2007/09/29

クールビズは間違い!! - 有明海は隆起、橘湾は沈降 -

 のっけから恐縮だが、昨報(十八銀行湊支店記事)は「クォーツ時計」と書くべきところを「クォーク時計」と記してしまった。

 恐らく、この前のゴルフ大会で貰った「クオカード」のことが脳裏に焼き付いていたからだと思う。余談だが、「クォーク」の語源は「素粒子」の一種を意味するということだ。

 さて、昨報の本紙一面では、大潮による湊新地一帯の「冠水被害」を取り上げていたが、これはもう取りも直さず「地球温暖化」が招いたものだ、という気がする。

 弊社がまだ高島町にあった頃にも、大潮で路面が水浸しになったことが幾度もあったが、状況はさらに「悪化」の道をたどっているのではないか。

 米国の民主党元副大統領アール・ゴア氏が著書の中でも指摘している「不都合な真実」がこうも度々繰り返されると、「震撼」としてしまうのも無理からぬことだ。

 昨年暮れ、湊新地に漁人市場『とっとっと』を開いた松永忠徳さん(みそ半社長)によると、有明海の干満の差は6時間でナント7メートルもあるとか。

 それを裏付けるかのような話を、元島原高校地学教師の寺井邦久先生(県教育センター勤務)から、つい先日うかがった。

 寺井さんによると、有明海の海底は総じて「隆起」する傾向にあり、それが「遠浅」という現象をさらに顕著に引き起こしているのだ、と。一方、橘湾の方は「沈降」型で、年1センチのペースで幅も広がっているそうだ。

 それらが今後、地域全体にどういった影響を及ぼすのかについては、まだまだ研究の余地があるだろうが、「島原半島は世界に冠たる地層モデル!!」とする同先生の分かりやすい説明は、まさに「傾聴に値する」内容だ。

 来月4日には、東京でユネスコ認定国内第1号をめぐって「ジオパーク連絡協議会発起人会」が開かれる。県や市を始めとした関係者一同のさらなる奮闘を期待したい。

 「地球温暖化」の話に戻る。この問題はすなわち「石油問題」と言い換えても差し支えないだろう。そこで何ともユニークな「短評」を見つけた。

 朝日新聞社から出ている「アエラ」の10月1号に掲載されている、『バカの壁』の著者、養老猛司さんの寄稿コラムだ。

 養老さんは「省エネのためのクールビズは石油資源の寿命を延ばしてしまう」としたうえで、「石油は一日も早く使い切った方がいい」と異説を展開。

 結果、「環境問題だけでなく、地球上のあらゆる社会問題(失業対策、医療費など)がほぼ解決する」と主張。さらに「モノづくりを国策としている日本だけ石油を使うべき!!」と、勇ましく結んでいる。

 さすがに養老先生、「実に的を射た皮肉!!」と拍手喝采した次第だが、拙者の『バカの壁』はいまだに堅固なままだ。

バカの壁 (新潮新書)
バカの壁 (新潮新書)
posted with amazlet on 07.10.01
養老 孟司
新潮社 (2003/04/10)
売り上げランキング: 1478


2007/09/28

十八銀行湊支店の名物 - 地元の熱意で「時計」が残った -

 十八銀行湊支店(柴田郁夫支店長)には昔から地域の人々に時刻を知らせる「屋外壁時計」がある。同支店長によると、こうした「サービス」をしているのは、本店と同支店だけだという。

 同行はことし創業百三十周年だが、八十五周年の記念誌によれば、昭和30年代当時にはすでに「時計」は存在していた。その証拠となる「写真」(昭和37年撮影)が今も大切に保管されている。

 当時、同支店で働いていた14人のスタッフの記念写真とともに掲載されているのは、湊支店にまつわる「三つの特色」。そのまま列挙する - 。

 1.場所が良い=「別府…阿蘇…雲仙」観光ルート島原のロータリーに「デン」と店舗を構えている。

 2.二刀流である=観光客の金をすくいあげるのを一刀であとの一刀では農家の葉煙草代金を。

 3.正確な時計=一秒の誤差もなく電光時計は街を行く人に「時」を知らせている…あたかも銀行は大事な金を一銭の間違もなく保管している如く…。

 行内向けの編集なのかも知れないが、「本音」の部分が見え隠れして、大変に面白い。

 実は、今回の「機器入れ替え」に関しては、ちょっとしたエピソードがあった、という。同支店長に話を聞いた。

 「本音を言いますと、時々狂ったりして、苦情を頂戴したりなんかしていたので、この機会に取り外そうかなぁーなんて思っていたんです」…。

 「ところが、昔から湊広馬場で育ったという江島栄太郎さん(古川商店社長)をはじめ何人もの方に『どうしても残してほしい!!』と言われたので方針を改めました」…。

 「やっぱり地元の皆さんにとっては、当支店の時計は『ランドマーク』的な存在だったのですね。今にして思うと、取り外さなくて正解でした」。

 設置の作業は、古くから取引のある電工社(原フミ子社長)が受け持った。もちろん原社長自身が「存続運動」に加担した一人だ。

 IT全盛のこの時代なので、当然「電波時計」と思っていたら、シチズン社製の普通のクォーク時計だった。その理由について同支店長は - 。

 「地域の皆様に愛されて50有余年。ときどき我々が手を加えることで、随時対応してゆきたい、と考えています。デジタルも結構ですが、やはり地域とのつながりはアナログ方式でなくては!!」。

 「ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ/われらの恋が流れる/わたしは思い出す/悩みのあとには楽しみがくると/日も暮れよ/鐘も鳴れ/月日は流れ/わたしは残る」(ギョーム・アポリネール)

