き」系が多いような気がする。

 誤解を恐れずに言うなら、「くいだおれ」とは、これっ!!といったメニューの指定はなく、その時々の状況に応じて気に入った食べ物を好き勝手に味わう、といったところだろうか。

 まあ、大阪に限らず、都会では国境を超えた、色んな料理を味わうことができる。中にはびっくりするほど美味い店があるが、一方で値段ばかり高くてとんでもない所もある。

 ただ、「水」の味だけは誤魔化しようがない。「まぼろしの邪馬台国」のロケで島原入りしたスタッフがしみじみと語っていた。「水道水がこんなに美味い所は他にない…」と。

 「水と緑の城下町」。余り意固地にならずに、大事にせんば!!


2008/04/09

八幡さんが間違い正す - 〃気骨〃の川内康範さん逝く -

世に「て・に・を・は」(助詞)にうるさい御仁は沢山いるが、関東島原半島会創立60周年大会実行委員長の八幡秀昭さんは、恐らくその筆頭格だろう。

先般も島原高校校歌(宮崎康平さん作詞)の3番目の歌詞の間違い(転記ミス)を見つけ出し、和子夫人の了解を得た上で、学校側に訂正させたほどだ。

それは「燃ゆる希望の憧れ〃を〃」のくだりを「 - 〃も〃」と改めたもので、国語教諭だった柳川伸一前校長(4月から長崎女子高校長)も余りの観察眼の鋭さと、熱意のほどにタジタジだった、とか!?

その八幡さんが先日、5月17日(土)に東京プリンスホテルで開かれる同会創立60周年記念大会の打ち合わせのため帰郷した。

小生も「還暦を超えたら東京と古里の架け橋となる」と公言して憚らない同氏に、鋭く〃過ち〃をエグられた。

それは、3日付け掲載の小浜温泉鉄道の開設に関するコラムの一節。小生が関東大震災の年を「大正9年」と誤記していた点を指摘されたのだ。

「関東大震災はボクの〃おふくろ〃が生まれた年だから、大正12年ですよ。間違いありません」。返す言葉もなかった。

「おふくろさん」と言えば、作詞家の川内康範(かわうち・こうはん)さんが亡くなった。最近では、森進一との間での〃師弟論争〃でふたたびその名を世間に知らしめたが、まさしく〃気骨〃の人であった。

8日付け読売新聞の一面コラム「編集手帳」では、貧しかった時代の〃売血〃の話と併せて、自らの不遇を顧みることなく他の貧者に施していた母親のことを紹介している。

昭和を代表する大ヒットとなった「おふくろさん」が生まれた背景には、その母の崇高な姿が色濃く反映されていた、という。また同紙社会面には、作品リスト一覧を掲載。

まず作詞の分野では、代表作の「月光仮面は誰でしょう」をはじめ「誰よりも君を愛す」「骨まで愛して」「座頭市」など。変わったところでは、「にっぽん昔ばなし」も。

テレビに限らず映画の脚本も手がけており、小林旭主演で日活全盛期の記録的なヒット作となった「南国土佐をあとにして」も氏の作品だった。

「東京流れ者」も、だ。今では重厚な渋い演技に加えてとぼけたあじわいまで醸し出している渡哲也が、飢えた狼のような役柄を演じていたのが妙に印象に残っている。

森進一は自身の軽率な発言の〃打ち消し〃に躍起となって「虎屋の羊羹」を持参して青森の恩師のもとまで出向いた。が、門前払いをくらった。

まったく関連はないが、弊社を訪ねて下さった八幡さんの手土産も同じく虎屋の羊羹だった。小生は〃気骨〃とは関係なく、素直に美味しくいただきました、ハイ。


2008/04/08

少なかった花見の人出 - 島原の人は〃機会損失〃揃い -

ことしは花冷えと好天に恵まれて、3度(夜1、昼2)も花見をしてしまった。ところが、その美しかったサクラも夜来の雨ですっかりオジャンだ。

花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世に経る 眺めせしまに」(小野小町・百人一首)。それにしても古人は何という〃感性〃の豊かさだろう。

