2007/04/29

鯉のぼりの起源は? - 海外へ開かれた「野球の窓」 -

 鯉のぼりのシーズンである。大空を背に元気に泳ぐ姿は、何度見ても、どこで見ても気持ちがいい。

 この風習はいつ頃から始まったのだろうか。そもそも「端午(の節句)」とは何ぞや。調べてみた。

 始まりは紀元前2-3世紀、中国・戦国時代の優れた政治家にして詩人でもあった「屈原」の故事に由来する、という。

 国の行く末を憂いつつも、陰謀によって失脚した屈原は、汨羅(べきら)という川に身を投じて亡くなってしまう。

 その命日が5月5日で、死を悼む人々が、屈原の死体を魚が食べないように粽(ちまき)を投げ入れて、舟の舳先に龍の首飾りを付けた。

 これが今日のドラゴンレースの原型で、やがてその風習は病気や災厄などを除ける「宮中行事」→「端午の節句」となり、日本に伝わってきた、と。

 一方、「端午」とは「五節句」の一つで、毎月初めの「午(うし)の日」のことを指していたが、「午」は「五」に通じることから5月5日を「端午の節句」と呼ぶようになった、とも。

 我が国においては、宮廷文化が栄えた平安時代は菖蒲で飾った紙兜が流行。室町時代に入ると、武家では竹竿に布を張り付けた「吹流し」を立てた。さらに時代が下がって江戸時代になって、今のような「鯉のぼり」のスタイルに。

 「菖蒲湯」も子ども日の習わしだが、これは「菖蒲」が「尚武」につながるから。また、「鯉」は「滝上りをする」と言われるくらいだから、いずれも元気に育つように、と〃縁起〃を担いだものだと言えよう。

 さて、「コイ」と言えば〃下心〃たっぷりの「恋」の話もあるが、「鯉」の話で統一しよう。

 と言っても、コイはコイでも「広島カープ」の話。同球団は私が上京した年に〃悲願の初優勝〃を果たした。

 どういうわけか、クラスメートに医学部受験くずれの6浪の猛者がいて、そいつが広島県の出身で大のカープファンだった。

 この前、掃除のついでにアルバムを開いていたら、初優勝のニュースを大きく報じたスポーツ新聞を開いて、2人でニンマリとおさまっているスナップ写真が出てきた。

 以前に在籍していた会社の営業支部が広島市内にあったので、時々出張や研修で訪れていたが、常宿は市民球場のすぐ側にあって、遅くまでスタンドの歓声が伝わってきた。

 夜、先輩に連れられて飲みに行く先は、必ず主砲の山本浩二選手(後に監督)がひいきにしている「窓」というスナックに決まっていた。

 今や大リーグも「松坂VS松井」などと〃日本人対決〃で盛り上がる時代となった。広島ファンの巣窟だった「窓」を懐かしみつつ、海外へ開かれた「野球の窓」から眺めるゲームの醍醐味を楽しんでいる。


2007/04/28

スシにまつわる悲喜劇 - ウニやイクラは何故ないの? -

 吹聴するわけではないが、我が家の母が作ったバラ寿司は最高である。これは誇張でも何でもない。本当に美味い!!

 ところで、世界中で「スシ」が大流行しているそうだ。だいぶ前にアメリカ西海岸で「アボガド巻き」が有名になったが、最近ではどこの国でもスシネタには事欠かないとか。

 一方で「回転寿司」も大盛況のようだが、本家本元と言ったら、やはり東京の「元禄寿司」チェーンだろう。筆者が良く通ったのは、新宿駅西口の店だったが、まだあるのかどうか知らない。