 同支店脇を少し進むと、かの山頭火も渡ったという「新地橋」。白水川の流れとともに、また新たな時が刻まれる。


2007/09/27

永田力さんが講演会 - 10月6日有家コレジオホール -

 画家の永田力さんと出会ったのは、もう20年も前のことだ。旧制島原中学の同級生の一人と拙宅を訪ねていただいたのだが、誰だったかは忘れた。

 何かの本で名前は知ってはいたが、謦咳に接するのは初めてだったので幾分か緊張した。でも、すぐにホグれた。

 想像以上に気さくな人柄だったからだ。力さん(以下、こう記す)は出前のチャンポンを美味そうに平らげ、島鉄の駅のことを「停車場」と呼んでいた。

 その年の新年号で「特集記事」を書いた。口之津かどこかでの講演を取りまとめたものだが、1ページ全てを使い切り、「構成」に知恵をしぼった。

 力さんは自身のシベリア抑留体験をもとに、「右脳と左脳の働き方の違い」「赤の意味するもの」などについて熱弁をふるった。

 カラーセラピー等の考え方は、今でこそ当たり前のように語られているが、「人間の五感」を中心に据えた多方面からの分析は、斬新かつ論理的であった。

 また、ある時は「松平黎明会」なるものを立ち上げ、慶應の三田校舎が島原藩の江戸屋敷だったことを伝え、「鎖国=悪」とする通説を、痛切に皮肉った。

 今にして思うに、昨今の「江戸ブーム」のきっかけを作ったのは、力さん及びその周辺だったのかも知れない。「島原半島サトウキビ北限説」も面白かった。

 一度だけ東京のご自宅を訪問したことがある。洋風の佇まいと、「漆喰の白壁」が絶妙になじんでいたのが印象的だった。

 通された書斎は、さながら戦後文化史コーナー。多くの書物とともに本物の絵がゴロゴロしていた。中庭には、著名な女流作家(名前は失念…)から贈られたという桜の木が一本。

 「漆喰壁がアレルギー系の病気を治す」 - 。そうした広告が全国紙に出始めたのは、それからしばらく経ってからだ。

 これは余り知られていないことだと思うが、力さんの息子さんは「マガジンハウス」における伝説本「ブルータス」の初代編集長だった。

 拙者がなぜ改まってこのような事を書くのか?近視眼的に見れば、来月6日(土)午後6時から、有家町のコレジオホールで「永田力講演会」(南島原市など後援、入場無料)が開かれるからだ。

 だが、本音を言うと、それだけのためでない。これまで我が郷土は、幾度にもわたる力さんの「貴重な提言」を悉く無視してきた、ように思う。

 その結果が、偽らざる現況だ。時代の動きを見抜く独特の感性。それは一朝一夕、或いは付け焼き刃的に培われたものでない。

 島中時代に授業そっちのけで読み耽り、パリ滞在中(朝日特派員)も片時も離さなかったという岩波の美術本(新書)。

 皆さん、本物の話をじっくり聴いて、「美しく強かな島原半島」を創っていきましょう。


2007/09/26

「田毎の月」とは一体? - 月見と共に地球環境対策も -

 昨夜が「仲秋の名月」だったことを今朝になって知った。アレコレ言いながら、何と風情のない日本人だろう…。

 「季節のない街に生まれ/風のない丘に育ち/夢のない家を出て/愛のない人に会う♪」 - 。

『春夏秋冬』。噴火災害時に島原市の「観光特命大使」を務めていた泉谷しげるさんの代表作だ。殺伐とした時代をえぐる、何と示唆に富んだ内容か。

 昨日は多忙で夜遅くまで車で走り回っていた。フロントガラス越しに眺める月は、老眼&乱視のせいか決して「まん丸」には見えなかったが、暦で確認したら、確かに「満月」。

 常に「太陽」と比較される「月」。前者が文字通り日の当たる「陽」とされるのに対し、「陰」と称される控えめな存在。

 数字的にはONとも遜色のない記録を残しながらも、所属球団の人気のなさゆえに「俺は野に咲く月見草…」と野村克也捕手(南海)は嘆いて見せた。

 一方で、月は「母性」の象徴でもある。やわらかな光は、傷ついた心を優しく包みこみ、人々の詩情を微妙にくすぐる。

 ちょうど1年前に主婦の友社から出版された『人生を癒す月の力』( - すべての魂は幸運へと続いている - )という本がある。

 いわゆる「ヒーリング本」の一種だが、元はドイツ月研究会から出たもので、各国でベストセラーになった、という触れ込みが帯で踊っている。

 何となくその世界に引き込まれそうなので「積読」状態が続いているのだが、そろそろこの機会にページを開いてみようか。

 そう言えば、「田毎の月」というのがあって、それが一体どういう景色なのかについて、朝日新聞社のIさんと酒席で論じ合ったことを思い出した。

 二人とも典型的な文型人間。光学的な分析など土台無理な話だった。いいかげん酔いも回ってきたので「歩きながら棚田の風景を詠んだもの」ということで落ち着いたが、未だに真相は〃闇夜〃のままだ。

 さて、福田内閣がいよいよ発足する。原稿を書きながら朝のNHKニュースを見ていたら、「葉っぱビジネス」で有名になった徳島県上勝町の横石知二さん(いろどり代表)がインタビューに答えていた。

 その上勝町には「月ケ谷温泉」という宿泊施設がある。徹底した「月」へのこだわりと、環境対策は驚くばかりだ。

 そこでは、温泉を暖める熱源を重油に頼らず、「木質チップ」を原料とした「森林バイオマス方式」を採用している。

 こうした先進的な試みが環境省の目にとまり、同施設は「環境の経済の好循環のまちモデル事業」に選ばれている。データでは年間565トンの二酸化炭素が削減される、という。

 月を愛でるのも大いに結構だが、地球そのものの「危機的状況」も併せて自覚すべきだろう。


2007/09/25

英国で「左利き」が急増 - 拙者のつむじはどっち巻き!? -

 月末の銀行は大混雑だ。ふだんは空いてる行内の駐車場も常時〃満杯〃状態で、路上駐車も後を絶たないでいる。

 そんな折、しばしの無聊(ぶりょう)を慰めてくれるがラジオ。AMパーソナリティの笑いネタも結構だが、FMのオシャレ感覚も捨てられない。

 番組名は忘れたが、FM熊本でイギリスの話題を取り上げていた。内容は「このところ、英国内で『左利き』の人間が急増している』というもの。

 調べによると、以前3%だった「左利き」の比率が、最近では11%にまで伸びてきている、という。

 日本でも、以前は幼児期に強制的に「右利き」に矯正させられていたが、どうやら事情は彼の国でも似たようなものらしい。

 同番組では、「左利き」の歴史上の著名な人物として、ジュリアス・シーザー、ウインストン・チャーチル、キュリー夫人らを紹介していた。

 これは言い古された話なのでご存知の方も多いと思うが、酒飲みのことをなぜ「左党」と言うか?答えは、ふつう左手で持つ大工道具の「鑿」(のみ)が「飲み」に通じることから、そう呼ぶようになったことのようだ。