眺める花の形状は今昔そう変わらないまでも、ひたすら飲み、ひたすら喰らうばかりの我が〃メタボの習性〃を呪う。本当に情けない…。

ところで、花見の会場には3度とも「観音公園」を選んだが、いずれの日も例年になく人出が少なかったように感じた。

ある人は「それだけ世の中が不景気である」と切り捨てたが、本当にそのせいだけだろうか。どうにも違うような気がする。

花見にはさして金がかかるわけではない。手作りの弁当か、スーパーの惣菜を持ち込めば、かなりの〃安上がり〃で済む。

空き地ばかりの周囲を見渡しても、伝統の「ガンバ料理」で盛り上がっているグループは皆無。焼肉の姿もほとんど見かけなかった。

確認したわけではないが、ひょっとして公園管理者の市が「火を使うことはまかりならん!!」と規制をかけたか?

元々、郷土料理の一つであるガンバの「ガネ炊き」は、殿様が禁止したフグ料理を「これはカニを煮たものでございます。ほれ、この通り泡を吹いております」と、即座に応じた〃庶民の知恵〃の産物である。

だとすれば、藩制の昔も今も、その〃構図〃に変わりはなさそうである。というよりは、「焼肉ぐらいは許してやってよ!!」というのが〃人情〃だ。

返す刀で、地酒関係者やガンバ料理ネットワークの会の皆様にも一言申し上げたい。なぜ、このような〃絶好の機会〃をお見逃しになるのか?

「菜種フグ」という言葉に代表されるように、このシーズンのガンバの味は〃最高〃のはず。しかも、満開の桜の下で味わえるというのに…。

「外貨」を稼ごうとする〃志〃やよし、である。ただ、地元の人間が盛り上がらないで、どうして他所から人々(観光客)が期待してやって来ようか。

ことガンバに限らず、島原はこのシーズン〃美味いモノ〃だらけである。栄養学的に見ても〃抑ガン効果〃があると言われるメカブだって沢山とれる。

他に誇れる産品がいっぱいあるのに、それを普及させようとしないのは、よほどの〃欲張り〃であるか、流通知らずの〃大バカ者〃だ。

人は常に美しいモノ、楽しいモノに魅かれて集う。殿方が夜な夜な新町&高島周辺に出かけるのも、その習性の表れだ。もっとも、その方々も別の意味で〃大ばか者〃に違いないが…。


2008/04/06

吉永さんからご褒美 - 11時間かけついに走破!! -

「貝瀬橋」を渡って旧道をひた走った。古びた洋館風の建物(現在は無人状態)には、高校2年次に苦手科目を教わった先生が下宿していた。

3学期末、その散らかり放題の部屋に呼ばれたことがある。「おい、単位ばやるけんか、ボクの釣り船ば引っ張り上げてくれんやろうか?」。

もちろん「二つ返事」で「OK」したことは言うまでもない。その場にいた同級生について述べることは些か差し障りがあるので、詳説は避ける。

「大屋」を抜けると、次は南有馬の「菖無田」。どういうわけか、この地には昔から石材屋さんが多い。国道下のアコウの大木は、いつ見ても見事だ。

「吉川」に入る手前の海岸線にも、カメラマンの姿が点在していた。まったくこの人たちは!?

再び必死で漕いだ。「大江」を抜け、短い北有馬の海岸線を越えると、いよいよ西有家町。海沿いの「竜石駅」は絶好のロケ・スポットとして今後も映画関係者に重宝がられることだろう。否、そう願う。