 当時の回転寿司は今のように皿の種類はなく、「一枚百円」が相場だった。ただ、新宿西口店だけは魚の荒煮などが置いてあって、重宝していた。

 一度、幼なじみだった実践の女子大生と吉祥寺の店に行ったことがある。その子は小柄だったが、実に健啖家で十数枚をペロリ。まあ、支払はしてくれたからよかったものの…。

 高校の一年後輩になる吉岡市長の甥っ子と新宿東口の普通の鮨屋に行った時は参った。「オヤジさん、ウニとトロ、それから白身も握って」。こともなげに次々と注文する後輩。

 筆者と言えば、それまで回転寿司にしか行ったことがなかったので「なるほど、本当の江戸前はこうやってたのむのか」と呆気にとられつつも、負けじとネタを指さした。

 そして迎えたお愛想!?ナッナンと一人一万五千円也。昼食、ビールなしを考えれば、いかに「時価」とは言っても、相手は貧乏学生ではないか…。

 ポケットを探してもそんな大金あるはずがない。「どうしよう…」とあせっていたら、後輩はオメガの腕時計を外した。

 筆者は何も持たなかったので、力ない笑みを浮かべて学生証をそっと置いてきた。--とまあ、鮨にまつわる話は〃悲喜こもごも〃だ。

 ところで、我が家の三男は大のウニ好きだ。ある時、VIPのお客さんがやって来て近くの鮨屋さんから「特上」を取り寄せた。それを運んできた三男が思わず呟いた言葉が忘れられない。「いつもと違う!!」。

 三男は台所に戻るなり、家人にこう訴えた、という。「お母さん、いつも僕んちで取る出前にはどうしてウニやイクラがないの?」。

 この話は一時期、親戚中で話題になり、「ウニ好きの○○ちゃん」の呼び名が定着した。数日前も、加津佐の叔母から「今年もウニが取れたから出ておいで」との電話をもらって、家人と三人連れで出かけた。

 「少し白っぽいのがムラサキウニ。黄色が強いのがバフンウニ。先にムラサキウニから食べなさい」。どちらも100%の天然モノで買えば相当するだろう。

帰りの車中で三男が突如、歌い出した。「ウニは高いなぁ、美味しいなぁー」。その通りです!!


2007/04/27

残念〃下心〃実らず - まさに口は災いの元!! -

 「愛」はその中心に「心」がある。しかるに「恋」の「心」は下に位置している。すなわち、それは〃下心〃である。

 なんて、他愛もない話を、以前に聞いたことがあるが、昨夜の出来事は一体何だったんだろう?

 時は夕闇迫る7時頃。場所は湊新地の漁人市場「とっとっと」の殿さん蔵レストラン。旧知のキリンビール関係者とワインをいただいていた。

 と、まだ薄明るい窓越しにニコニコしながら手を振る御仁がいる。良く見ると、元島原信用組合理事長の山林正直さんだ。

 同伴しているのは今風の若い女の子2人。「お孫さんかな…」と思っていたら、散歩の途中に「魚の美味い所を紹介して」と言われて連れて来たのだ、という。なるほど、山林さんは上下ともウォーキング・スタイルだ。

 「この人は地元の新聞社の人だから、何でも分からん事があったら訊きなさい」。山林さんはそう言い残して夕闇の彼方へ消えて行った。

 「どこから来たの?」。「栃木の宇都宮から来ました」。たまたまキリンの片割れが栃木県出身だったので、話は俄然盛り上がった。

 「平日に旅行とは優雅だね」。「はい、2人ともサービス業関係に勤めているものですから、連休前にお休みをいただきました」。とてもハキハキと感じの良い受け答えだ。

 「で、今日は島原に泊まるの。良いよ、島原は。温泉はあるし。さあ、オジサンたちと島原の夜を満喫しようか」。完全に見え見えの〃下心〃である。

 「ゴメンナサイ。私たち、宿は長崎です。○○ホテルを予約しています。稲佐山からの夜景を見たいので、そろそろ失礼します」。

 「ちょっと待って、○○は僕も時々泊まるけど、あそこは幽霊がでるからやめた方がいいよ。それよりここでゆっくり飲んで、温泉でもつかっていったら。何ならホテルは僕が手配するから」。

 オジサン必死の訴えも、笑いながら軽くいなされてしまう。「ところで、さっきサービス業って言ってたけど、観光関係?それとも市民サービスという意味で公務員かな?」。

 「まあ、そんなことより、お腹が空いたでしょう。この刺身美味しいよ。ふぐ刺しも食べなさい」。「ほんとに島原の魚は美味しいですね」。

 時計の針は8時に迫ろうとしていた。と、やにわに立ち上がった2人は、毅然とした口調で「ごちそうさまでした。やっぱり長崎の夜景だけはどうしても見たいので、失礼します」。