 では「右翼」と「左翼」の違いは?広辞苑によると、フランス革命後の議会で、議長席から見て「保守派」が右方の議席を占めていたことに由来する、という。当然ながら「左翼」はその逆だ。

 ところが、これに「思想」という単語が連なると、一筋縄ではいかなくなる。もう拙者ごときが論評する範囲を遥かに超えてしまうので、この話題はひとまずここらで筆を措く。

 インドでは左手は「不浄の手」ということで、カレーライスは必ず「右手」で食べるそうだ。

 つまり、トイレット・ペーパーが今ほど普及していなかった時代、インドの人々は左手で拭いていたわけだ。今はどうしているのかは知らない。

 それでは、少し思慮分別が足りない人間のことを「左巻き」と言うのはどうしてだろう?再び広辞苑の助けを借りると - 。

 「左巻きとは、時計針と反対のまわり方で巻くこと」という説明の後に、「つむじが左巻きの人は正常でないという『俗説』から」とあった。

 以前にも書いたが、拙者の頭上には、「計3つのつむじ」がある。左右どっちに巻いているのか判らないが、冷静に自己分析してみたら、「左巻き」の可能性が極めて高いのでは…。

 もう今更どうしようもないことなので、諦めるしかないのだが、「左巻き」には「左巻き」ならではの生き方があるはずだ。

 それが何であるかは分からない。ただ、このカオス(混沌)に満ちた現代を生き抜いていくには「少しぐらい狂った方が…」と、勝手に思い込んでいる。


2007/09/21

舞岳は思い出の撮影地 - 一中3年生と20数キロを歩く -

 「熱帯夜は、絶対イヤ!!」などと、凍てつくようなオヤジギャグを思い浮かべながら、とうとう朝を迎えてしまった。おかげで今日は寝不足だ。

 九月も下旬だというのに、まだ続く猛暑。向こう一週間の予報を見ても、連日「晴れマーク」のオンパレードだ。

 だが、秋は確実に深まっている。16日、一中3年生とともに、舞岳山荘まで歩いた。往復20数キロ。

 早朝5時起きで、杉谷公民館で「本隊」と合流。みんな元気がいい。一方で、他人様より20キロも重たいに「肉塊」を抱えている身にとっては、まさに苦難の道程でもあった。

 途中、三会原の畑地から眺めた日の出は、実に美しかった。朝日を浴びた平成新山の山頂には、お椀型の絹雲がたなびき、思わず踵を返してシャッターを切った。

 2時間弱をかけ目的地に辿り着いたが、元気があり余る子供たち(有志)は、八八八八段の階段を一気に駆け登って山頂を征服。羨むばかりの体力だ。

 何を隠そう、この山荘一帯は、普賢岳噴火災害時の撮影ポイントの一つだった。夜中、三脚にカメラをセットし、開放状態で待つこと数時間。

 現像したフィルムには、溶岩ドームの赤い炎とともに、幾つもの星の軌跡が幾何学的に描き出されており、今でもお気に入りの作品の一つだ。

 時間を遡ると、今の中学3年生は14歳 - 15歳だから、まさにその撮影時期は、彼(女)らの新たな命が誕生しようとしていた矢先と符合する。

 むろん、そんな事実を子供たちが知るはずもなく、緑地のグラウンドに弾む無邪気な歓声を聞きながら、独り「時の流れ」を想った。

 往路はひたすら前を睨みつけての「苦行」であったが、復路は下り坂で周囲の景色を眺める「余裕」も若干出てきた。

 その視線の先に飛び込んできたのが、黄色く色付き始めた、沿道の銀杏の幼木。中に一本だけ「梅干」のような実を成らせている木があった。

 はて、何だろう。焼鳥屋で出てくるギンナンとは、大きさも形状も全く違うぞ。ひょっとして「珍種」の大発見…。

 数日後、ワクワク、ドキドキしながら生物に詳しい社員に現物を見せたら、「その中にギンナンが入っていますよ」と、実にあっさりと否定された。

 出下から西町を通り抜けて宇土に入る道すがら、重たく頭を垂れた稲穂が秋風に揺れていた。さらに進むと宇土出口の水源。

 勢い良く流れる湧水にタオルを浸し、首筋の汗を拭った。ゴールは公民館駐車場。生徒の代表が「この達成感を今後の勉学に!!」と決意表明。そうだ、みんなガンバレよ。

 心地よい疲れは、体重3キロ減の「朗報」を運んできたのだが、すぐに「食欲の秋」の反撃が始まった。


2007/09/20

いつの間に曼珠沙華 - 強くてやさしい「信の国」を!! -

 「♪赤い花なら まんじゅしゃげ オランダ屋敷に雨が降る 濡れて泣いてる じゃがたらお春 未練な出船の あゝ鐘が鳴る  ララ鐘が鳴る♪」(昭和14年、長崎物語)

 数日前には影も形も見えなかった曼珠沙華(彼岸花)が突如、ツツジの植栽から現れたので驚いた。誰に教わったのでもないだろうに、ちゃんと彼岸に合わせて咲き始めるなんて、何て律儀な花だろう。

 中学の頃、長崎市生まれの社会科の先生が黒板に「曼珠沙華」と書いた。「何と読むか?」との問い掛けに、手を挙げてあてずっぽで読んだら、「正解!!」だったことを、今更ながらに憶えている。

 今日(20日)はCATV業界の集まりで諫早に来ているが、有喜の交差点から諫早の市街地を目指して車を走らせている途中で、田んぼの畦道に咲き誇る曼珠沙華の群落を見た。