ほうほうの体で南島原市役所に着いた。2時30分。ふと傍らの田んぼを見ると、子供の頃には当たり前に見られた可憐なレンゲの花が咲いていたので、何だか嬉しくなった。

有家の町中(旧道)は快調に飛ばした。「蒲河」「池田」「堂崎」を経て、布津の旧道をひた走り。

それにしても風が強い。橘湾では西風だったのに、島原が近まるにつれて東風から北風に変わり、金比羅さん下では危うく吹き飛ばされそうになった。

3時30分、深江町到着。もう残りわずかだと思うと、俄然勇気もみなぎってきた。「瀬野」を過ぎ、「みずなし本陣」を横目に、「嵩上げ」エリア突入。

本当にあと少しだ。最終の休憩レポートは小涌園からと、そう心に決めて渾身の力を込めて〃立ち漕ぎ〃に挑むが、左ヒザが力なく笑ってしまう。

それでも何とか辿りついた小涌園。メタボ仲間(?)の足立社長に一報を伝えたかったが、公休日で会えずじまい。

4時30分。最後のレポートを終えた後、ゆったりと温泉につからせていただいた。感謝!!感謝!!

さらにひと漕ぎ。会社では、女子社員が「くす玉」を用意してねぎらってくれた。走行距離百キロ余。11時間を越える長旅に、ついに終止符を打った。

【追伸】それより何より、この日、小生宛にビッグなプレゼントが届いていたのだ。送り主は東映の映画関係者の一人。

ワクワクしながら大きな宅配便の包みを開くと、「まぼろしの邪馬台国」スタッフ専用のウインド・ブレーカーと吉永さんの〃生写真〃付き色紙。

そこにはこう書かれていた―「まもちゃん江 『禁煙』しましょうね! 吉永小百合」と。

その後の一服の何と美味かったことか???

‐おわり‐


2008/04/05

鉄道マニアはネクラ!? - 加津佐駅で乗車拒否くらう -

春風を受けての自転車の滑走ほど気持ちの良いものは、そうざらにはないだろう。「田の平」の下り坂はその条件を備えていたが、いかんせん〃向かい風〃が強くて、閉口した。

国東半島を右手に見ながら左折するとすぐ、崖崩れ防災用のロック・シェッドが待ち受けていた。中に入ると、一瞬の静寂の後、波濤(はとう)の砕け散る音が耳に響いてきた。

昭和40年代、大雨の度ごとに崩れ落ちていた〃難所〃の1つだ。それが今ではこうして安心して走れるようになった。

横風を受けながらもひたすらペダルを漕ぐ。思いのままに進まないが、休めば、ストップしてしまう。だから、漕ぐ。

「小津波見」を過ぎたらいよいよ加津佐町だ。「岸信介岩」が右前方視界に現れた。自転車を降りてシャッターを切ったが、孫の安倍晋三さんは今頃どうしておいでだろうか?

「津波見」「権田」「串」「野田」を通って加津佐の町中に入った。次なる休憩予定地の「島鉄・加津佐駅」が見え始めてきた。駅周辺には、多くのテレビカメラが待ち構えていた。

小生も〃野次馬〃の一人として駅構内へ。11時20分過ぎ、旧式の「キハ型車両」から黒山の人だかりが一斉に降りてきた。カメラらビデオを手にした家族連れの姿が目立つ。

殺到する取材陣。乗客らは時おり顔を上気させながら、「懐かしい」「ずっと走り続けてほしい」などと口々に答えていた。

それにしても不思議に思うのは、鉄道マニアにはどうしてこうも〃ネクラ型〃の人間が多いのだろうか。みんな、どこか共通する〃臭い〃を発散しているような感じだ。

もういい加減に疲れ果てていたので、改札口で「自転車は乗せられないのか?」と尋ねたら、「折りたたみ式なら良いが…」との答え。要件の満たしようがないのですぐに諦め、再びサドルに跨った。

高校駅伝の折り返し地点となっている、同駅から「野間水」までの坂も相当きつい。ケツも痛いので、押しながら登った。

左手に母校・口加の校舎。青雲の志を抱いて(?)門を叩いたのは、早37年も前のことだ。国道なら「久木山」から「東方」へ抜けねばならない所を、「真米」の急坂を伝ってショートカット。