 一緒に記念写真にもおさまったので、名刺を渡すと、「実は私たちは同じホテルチェーンの宇都宮○○に勤めているんですよ。幽霊が出るかどうか確かめてきます。サヨサラ」

 まさに、口は災いの元。机上には伝票だけが残っていた。


2007/04/25

色白&デブで悪いか!? - ふざけるな「ちょいワル」 -

 過日、会社の会議室で、近くの新生堂薬局から買って来た〃激安〃のカレーパックを一人寂しく口に運んでいたら、「カレイシユウガシマス」と言われ、窓を大きく開けられた。

 その窓を開けた社員に他意はなかったのだろうが、人間50歳を超えるとヒガミっぽくなってくるもので、「そうか俺もとうとう〃加齢臭〃がするようになったか…」と、急速に落ち込んでしまった。

 たまに行くゴルフ場で、風呂に入った後に付ける男性用化粧品は、すこぶる家人に評判が悪い。一緒に車に乗ろうものなら「臭い。あっち行け」と、これ以上ないくらい嫌な表情をされる。

 …「そうかなあ。自分では香しい」と思っているが…。不快な思いをさせているのであればゴメンナサイ。でも、文句があるんだったら、ゴルフ場なり資生堂なりに言ってくれよ!!

 話は変わるが、文藝春秋5月号の巻頭コーナーに、イラストレーターの山藤章二さんがエッセイを寄せている。タイトル名は「ちょいワル」に異議アリ。

 山藤さんは冒頭で、「ちょいワル」を「老け込むのを防ぐために年不相応、柄不相応な格好をすること」と定義付けした上で、「別段カッコイイとも思えない」と、バッサリと切り捨てている。

 以下、「肥満」「色白」「うす毛・ハゲ」「ヒゲ」などと身に覚えのある〃老化現象〃の実例をあげながら、それぞれの〃盲点〃を衝いている。一読しただけで笑ってしまった。

 中でも「ハダシ」の項で徹底して揶揄されているのが〃平成の色男〃ことタレントの石田純一だ。余りに面白かったので、紹介しておく。

 《生きた見本が、「不倫は文化だ」とのたまわったあの男。よほど暑がりなのかいつみてもハダシ。そのくせ肩には着るでもないセーターを巻きつけている。冷え性なのかのぼせ性なのかはっきりしろ。それとも「ハダシは文化だ」とでも言いたいのか》

 最後に山藤さんは、自らの理想とする年のとり方を、中国の水墨肖像画等に描かれているふっくらとした老人像と重ね合わせて、こう結んでいる。

 《「ちょいワルおやじ」などという自然に逆らった西洋かぶれの老い方は、所詮、日本人にはそぐわないと知るべきだろう》

 本当に山藤先生の仰せの通りだ。メタボと知りつつ、ドンブリ飯の習性を一向に改めようとしない自分も情けないが、やたらと若づくりをして女にもてようとする不逞の輩よりはまだましかも…。

 それにしても痩せない。かろうじて頭髪だけは白髪交じりでとどまっているが、サウナの大型ミラーで見かける〃我が身〃はまさに布袋様のそれ。

 今朝ほども靴下を履くのに手間取ったし、洋式トイレの有り難さをしみじみと噛み締めている今日この頃である。


2007/04/24

予想外れた長崎市長選 - ともあれ田上さんオメデトウ -

 当然、娘ムコ殿が当選するものと予想していたら、あにはからんや、退路を断って出馬した元市役所課長に軍配が上がった。

 何はともあれ、田上(たうえ)さんオメデトウ。横尾さんは残念でしょうが、今しばらくは記者の立場で、長崎市勢発展のため、ご尽力下さい。

 昨夜は知人宅で焼酎をいただきながら選挙速報の番組を見ていた。「なるほど、福島は渡辺黄門さまのお膝元だから、民主候補の勝利が固い」「ふむふむ、沖縄は自民の女性候補の勝ちか。良く見ると、なかなか美形ではないか」-。