 頭(こうべ)を垂れる黄金の稲穂との見事なコントラスト。この季節、多くのアマチュア写真家が「秋」をテーマとした被写体に選ぶのも、何となく分かるような気がする。

 聞きかじりだが、曼珠沙華の匂いはモグラが嫌うということで昔から畦道に植えられていた、とか。また、人間の膝の痛みを和らげる薬効があるとも。

 異常なまでの成長の早さ、加えて曼荼羅世界にも通じる複雑怪奇な花の形状…。いずれにしても不思議なパワーを感じさせてくれる植物である。

 さて20日は安倍総理の53歳の誕生日だ。その政権が発足したのは、確か翌日の21日だったから、ちょうど丸1年だ。

 去年の今頃は「戦後生まれ初」の総理の誕生に、多くの国民が期待を膨らませていた。拙者も人後に落ちないミーハーであるから、加津佐町津波見の海岸に鎮座している「岸岩」をわざわざ見物に出かけた。

 同総理が目指したものは「美しい国」であった。が、残念ながら、その志は途中で雲散霧消したかのように見える。

 評論家諸氏が言うように、「美しい」とは余りにも抽象的過ぎて、政権そのものというより総理自身が、進むべき指標を見誤ったのかも知れない。

 しかし、反論するようだが、ニッポンはそもそも「美しい国」なのである。惜しむらくは、国、地方ともに、もう少し「タフネスぶり」を発揮しなければいけない、と思う。

 フィリプ・マーローの言葉をもじれば、「国家(地域)は強くなければ生き延びていけない、やさしく(美しく)なければその存続価値はない」といったところだろうか。

 現在、自民党総裁選レースが福田、麻生の両氏で戦われているが、巷間の予想では、前者が圧倒的に優勢のようだ。

 その福田さんが標榜しているのは「信の国」。外れるかもしれないが、今度もまた期待しよう。


2007/09/19

没後も衰えぬ〃人気〃 - 俳人でもあった夏目雅子 -

 「間断なく音なき空に星花火」 - 。女優、夏目雅子の遺作となった俳句だ。夏目は「海童」の俳号を持つ俳人でもあった。16日夜、TBSドラマ『ひまわり - 夏目雅子、27年の生涯と母の愛 - 』を観た。

 生誕50周年を記念しての特別企画だという。死去から20数年が過ぎた今でも衰えぬ人気と存在感。やっぱり夏目は稀代の〃大女優〃だった。

 夏目雅子(本名・西山雅子、旧姓・小達)は昭和32年、東京・六本木の輸入雑貨商の家に生まれる。その名を一躍有名ならしめたのは、カネボウのキャンペーンガールとして登場した衝撃的な「クッキーフェイス」。昭和52年のことだ。

 中学、高校、短大と東京・広尾にある「東京女学館」に学んでいる。とどのつまり、学生時代は我々恵比寿一族(下宿仲間)の〃すぐ間近〃まで通っていたわけだ。

 今でこそオシャレな街に変貌しているが、当時の恵比寿はサッポロビール工場の臭いが蔓延するなど、下町のような風情を漂わせていた。

 ただ、主要駅の渋谷や目黒から山手線で一駅。また六本木、広尾、白金台も徒歩圏内という〃交通至便〃の地にあり、発展の可能性は秘めていた。

 少し歩くと、麻布界隈には大使館が建ち並び、聖心、女学館というお嬢様学校のほか、慶應の幼稚舎(小学部)などもあった。

 早朝、広尾の小店(食料品)まで駆け下ると、軒先には必ず「パンの耳」が置いてあった。我々は交替で日参し、店主の「ご好意」に甘えていた。

 そうした〃耐乏〃生活の現場に差し込んでくる「クッキーフェイス」の輝きは余りにも眩し過ぎた。当時から「格差社会」は歴然と存在していたのだ。

 年譜を繰ってみると、夏目初出演の映画は『俺の空』(東宝)とあった。実は、この映画の主人公は一般公募で、我々はナケナシの資金をはたいて身長百八十四センチのドラ息子H(熊本出身)を送り込んだ。結果は、あえなく落選…。

 しかし、Hはその後、六本木のモデルクラブにスカウトされ、外車を乗り回すなど、羨むばかりのド派手な青春時代を謳歌。もう熊本に戻っているらしいが、音信不通のままだ。

 ドラマでは仲間由紀恵が夏目役を務めていたが、独特のカン高い声が鼻についたし、品格の面でも随分と見劣りを感じた。

 夏目が主演した映画はどれも大好きだ。中でも印象に残っているのは、作詞家、阿久悠原作の『瀬戸内少年野球団』。スクリーンから滲み出る妖気にも似た美しさが忘れられない。

 その阿久も今夏鬼籍に入った。生前、彼が美空ひばり用に作詞したのが『舟唄』だったことを知ったのはつい最近のことだ。

 「裕次郎、ひばり享年52歳。ご自愛専一に」。拙者52歳の誕生日の朝、親友から届いたメールに涙し、夏目が好きだった「一期一会」の言葉に想いを被せた。


2007/09/18

天皇陛下がお代わり? - 土地の「名物」は食わんば!! -

 「大内宿」は南会津地方(下郷町)にある。とは言っても、福島県自体、東北新幹線で通過したぐらいしか経験がないので、まったくもって〃土地勘〃が湧かない。

 長岡藩と会津藩の関係についても、これまた未知の分野で、筆の進めようがないのだが、長岡新聞が敢えてコラムに取り上げているくらいだから相応の縁があるのだろう。

 そうした歴史的な経緯に関しては、野村義文さん(元島原市収入役)にお任せするとして、「ネギ蕎麦」とは一体何ぞや?