親和銀行口之津支店脇の交差点を左折すると、旧役場や駅、警察署などの公的機関が集中している「口之津港」はすぐそこ。

駐車場は天草へ渡る大型トラックで満杯状態だった。腹が減っていたので、「チャンポン」の看板に引かれて、迷わず近くの食堂へ飛び込んだ。

店の名前は「すだち」。何か徳島と関係があるのだろうか、と疑問に思ったが、疲れて面倒くさかったので黙って「カレーチャンポン」を注文した。すこぶる美味であった。

‐つづく‐


2008/04/04

危うく命拾いの顚末 - お尻の辺りに〃異変〃が -

4度目の休憩を小浜温泉で取ることとし、当社の取締役をお願いしている宅島壽雄氏(宅島建設社長)のもとを訪ねた。生憎、留守だった。

代わりに、専務の宅島寿晴氏と面会。小生が「かくかくしかじかで…」などと趣旨を伝えると、笑いながら「大丈夫ね?」と慮ってくださった。

ふだん、コーヒーはブラック党だが、この日は疲れを癒すため、ミルクと砂糖をたっぷりと入れて、ご馳走になった。

一息入れて、さあ出発!!ところが、しばらくしてケツの具合がいささか妙なことに気付いた。痔でないことだけは確かだが、まっすぐ座ると痛いのだ。仕方がないので、左右に振り分けてペダルを漕いだ。

金浜の「眼鏡橋」が見えた。近くに小中時代の同級生が何人もいて、海や川でその連中と良く遊んでいたことを思い出した。

ある時(小3か小4の頃)、皆で泳ぎに行くことになって、全員、波止場から波止場へと渡ることが義務付けられた。誰かが言った―「マーチン(その当時の綽名)泳ぎきっと?」。

当時、小生はまったくの〃金槌〃だった。しかし、「ここで尻込みしたら、男がすたる」とばかりに頭から飛び込んだ。

だが、現実はそう甘くはなかった。いくらもがいても少しも前には進まず、そのうち沈み始めた。一瞬、「このまま死ぬのか。短い一生だったなぁ…」などと観念したくらいだ。

気がついたら、他所のオジさんに助け上げられていた。とても恥ずかしかったが、仲間には「今日は調子ん悪かった…」と言い残してその場を去った。

後から悔し涙がとどめなく溢れ出てきたが、この事をきっかけに〃友情の絆〃がさらに深まったことは想定外の産物だった。

52歳となった今、改めてその波止場付近を眺めてみると、やけに狭いし、随分と浅瀬でもある。「そうか、ここで命を賭けた自分との戦いを演じたのか…」。当時を恥ずかしがりながら一人ごちた。

通いなれた「飛子」のバス停には今風の若者2人が佇んでいた。ここからバスに乗り、約30分をかけて通った口加高。梅雨期には土砂崩れで通行が遮断されることも度々だった。

「板引」「椎木川」を過ぎて「京泊」のバス停に着いた。周辺を見渡すと、それぞれ一家を構えた先輩、後輩。銀行の支店長も医師も歯科医もいる。

旧南串町役場前が坂のてっぺんで、次が「水の浦」。さらにその先の「揚」(あげ)という集落は、なぜだかここだけ言葉が少し違っていた。

左右の尻びた(?)もそろそろ限界に近付いていた。朦朧とする意識の中で、この辺りでもう「音(ね)を〃あげ〃ようか」などとダジャレを飛ばしていたら、目の前には「田の平」方面へ向けて、スキーのジャンプ台のような下り坂が開けていた。