 でも、やっぱり注目の的は「長崎市長選」であった。出口調査はほぼ互角。とすれば、無党派層の票の行方で決まるのか。

 酒の勢いも手伝ってか、場面、場面で厳しい論評が飛び交う。「ムコ殿のメガネが気に入らん」「後から換えとるとん。こっちが良か」「何となく藤波孝生(元自民党幹事長)にも雰囲気ん似ちょっとん」。

 たいがい全員に酔いが回ってきた頃合いを見計らったかのように、田上氏に「当確」マークが打たれた。一件落着である。

 一夜明けて、朝からもテレビのワイドショーを見ていたが、そもそも「弔い合戦」なのに「返り討ち」に遭ったら、かわいそうじゃないか…。

 しかしながら、その点では、「市職員の自分にとっても『弔い合戦』に他ならない」と語り、「首長の世襲問題」として訴え続けた田上氏の作戦勝ちか。

 いま一つ解せないのは、盛り上がらなかった投票率(55%強)と、無効票の多さ(約一万五千票)。やはり長崎人の根底には「市長はヨソモンには任せられん」という〃共通認識〃があったに違いない。

 これはまったくうがった見方だろうが、仮にムコ殿が県紙や県内民放局の記者であったら、結果は違ったものになっていたかも知れない。

 西日本新聞の記者はこのところ政治づいており、昨年行われた福岡市長選では50歳(当時)の吉田宏氏が激戦の末、現職市長を破って当選。「福岡に続いて長崎もやられてなるものか」との思いがどこかにあったかも知れない。

 休日を利用して長崎市内を訪れていた弊社の社員が淡々とこう言っていた。「やっぱり敗因はあのメガネと、ドシャ降りの雨だったでしょうね…」。

 いずれにしても全国注視の長崎市長選の幕は終えた。報道によれば、田上氏は「長崎さるく博」を仕掛けたアイデアマンだという。今後のリーダーシップに期待する。

 一方の横尾氏はまだ若い。本当に長崎に骨を埋める覚悟なら、再戦を期しても決して非難されるものではない、と思う。

 諺とは逆だが、「長崎の仇を江戸で」の気概で、官邸での捲土重来を期待している。


2007/04/22

一富士、二鷹、三茄子 - 長崎の「弔い合戦」に注目!! -

 「一富士、二鷹、三茄子」-と言えば、初夢で見ると良いとされる〃縁起物〃だが、今日まで余り気にせずやり過ごしていた。

 ところが、ひょんなきっかけから、その意図するところを聴いてビックリ。なんと3件とも「仇討ちに関連する!!」というのだ。

 まず「富士」についてだが、これは富士山の裾野で行われた曽我兄弟による「父の仇討ち」(1193年)のことだという。

 続く「鷹」の意味するところは、「忠臣蔵」(1703年)における、無念の主君、赤穂・浅野家の家紋「鷹の羽の打違い」。

 最後の「茄子」については、日本三大仇討ちの一つとされる、伊賀上野での「荒木又右衛門の義弟助太刀決闘」(1634年)を指すと。(家紋が茄子)

 もっとも、これには〃諸説〃があって、単純明快に「富士は日本一の山」「鷹は威厳のある百鳥の王」「茄子は『成す』に通じる」との説が一般的だ。

 余談だが、さらに「四扇」「五煙草」「六座頭」と続くという言い伝えもあるから面白いではないか。

 ところで、本日(22日)投開票される長崎市長選挙だが、これはもう取りも直さず「仇討ち」「弔い合戦」に他ならない。

 投票権もない立場でこうしたことを言うこと自体「余計なお節介」かも知れないが、出来たら元市役所職員の方には、ご遠慮いただきたかった。

 こんなことを書くと、「お前は国民の権利を妨げるつもりか!!」とのお叱りを受けるかも知れない。ただ、これはあくまでも個人的な感情である。

 ましてや、岳父の無念を晴らそうとする西日本新聞の記者は「官邸キャップ」の要職を投げうっての決断である!!-と思い込んでいたら「休職扱いでの出馬」だと聞いて、些かがっかりした。