 長岡新聞によれば、薬味としてネギをふんだんにかける通常の食べ方ではなく、箸の代わりに〃太ネギ一本〃で蕎麦を食するのだという。そして、事のついでにネギをガブリと齧るのだと…。

 コラムの筆者は、下野(しもつけ)街道沿いに突如姿を現す萱葺き屋根の建物群の魅力と併せて、「その野趣が何ともいえず、醍醐味である」と激賞している。

 ところで、「蕎麦」の話だが、拙者が訪れた十日町市の「小嶋屋本店」の「へぎ蕎麦」も実に美味であった。「へぎ」とは養蚕で使う木箱のことで、同店では絹糸を並べるような趣向で、盛り付けをしていた。

 色は「布のり」が入っているため、やや緑がかっており〃涼感〃抜群。今の天皇陛下が皇太子時代に食されて、余りに美味しかったので〃お代わり〃を所望された、とのエピソードも伝えられている。

 地下足袋の民俗学者、宮本常一が大正12年、生まれ故郷の周防大島を出る際に、父親から教わった「旅の心得」(十カ条)がある。その第三条にはこう記されている - 。

 「金があったら、その土地の名物や料理はたべておくのがよい。その土地の暮らしの高さがわかるものだ」。

 続く第四条では「時間のゆとりがあったらできるだけ歩いて見ることだ。いろいろのことを教えられる」と綴られている。

 何とはなしに耳にこびりついている教えなので、拙者も出張の旅先では出来るだけ「早朝散歩」を心がけている。天気が良ければ、朝の散策ほど気持ちの良いものはない。

 厚化粧を落とした素顔の街がそこにある。長岡は河合継之助、小林虎三郎、山本五十六などを輩出した歴史的な土地柄だが、商店街には再来年のNHK大河ドラマ『天地人』に登場する直江兼続の立看板が早々と取り付けられていた。

 その商店街を通り抜け、信濃川にかかる大橋を往復した。片道千二百四十歩。歩幅約80センチとして、当然1キロはあるものと想像していたが、九百メートルを若干切れていた。

 旅先で心は浮かれても、脚の長さは変わらないことだけは良く分かった。


2007/09/13

賑やかな「島原の秋」 - 「食欲の秋」も忘れずに!! -

 「スプリング・ハズ・カム」とは良く言うが、「オータム・ハズ・カム」とは余り聞かない。訝ってみたところで「答え」などあろうはずもないのだが…。

 すべての生物が息吹き始める「春」と違って、何となく「秋」は地味なイメージだ。静かに忍び寄る気配がして「大人の季節」という感じがする。

 さて「芸術の秋」「スポーツの秋」「読書の秋」である。個人的にもこの季節独特のゆったりとした時の移ろいが大好きだ。

 今年の「島原の秋」は例年にもまして賑やかなようだ。皮切りは、人間国宝の野村萬(まん)さんを招いての『萬(よろず)狂言inしまばら』(10月3日夜・島原文化会館)。

 福岡あたりで観れば通常一万円近くかかる舞台が、長崎県の協力もあって前売券で二千円ポッキリ。高校生以下は無料。

 これは観ないと絶対に損。チケットは教育委員会やチケットぴあなどのほか、カボチャテレビでも扱っている。ご連絡を!!

 スポーツイベントとしては、マサカリ投法で鳴らした村田兆治さんが10月8日に、市営球場で『少年野球教室』を開く。

 こちらは住友建機が主催して、宅島建設、コカコーラなどの協賛で実現するもの。先月は北海道夕張市で開かれ、その模様はテレビ朝日の「報道ステーション」で紹介された。

 このほか、ありえコレジヨホールでの「移動美術館」(9月29日 - 10月8日)や、ユネスコ認定の「モンゴル馬頭琴楽団演奏会」(詳細未詳)などビッグな催しが次々と控えている。

 シンガリは何と言っても亜細亜で初の「火山都市国際会議」(11月19日 - 23日)だろう。開幕までいよいよ後2カ月。弊社も地元のケーブル局として協力を惜しまないつもりだ。

 書き漏らした他の企画についても、順次紹介していくつもりだが、大切な「秋」を忘れていた。そう「食欲の秋」だ。

 先日、島原観光ホテル小涌園の足立社長と久々に飲む機会があって、お互いの「腹回り」を探り合いながら意見を交わした。

 何とはなしに拙者が先日視察した新潟の話をしたら、さすがに全国チェーン勤務の同社長。色々と物知りであった。

 「十日町に本店を置く小嶋屋という蕎麦屋があって、これが滅法美味かった」と自慢したら、「知ってるよ。へぎ蕎麦でしょう」。

 返す刀で「じゃあ、会津の『大内宿』って知ってる?」ときたので、拙者も現地で求めた「長岡新聞」を持ち出して応じた。

 本当のところは全然知らなかったのだが、たまたま読んだその日コラムに偶然にも「大内宿」が取り上げられていたのだ。

 そこでは蕎麦を「箸」でなく「ネギ」で食するというスタイルが大受けで、連日多くの観光客が押し寄せているそうだ。ポイントは何だろう?詳しくは日を改めて…。


2007/09/11

浅葱色ってどんな色? - 恋」はロマンを育むが… -

 「しのぶれど 色に出にけり わが恋は ものや思うと 人の問うまで」。百人一首にも編まれている平兼盛の和歌だ。

 黙っていても、ついつい表情に現れてしまう恋心…。「恋」を忘れて久しいが、今も昔も「恋」はロマンを育む。

 昨報の見出しは「色々」を二度も使用したが、「恋」に「色」が付いて「色恋」となると、さらに「沙汰」が続いて週刊誌風になってしまう。さぁーて、本日は「色」にまつわる話を少し…。

 拙者の聞き及ぶ限り、「色恋道」においては、東西商工会長のカネコト・シタカ(区切り方を間違ったかな?)を凌ぐ御仁はそうはいまい。

 その「武勇伝」は、酒と、涙と、笑いなしには聞けない。拙者も初対面の折には「こんなに愉快な人間がこの世に存在して良いのか?」と素朴な疑問を抱いたほどだ。

 詳しい内容は、ちと紙上では憚りがあるので、直接ご本人に伺ってほしいのだが、「バカ受け」すること請け合いである。とにかく面白い。ほとんど「名人」の域である。

 純然たる「色」の話に戻る。先日、高校の体育祭があって、拙者も家族と見物に出かけたのだが、その際にガキの頃に唄っていた歌を思い出した。

 「♪ルリーの大空仰ぎつつ、健児の意気やいざーたかぁーし。チカラ、チカラ、わかきチカラ、チカラ、チカラ、わかぁーきチカラー♪」。

 恥ずかしい話だが、「ルリー」が「瑠璃色」を意味することを知ったのは随分と後のこと。さらに青色系であることは『瑠璃色の砂時計』という番組を見てからだ。

 似たような話は、さだ・まさし(グレープ)の代表作『精霊流し』でも。二番目の歌詞にある「♪あなたの愛した母さんの、今夜の着物はアサギ色♪」。

 てっきり「淡い黄色」とばかり思っていたら、辞書で引くと「浅葱色」の表記も。こちらは緑がかった薄い藍色(水色)のこと。一体どっちが正解?