‐つづく‐


2008/04/03

小浜温泉鉄道跡を往く - 素晴らしい!!富津の海岸線 -

「愛野展望台」からの坂道は一気に駆け下った。体感では恐らく60キロ以上は出ていたはずだ。

途中、日頃の憂さ晴らしに、腹の底から大声で叫んだ。具体的な氏名は避けるが「○○のバカヤロー」などと…。

橘神社の桜も観たかったが、そこから先の〃坂道〃を避けるため、急きょ商店街方向に右折。途中、予想だにしなかった雨がパラついてきた。

だが、その雨はたいしたことはなく、すぐに雲間から太陽が顔をのぞかせた。人騒がせな天候だ。

そこから先は勝手知ったる〃汽車道〃だ。「少年自然の家」の入口付近に、ポケットパークに合わせて石碑が建てられていた。

碑文には「旧小浜温泉鉄道・上千々岩駅」と刻んであった。説明板にはその由来 - 。

「関東大震災」の年の大正9年5月に愛野~千々石間が開通。昭和2年3月に小浜まで延伸。同13年8月に閉鎖、などと記してあった。

さらに進んでゆくと、右手には千々石灘の雄大な海原。愛野カントリー方向に視界を戻すと、風力発電のプロペラがゆったりと回っていた。

馬蹄形のトンネルに入った。対向車のライトが眩しいが、出口はもうすぐそこだ。

記憶が巡ってきた。これまた他愛もないクイズだが、トンネル(隧道)の「入口」と「出口」はどう決めるか?答えは「県庁に近い方が入口」だと言っていたが、真偽のほどはまだ確かめていない。

2番目のトンネルを抜けると、次は「木津の浜駅」。ここの石碑にはどういうわけか、経済産業省の「近代化産業遺産」のプレートが嵌められていた。

次なる「富津駅」の石碑は見過したが、眼下は〃リアス式〃を思わせる入り組んだ海岸線で、相変わらずの〃景観美〃を誇っていた。素晴らしい!!

と、1年ほど前に、写真家の藤原新也さんが取材のため現地を訪れ、「コヨーテ」に掲載していた作品のことを思い出した。(※藤原さんは、とっとっと「七角堂」の揮毫者)

石合の浜を抜けると、いよいよ小浜温泉。かつては多くの湯治客や修学旅行生でにぎわった温泉街は閑散としていた。

象徴的だったのは、かつて同温泉のランドマーク的存在だった「小浜観光ホテル」の休業。構えが大きいだけにひとしおだ。

少し引き返して、「旧県営バスターミナル」の待合室を覗くと、ほぼ全員と言って良いほど老人客で埋まっていた。

少なくとも我々が高校生だった昭和40年代までは、この建物は活気で満ち溢れていた。

「長崎」「雲仙」「口之津」…と次々と繰り広げられる行先別のアナウンスに聞き惚れ、窓越しに眺める併設のレストラン「ニュー小浜」はまるで異次元の都会の雰囲気だった。

‐つづく‐


2008/04/02

失われし時を求めて - 時計と逆回りのコースで -

年度末の31日、「島原半島1周自転車の旅」に出かけた。おかげで今日(1日)は、身体中がクタクタの状態だ。

きっかけは他愛もない、ゴルフコンペ後の酒席での法螺話だった。同会は年に4回実施することから「四季の会」と名付けられている。

会長は島原商工会議所副会頭で島原食販社長の水元敦実さん。業種の異なる珍妙なメンバー約20人が参加している。

先月初めに行われた例会で誰かがふと口走った。「そろそろ時候も良くなってきたから、次は趣向を変えて『ツール・ド・島原半島』ばしましょかい?」。

「どがしこ、かかっじゃろかい?」「外周約100キロじゃけん、時速20キロ平均で走れば、5時間で着くとん」「そんなら朝早よ出れば、昼過ぎには島原に戻って来らるっばない」 - 。