 しかしながら、心情的にはこの候補者を応援する。こんな大事な決定が「伊藤家の食卓」だけでなされるはずもないだろうから。

 さて、島原市議選の告示までとうとうひと月を切った。市内各所には候補予定者の看板が立ち並び、まさに〃本番間近〃といった雰囲気だ。

 デザインも様々で、顔写真入りのものもあれば、名前を蛍光色で際立たせたもの、さらには顔を上げたり、頭を下げたり…とまさに〃百人百様〃の呈。

 ここ一両日中に事務所開きをするところも多いようだが、果たしてどんな戦いが繰り広げられるのだろうか。

 これまでと違う点は合併後初の選挙戦で、すったもんだで決まった定数も旧市町合わせて「23」。かなりの〃激戦〃になることは必至だ。

 いずれにしても、地縁&血縁だけで乗り越えられるような当選ラインではない。候補者それぞれの人となり、熱意、市勢振興への方策等々をじっくりとうかがいましょう。


2007/04/21

やっと来ました100回目 - 初志を忘れず頑張ります!! -

 記念すべき100回目である。極めて個人的な感想で恐縮だが、良くもまあ続けてこられたものだ、とつくづく思う。

 実は50回目前後に何人かの方々から〃匿名〃での厳しいご叱責を賜わったことがある。即座に反論を試みたものの、社長にボツにされたことが幾度かあるので、実数でいけば97、98回目くらいだろうか。

 まあ、そんなことはどうでも良いとして、記念すべき100回目なので、改めて〃原点〃に還ろう。もともと本欄を思い立ったきっかけは、余りにも理不尽な世相に心底腹が立ったから、だった。

 その背中を押してくれたのは、朝日新聞の「ジャーナリスト宣言。」であり、「暮しの手帖」を起こした花森安治の「一銭五厘の旗」の精神である。タイトルの「履正不畏」は中国の古典「三国志」から取った。

 昨今は、大企業&都市部を中心に、順調に景気が回復していると言われているが、地方を取り巻く環境は夕張市(北海道)に限らず、いずれも例外なく厳しいものがある。

 しかし、どのような環境であれ、自分たちの古里は自分たちの手で守って行かねばならない。たまたま今年のNHKの大河ドラマは「風林火山であるが、昔から独特の響きの「武田節」が大好きだった。

 「祖霊まします この山河 敵に踏ませてなるものか 人は石垣 人は城 情けは味方 仇は敵 仇は敵」(二番)。

 しかし、そのNHKにしても相次ぐ不祥事が発覚。全国規模で「受信料の不払い運動」が起きたことはまだ記憶に新しい。

 目を地元に転じて見ても〃規制緩和〃の美名のもとに、業種を問わずヨソ者が乗り込んで来ての〃安値乱売合戦〃。まだルールに即した戦いであれば許せるが、そうでない〃卑劣な手段〃は断じて見過ごすわけにはいかない。

 本日は敢えて具体的事例を取り上げることはしないが、いかに巧妙に仕掛けようと、隠そうと、悪事は必ず天の裁きを受ける。「天網恢恢(てんもうかいかい)疎にして漏らさず」である。

 米エンロン社しかり。雪印、三菱自動車、不二家しかりである。ここ数日はガス湯沸かし器に続いて、TOTOやINAX製のお尻洗浄器の不具合が喧伝されている。

 「エーイ、ここまで来たらもう〃ヤケクソ〃」だなんて、切れてはいけない。じっくり、正直に構えて努力すれば、必ず「道は開ける」もの。(D・カーネギー語録)

 公表の時機もあるのでもう少しお待ちいただかねばならないが、間違いなく地域の皆様のご期待に沿えるような、画期的な企画&提案がほぼまとまった。

 「意志あるところに道あり」だ。「初志」を忘れず、これからも真摯に努めてまいります。どうぞ倍旧のご支援を!!