 「水色」と言えば、あべ静江のデビュー曲『水色の手紙』を思い出すが、水も涙も「透明」に決まっているではないか!!嗚呼、いかん、いかん。段々ロマンチストでなくなってきた。

 再び軌道修正。最近では「カラー・セラピー」というのがあって、心理療法等で一般でも応用されているようだ。

 簡単なところでは、赤い色は「闘志」をかき立てるということで、本番前の楽屋や控え室に多い、とか。逆に、青色などの寒色系は「鎮静効果」があるとも言われている。

 そんなことは調べれば済む話だから、さて置くとして、北関東では「イ」と「エ」が逆になるので、「色鉛筆」は「エロ・インピツ」と称される。

 確かそうだったですよね、カネコトさん!?


2007/09/10

『あかね空』に泣く - 人生色々、「しせい」も色々… -

 週末、かねてから読みさしていた山本一力の直木賞受賞作『あかね空』(文春文庫)を一気に読み上げた。感動に次ぐ感動…。仕舞にはオイオイ泣いた。

 ふだん時代物を読むことは滅多にないが、自伝的エッセイ『家族力』(同)が余りに面白く記憶に残っていたので、引き込まれるようにページを繰った。

 一言でいうと、この人の半生は「破天荒」。両親の離婚等の家庭的な事情もあって高知県から東京に引っ越し、都立の工業高校に通う。

 卒業後は旅行会社に勤務するが、年齢、学歴等を詐称して二度の結婚と離婚。破綻の原因はいずれも女性問題。ようやく三度目にして落ち着く。

 仕事も落ち着かず、旅行会社の次は広告代理店、雑誌編集、販促企画…などと次々と職を変えた挙句、事業に失敗。三度目の妻の実家に莫大な債務を負わせる破目に。

 普通ならこの辺りで「ジ・エンド」となるところだろうが、「よーし、ベストセラー作家になって一挙に借金を返してやる!!」と一念発起。

 事実は小説より奇なり―。まさしく、その思いが「正夢」となった。「あなたなら絶対にできる」と、ヤクザな旦那の背中を押した夫人が偉い!!

 『あかね空』の主人公は京都から江戸・深川に単身出てきた豆腐屋。長屋の隣に住む娘とすぐに恋仲となり祝言を挙げ、順調な船出を遂げるが、人生そう思い通りにはならない。

 最初は睦まじかった夫婦仲も、長男が産まれたあたりから「微妙な狂い」を見せ始める。そこに絡む阿漕(あこぎ)な商売敵や下町の人情。

 解説本ではないのでここらで止めるが、心理描写の巧さもさることながら当時の江戸庶民の生活の様子がビジュアルに浮かび上がってくるから不思議だ。

 作家の平岩弓枝さんはこの作品を「『市井』物の傑作」と激賞しているが、今日10日から島原市議会では「『市政』一般質問」が始まる。

 「しせい」をパソコンで叩くと、色んな文字が出てくる。単純に列挙しても「姿勢」「市制」「市勢」「施政」「至誠」「四声」「詩聖」…といとまがない。

 「市井」とは人家が集まる所。すなわち「巷」(ちまた)から転じて「庶民」の意味があるそうだ。老婆心ながら、「市政」運営にはくれぐれもその視座をお忘れなく。

 併せて、質す側の議員先生の「姿勢」にも注目したい。やたら斜(はす)に構えたり、タメグチだらけの質問は、聞いていて気持ちが良いものではない。

 大切なのはその言動に「至誠」があるか否か。『あかね空』に登場する正義の親分衆はいずれも「姿勢」が良くて「至誠」を貫く人物として描かれている。

 「さあ、今日からはもっと胸を張って『姿勢』を良くして - 」と、メタボ男も思うのであります。

あかね空 (文春文庫)
あかね空 (文春文庫)
posted with amazlet on 07.09.25
山本 一力
文藝春秋 (2004/09)
売り上げランキング: 69851


2007/09/08

吉永小百合さん来島!? - いつも励まされるその歌声 -

 秋風が吹き始めた。夏の間じゅう道行く人々を楽しませてくれた日々草もいよいよ寿命のようだ。

 少し遅れて植えたポーチュラカはまだまだ元気で、色とりどりの花を咲かせている。出入りする客は多士済々。蝶々、ミツバチ、コオロギ、テントウムシ、果てはヤモリまで。

 先日、事のついでに『最新版・歌の大辞典』(別冊JUNON)という分厚い本を買った。収録総数二千七十八曲。

 「可愛いつぼみが花になり、花は散っても実はのこる、その実がこぼれて花となる。はじめひとつの花の実が、いつかは大きな花園に…♪」。

 ポーチュラカに水をやりながら、いつしか口ずさんでいたのは、昔の流行歌だった。この歌は西沢爽作詞、吉田正作曲で、三田明&吉永小百合のコンビでヒットした。

 早速、ページをめくってみたが、掲載がない。何とかタイトルを想い出そうと続け様に唄った。

 「くらしの中に根をはろう、あなたもわたしもみんなみな、明日は咲こう花咲こう…♪」。そうだ、この最後の部分が曲名だったはず。ネットで調べたら大当たり!!