自転車ならぬ、そんな〃口車〃に乗った小生が、浅はかと言えば浅はかであった。

当日は午前6時前に起床し、まだ明けやらぬ中を一路「マイ・バイスクル」が置いてある白土町の事務所へ。朝のFM番組の担当者である「よっしぃ」はすでに出社していた。

出発時刻は6時25分。ルンルン気分で音無川を渡って国道に出る頃には、東の空には早くもお日様がサンサン。

そうか、真冬の頃より1時間も日昇が早まったか!!そんな感慨に浸りながら、出足はすこぶる絶好調だった。

コースは最初から時計の針とは逆の「北回り」と決めていた。なぜなら、自身にとっての「失われし時」を少しでも取り戻したかったからだ。

最初の休憩地は国見町神代。出発から1時間強が経った頃合いを見計らって「よっしぃ」から電話がかかってきた。

「モシモシ、社長、今どけおっと?」。福岡生まれの、たどたどしい〃島原弁〃が携帯越しに響いてきた。しばしのやりとり。

再びペダルを漕ぎ始める。普段、車に乗っていても全く気にならない少しの勾配でも、やけにきつい。息が切れる。

度々のギア・チェンジ。登り切ったら、次は下り坂だ。ペダルを漕がなくてもスイスイと流れるように走り出す。と、また坂道。

2度目の休憩は吾妻町阿母崎。奥村雲仙市長の奥様の里だ。亡くなった有明町の写真家、西川清人さんが「阿母崎の坂を境に天候が変わる」と言っていたことを思い出した。

愛野の町中を抜け、前半の難所である「愛津」から「愛野展望所」までのダラダラ坂。途中までは立ち漕ぎで頑張ってみたが、先はまだ長いので、途中でやむなく降りた。

ふと傍らの道路のコンクリート縁石を見ると、「ド根性雑草」がそこかしこに顔をのぞかせていた。自然は逞しい!!さらに歩を進めていくうちに、土筆の大群に出くわした。

‐つづく‐


2008/04/01

線路は続くよ外港まで - 〃遍路道〃にならぬように -

線路は続くよ どこまでも 野をこえ 山こえ 谷こえて 遥かな町まで 僕達の 楽しい旅の夢 つないでる…

島鉄南線がいよいよ明後日で廃止されることになって、思わず口ずさんでしまったこの歌が、日本の童謡でなく、アメリカ生まれの民謡だったとはつゆ知らなかった。

「ウィキペディア」によれば、原曲は1863年から始まった大陸横断鉄道建設に携わったアイルランド系の工夫たちによって歌われ始めた〃労働歌〃の一つだという。

日本に広まったのは比較的新しく、1967年(昭和42)にNHKの「みんなの歌」で紹介されてから、とのこと。ちなみに作詞は同番組の初代ディレクターだった佐々木敏氏。

さらに「シリーズ日本のうた」の説明によると、この歌が日本に渡ってきたのは昭和30年で、当時のタイトルは「線路の仕事」。それが同40年に教科書に採用され、平成7年まで掲載されたのだそうだ。

洋の東西を問わず、鉄道敷設は国家(地域)の一大事業である。ましてや大陸横断ともなれば、その労苦は想像の範囲を遥かに絶するものであったろう。

前述の「シリーズ - 」では、ジャガイモの疫病による大飢饉で祖国を追われたアイルランド系移民の逞しい働きぶりを、原曲の歌詞(和訳)とともにとして紹介している。

朝から晩まで 線路で暮らす のんびりやるさ鉄道稼業 笛の音も高い朝早く キャップは叫ぶよ ダイナ、ホルンを吹け、と〉 - 以下2番まで続く。

こうやって歌詞を比べてみると、随分と中身に開きがあるが、大陸横断鉄道も島鉄も、その建設時点での「志」は〃相似形〃だったはずだ。

恐らくここ数日間は、南目沿線も鉄道マニアや地元乗客入り混じって〃大いなる賑わい〃を見せることだろう。

だがそれは、ノスタルジーが演出する〃幻の一幕モノ〃に過ぎない。もう4月1日からは、昨日まで走っていたシマテツの姿は視界から消えるのである。

4万有余の署名を携え再三にわたって存続(休止)を求めた地元住民有志の願いは、採算性を最優先とする「企業論理」の鉄橋を、ついに渡り切ることは出来なかった。

廃止の影響を緩和する施策としての「代替バス」は、北米大陸になぞらえるなら、さしずめ「グレイハウンド」的な役割を果たすことになるのだろうか。

いずれにしても現実問題、島鉄の運行はもう「島原外港駅」で途切れる。結果を受けて、会社も地元自治体も「今後をどうするか」が厳しく問われていくことは必至だ。

今となってはその跡地が、島鉄生みの親である植木元太郎翁や先人の遺徳を偲ぶだけの、草茫々の「遍路道」にならないことを願うばかりだ。