2007/04/20

感動したコラボ企画 - 慈恩寺の名前はどこから? -

 漢字262文字が伝える仏典の真髄、般若心経(はんにゃしんぎょう)。その一文字一文字を書き写す作業を「写経」と呼ぶ。

 悩み多き筆者もほんの一時期、はまったことがある。と言うより、「時間があれば続けたい…」というのが本音だ。  

 島原市の森岳商店街の一角「鵜殿邸」でこのほど開かれた「般若心経と尺八のコラボレーション」企画は実に素晴らしかった。

 演奏者は熊本県甲佐町の薬王寺住職、白土虚皓さんと、長崎市在住の松林静風さんの両名。静寂の底を縫うように流れる中国伝来の民俗楽器の味わい深い響きは、一言でいって〃心のオアシス〃。

 決して〃誇張〃ではなく心休まる一時であった。同邸にはまだ、主宰者の長濱七郎さんと、小長井町で窯を開いている荒木広さんが色紙一枚一枚に描いた般若心経を展示中。お訪ねになるのも一興か。

 諸説あるが、般若心経は『西遊記』にも出てくる玄奘(三蔵法師)が天竺(インド)から中国にもたらしたもの、との説も有力だ。

 中身については、巷に解説本が溢れているので、筆者の聞きかじりなんかより、是非そちらの方をご参照いただきたい。

 ところで、以前にも本欄で紹介した小林正観さんの著書『釈迦の教えは感謝だった』を改めて読んで分かったことがある。

 なんと三蔵法師が帰国後も世俗との接触を一切断って、18年間もの長きにわたって籠もり続けた寺院の名前が「慈恩寺」である、というのだ。

 「慈恩寺」と言えば、西有家町の山手の集落だが、何らか因縁があるのだろうか?それとも知らないのは筆者くらいか?ご存知の方がおられたら、その由来を是非教えていただきたい。

 最後にお知らせだが、その小林さんの講演会が25日夜に諫早文化会館である、という。


2007/04/19

やさしかった伊藤市長 - 断じて許すまじ暴力事件!! -

 長崎市長の伊藤一長さんが17日夜、凶弾に倒れ、翌18日未明に亡くなった。61歳。何はさておき、ご冥福を祈るばかりだ。

 伊藤市長とは早稲田大学長崎校友会の総会で何度かお会いしたことがある。気さくな人柄で、自身は緑茶を片手に、「遠い所から良く来たね」と、にこやかに酒をついで下さった。

 特に今年は母校創立125周年ということもあって、吉村作治先生を招いてのパーティや、長崎市を起点としたウォーク・ラリーの出発式で、一緒に記念写真におさまるなどしていたから、未だに信じられない気分だ。

 政治家の死も百人百様だが、「暗殺」と言えば、やはりすぐに思い浮かぶのは米ケネディ大統領(第35代、1963年)。真相は未だにヤブの中だが、日米間で初めて衛星中継の画像がつながったのも確かこの事件からだった。

 社会党の委員長だった浅沼稲次郎さんが演説中に刺殺された事件(60年)も忘れられない。犯人は17歳の右翼少年、山口二矢(おとや)だった。

 この事件は、後にニュージャーナリズムの旗手として華々しく文壇デビューを果たした沢木耕太郎が『テロルの決算』(文藝春秋刊)と題して発表。大きな反響を呼んだ。

 「暗殺」ではないが、徳島にいた頃に、現職の大平正芳総理が急逝したニュースも、隣県出身者だったこともあって、はなはだショッキングであった。

 というより、この時、新聞の「号外」というのを初めて見て、それをくいいるように読んでいる自身の姿が、翌朝の朝刊で大きく取り上げられていたからだ。

 浅沼さんの話に戻る。長崎市出身で娘婿に当たるNさんが昭和50年代当時フジテレビ報道部に勤務されており、草野壬二郎さん(当時小浜町長)の紹介状を持って就職相談に訪れたことがある。

 確かその弟さんが伊藤市長とも親しく、長崎市議会の議長もお務めになっていたはずだが、今回は出馬されていないようだ。体調でも悪いのだろうか…。

 90年1月18日には、当時の長崎市長、本島等さんは「天皇の戦争責任発言」を糾弾され、市役所前で右翼団体から襲撃を受けた。この日は、島原振興局管内の施設見学に記者クラブ全員で参加していた。