 昭和30年代から40年代にかけての「高度経済成長期」を象徴するかのような明るいテンポ。その吉永さんが先日、島原入りしたという話を〃小耳〃に挟んだ。

 実は昨日(7日)聞いた話だが、映画化が持ち上がっている中町の宮崎和子さん(故宮崎康平夫人)のもとに、挨拶に訪れたというのだ。

 「いつ?」。大魚を逃した漁師のような気分で確認したら、どうも出張で新潟に飛んでいた間の出来事らしいことが分かった。

 吉永さんのデュエット曲で想い出されるのは、橋幸夫と唄って昭和37年の第4回レコード大賞を受賞した『いつでも夢を』(佐伯孝夫作詞、吉田正作曲)という作品だ。

 「♪星よりひそかに、雨よりやさしく、あの娘はいつも歌っている。声がきこえる、淋しい胸に、涙に濡れたこの胸に、言っているいる、お持ちなさいよ、いつでも夢を…♪」。

 うーん、これもいい。冬になれば、和田弘&マヒナスターズと唄った『寒い朝』が待っている。吉永さんの歌声は不思議と人々を勇気づけてくれる。

 むかーし、フジテレビが、東京女子医大病院などがある新宿・河田町にあった頃、そのすぐ近くに北海道出身のギターの名手が住んでいた。

 カラオケなんかまだカケラも存在しない時代だ。地方出の我々モテない面々は、夜な夜なそいつの下宿に集まっては、寂しさを合唱で紛らわしていた。

 用意した歌本は千曲入り。「全部唄うぞ!!」「メンドクサイからア行から!!」 - 。夢はそれぞれに持っていたのだが、誰かに花が咲いた話はとんと聞こえてこない。


2007/09/06

緊急速報にも対応可!! - 地震で実証されたラジオの力 -

 新潟へ行って来た。初めて訪れた長岡市は、文字通り同県の中央部「中越地区」にあり、平成16年10月の「中越地震」で手痛い打撃を受けた典型的な地方都市である。

 平成の大合併で田中角栄元総理生誕の地、西山町や山古志村など周辺市町村を吸収。人口規模はそれまでの20万人から30万人に膨らんだ。

 「FMながおか」は駅から徒歩3分ほどのオフィスビルの1階にあった。応対してくれたのは、代表取締役専務の脇屋雄介さん。

 元々はNTT勤務の技術屋さんだが、その枠に収まりきれずに「自動車電話」の会社を興した起業家の顔も持つ。

 今回の「中越沖地震」で最も被害が大きかったのは隣接する柏崎市内だったが、市境に近い自宅は全壊した、という。

 約3時間にわたってこれまでの苦労話や地震災害時の対応を説明していただいたのだが、その印象は一言でいって「自信満々」である。

 背景には、長岡市や地元消防機関との友好な関係に裏打ちされた「安心感」もあるのだろうが、何よりも2度にわたる地震災害で見せたコミュニティFM局(CFM)の「底力」に他ならない。

 「災害で力を発揮したのは我々が一番でしょうね。ケーブルテレビも活躍しました。こう言っては何ですが、県域のFM局やテレビ局の報道は市民から評価を得ていません。アンケートの調査結果に、はっきりと出ています」。

 まさに「我が意を得たり!!」との思いでいたら、やにわに立ち上がって今年10月1日から始まる「緊急地震速報」のシステムを見せてくれた。

 気象庁からの情報提供を受け、一定規模の地震が発生すれば自動的に「一斉割り込み放送」ができるスグレモノで、全て自前で組み立てた、という。

 市役所内に置かれている「緊急放送卓」も見せてもらったが、拍子抜けするほど簡易な設備だった。

 「これで大丈夫なんですか?」と素朴な疑問をぶつけたら、「物事は突き詰めると『単純』に行きつきます」と、これまた自信満々。

 度重なる地震災害で「ラジオの威力」を確認した長岡市では、全戸に専用端末器(ラジオ)を配備するべく準備を進めている、という。

 「FMとおかまち」は長岡の中心部から車で約1時間。妹の友人で、リビア帰りの1級建築士(女性)が案内してくれた。

 事務所(兼スタジオ)は「道の駅」の建物内にあった。説明してくれたのは、電気会社を経営している放送局長の村尾隆さん。

 資本金の5千万円は「地震に負けてはおられない!!」と地元JCの有志約80人が中心になってかき集めたもの。

 「ラジオは凄いよ。単純にして、最も頼りになるメディアだよ!!」。こちらも自信満々だった。


2007/09/04

『キャパ展』に感動!! - 恋人の名前は岡本太郎から -

 県美術館で開催されていた『ロバート・キャパ展』の最終日(2日)に駆け込んだ。期間中3万人以上を集めた〃人気〃のほどを証明するように、この日も会場は人で溢れていた。

 時間をかけて丹念に鑑賞した。「その生涯と作品」と副題がついた同企画は確かに見応えがあった。「崩れ落ちる兵士」という衝撃的な作品と、「ちょっとピンぼけ」の本のタイトルしか知らない己の不明を深く恥じた。

 キャパは一九一三年、ハンガリーの首都ブダペストに生まれた。本名はエンドレ・フリードマン。両親は洋裁店を営んでいた。

 思い入れの深さも手伝ってか、いささかオーバーに反応しすぎたのかも知れないが、これまで観たどの写真展よりも〃感動〃を覚えたのは事実だ。

 もし、西川清人さんが生きていれば、間違いなく一緒に初日に駆けつけ、「あーでもない、こうでもない…」と熱い議論を交わしたことだろう。

 キャパと西川さんを比べること自体が無意味なことは重々分かっている。誤解を恐れず端的に言えば、それは「報道」と「芸術」の違いである。

 キャパが活躍した世界は主に「戦場」であり、一方で西川さんの舞台は古里の「大自然」であった。

 作風で言うと、キャパのレンズが常に「人間」そのものに向けられていたのに対し、西川さんは敢えて噴火災害下の被災者の姿を追わなかった。

 今回の作品展で特に印象に残ったのは、デビュー作となった「演説するレオン・トロッキー」や「Dディー・ノルマンディー上陸作戦」など。

 エピソードとしては〃報道写真家〃としてのキャパを世に送り出す役目を果たしたパリ時代の恋人、ゲルダ・ポホリデスが岡本太郎(画家)との交遊から「ゲルダ・タロー」と名前を改めていたこと。

 戦前の中国を舞台に撮った「四億の民」も素晴らしかった。中でも「国民党政府軍の女性訓練兵」という作品の構図がユーモラスで面白かった。

 キャパに〃来日経験〃があることも、今回初めて知った。拙者が生まれる1年半前の昭和29年春のことだ。

 日本には3週間ほど滞在し、東京や京都、奈良などの古都に加えて、ビキニ環礁で被爆した「第五福竜丸」の母港である静岡県焼津市も訪れている。

 百万言の解説(文)より、一枚の写真がより正確に物語るその時々の世相や人々の息遣い…。

 昨今は、素人でも手軽に使えるデジタル一眼レフカメラの全盛時代だが、キャパの作品と出合ってからは、何だか無性にフィルムカメラをいじりたくなってきた。

 キャパ愛用のカメラは「ライカ」だった。製造元の「ライツ社」(独)も数年前からとうとうデジタル路線。これも抗えない時代の流れだろうか…。


2007/09/03

『米百俵』の原点を!! - 史実に照らして分かれる対応 -

 連載二百回目にちなんだわけではないが、今日3日は『米百俵』の地、新潟県長岡市に向かっている。今は移動の途中、全日空の機内だ。

 狭苦しいエコノミー席ではあるが、こうしてパソコンを叩いていると何だか流行作家か、国際ビジネスマンになったような気がする(ないない!!)。

 それにしても窮屈だ。隣の家族連れがやけにうるさい。また子供が叫んだ。今度はサンダル履きで蹴ってきやがった。一体、最近の若い親どもは何を教育しているんだ、まったく…。

 ここはじっと我慢だ。そうだ、新聞でも読んで気分転換だ。「スポーツ紙ありますか?」と尋ねたら、「生憎これしか…」と言ってキャビン・アテンダントのお姉さんが持ってきたのは毎日新聞。

 フムフム、そうか遠藤農相はとうとう辞任するか。まあ当然といえば、当然だろう。

 でも、会見検査院から問題が指摘されたのは山形県米沢市だったよな。米沢と言えば、名君として名高い上杉鷹山公の元領地ではないか。

 自ら率先して倹約のお手本を示すことによって、逼迫した藩財政を見事に立て直したその政治手腕は、多くのビジネス誌が取り上げるところとなり、テレビドラマともなった。

 「為せば為る、為さねば為らぬ何事も、為さぬは人の為さぬなりけり」の格言は、「意志あるところに道あり」との英語の諺にも通じる名言だ。

 ジョン・F・ケネディ米国第35代大統領は「来日の際、日本で一番尊敬する政治家は?」との記者の質問に迷わず、「上杉鷹山!!」と答えた、という。

 遠藤大臣にとっては、そうした〃伝統〃は、もはや昔のこと。悪事でさえ「為せば為る」と思っていたのだろうか?

 同日付毎日のコラム『余録』は、偶然にも長岡出身のカトリック吉祥寺教会の神父、後藤文雄さん(77)を取り上げている。

 後藤さんは長岡の浄土真宗のお寺に生まれたが、東京・上野の地下道で戦災孤児と出会ったことから、神学校に進んだ。

 そこに〃改宗〃とかの意識はなく、周囲からの質問に対しても「信者になる前の人間をつくる手伝いをしてきた」と、実に自然体だ。

 その後藤さんは、多くのカンボジアからの難民を里親として受け入れる一方で、現地に学校をつくる運動を進めており、今年の第19回毎日国際交流賞を受けている。

 そして来春には14校目の学校が誕生する、という。まさに『米百俵』の精神が国境を越えて花開いている、といった感じだ。

 同日付の同じ面の記事を読みながら、鮮やかに対応の分かれる生き方を見た。長岡ではコミュニティFM放送の視察が主目的だが、『米百俵』の原点を確認してくるつもりだ。


2007/09/01

仕事が辛いのは昔から - 何事も大切なのは「根」の部分 -

 良樹細根。イエローハット創始者の鍵山秀三郎さんが監修している『てんびんの詩』の日めくりにある言葉の一つだ。

 解説欄には、こう記してある。「根深ければ、葉繁し - 。樹は、広く深く細かく根を張っていなければ、大樹は育たない。何事を始めるにも、根が先で、葉は後」と。

 確かにその通りで、草花の栽培においても、また人間の世界においても、基本となる「根」の部分がしっかりしていなければ、長続きはしない。

 今日はその「根」の話だが、日経アソシエの9月4日号に、ジャーナリストの蟹瀬誠一さんが『ニュースの裏を読む』と題して短いコラムを寄せている。

 「『間』の分からない人に成功は望めない-ビジネスと落語の共通点 - 」との副題で、「落語的発想を取り入れることで、仕事の知識を深め、チームワークも向上する」…云々と論じている。

 その一節に、落語家の三遊亭楽春師匠の言葉が引用されている - 。

 「例えば、落語の演題のことをネタというが、楽屋では『根多』と書く。なぜなら多くの演題を知り、広く深く芸の根を張らなければ成功できない仕事だからだ」。

 さらに「ビジネスに置き換えればネタは仕事の人脈であり、ネタが仕事の知識の深さ、そしてお客様からの信頼感へと繋がるのである」と続く。

 同師匠は、IT業界を代表する大企業の一つである「富士通」などで、そうした持論を積極的に展開している、という。

 一方のテーマである「間」については、「自分と客との『物理的な距離』でなく『心理的な間合い』である」と説く。

 個人的には、つい先般「間抜け」の話を書いたばかりだったので、いたく「シンクロニシティ」を感じていたら、本日届いた私信には相も変わらず「眞抜け」の宛名。ガックリきた。

 話は前後するが、蟹瀬さんは、AP通信やTIME誌の特派員などをしていた〃国際派〃であるから、「ビジネス」の語源についても一くさり - 。

 「英語でその意味は『苦労・孤独』。フランス語のトラバーユも、元をたどればラテン語の『拷問』。つまり、仕事が辛いのは、今も昔も変わらない」と述べている。

 さーて今日(土曜日)も、その辛い「仕事」の日だが、一服の合間に花壇を見ると、綺麗な花や青々とした葉っぱを支えているのは、鷲の爪のような逞しい「根っこ」であった。

 花が落ちないように、葉っぱを傷つけないようにそっと水を掛けていたら、コオロギが数匹驚いて飛び出してきた。

 小さな秋の訪れを感じるとともに、以前NTT島原営業所の所長をしていた「興梠さん」のことを想い出した。確か、そのルーツ(根っこ)は宮崎県の高千穂だと言っていた。