 夕方、瑞穂町を出ようとした頃、長崎新聞の島原支局長だった林田克己さんのポケベルが鳴った。それが事件発生を知らせる第一報だった。

 その時、いち早く現場に駆け付けスクープ写真をものにしたTさんが、18日付け同紙の一面コラム『水や空』の最後をこう結んでいる-。

 「何がおころうとも、民主主義を守り抜く長崎市民の信念が揺らぐことはない。それが、この凶弾に対する答えだ」。まったく同感である。合掌。


2007/04/18

ボストンバッグとは… - ケリーバッグはドン腹隠し -

 1億ドルのMLBプレーヤー、松坂大輔の誕生で、俄かに「ボストン」という街が気になりだした。

 地図でみると、ニューヨークのやや北方に位置する米東海岸の港町だ。歴史的には「ボストン茶会事件」(1773年)が名高い。

 ところで、本日書こうとしているのは、松坂が入団したレッド・ソックスの話でもなければ、ジャズの名門、バークレー音楽学院にまつわるエピソードでもない。お題は「バッグ」。

 「ボストンバッグ」と言えば、筆者も含めて、年配者にとっては何とも懐かしい響きだろう。「ボストンバッグ一つで家出(駆け落ち)したが、今では云々…」といった具合に。

 残念ながら、筆者は家出も、駆け落ちも経験がないので、「ボストンバッグ」の由来が何であるか、さっぱり知識がない。で、調べてみることにした。

 ネット上の検索によると、「ボストンバッグとは、底が広く、ファスナーで開け閉めする機能を持つバッグ。アメリカのボストン大学の学生達がよく使用していたことから名前がついた」とある。

 これを読む限り、何かしらオシャレな感じしかしない。とすれば、「逃亡」「悲壮」「貧困」といったマイナスイメージを抱くのは、単なる誤った〃先入観〃に過ぎないではないか。

 突然だが、話は「ケリーバッグ」に飛ぶ。というのも、たまたま買った週刊朝日(4月20日号)の後半グラビアに、グレース・ケリーが特集されていたからだ。

 50年代のハリウッドを代表する美人女優としても知られるが、さらに一躍有名ならしめたのは「モナコ公妃」の座を射止めたこと(56年)。82年、交通事故に遭い52歳の若さで生涯を閉じたことも、センセーショナルな事件として印象に残っている。

 「ケリーバッグ」という名前は、もちろん彼女から来ている。妊娠中に、大きなお腹をバッグで隠していたことから、その名がついたのだ、という。

 特集では、彼女がすぐれた押し花アーチスト兼婦人服デザイナーであったことを紹介。4月17日の日本橋・三越を皮切りに全国各地で巡回展が開かれることも併せて伝えている。

 そうした〃華麗なる世界〃とはまったく関係ないが、島原市出身で合併前の三和町で助役を務めていた保里川振一郎さん(現長崎土木事務所長)が、マージャンの最中に良くはしゃいでいたことを苦々しく思い出した。

 彼は字牌の「西」を捨てる度に「ケリー」「ケリー」と絶叫していた。最初のうちは何のことか全然判らなかったが、負けが込んでから、ようやく気付いた。

 なるほど良くみると、「ケリーバッグ」の形は「西」の造りにそっくりだ。バカの後知恵。〃ケリーバッグ〃ならぬ、保里川さんの〃大風呂敷〃にやられていたのであった。


2007/04/17

煙草税2億8千万円強 - それでもアナタは嫌煙派!? -

 起き抜けに煙草を5、6本立て続けに吸うのがすっかり日課となってしまった。切らした日などは、何はさておいても近くの平野食堂(自販機)へ直行だ。

 それにしても愛煙家には辛い世の中になったものだ、と嘆いていたら、野坂昭如編『けむりの居場所』(幻戯書房・06年刊)というエッセイ集に巡り合えてホッとしている。

 週刊文春で連載中の「喫煙室」(JT協賛)のアンソロジーで、本の帯によれば、32人の〃人生の味〃という触れ込みだ。

 巻頭を飾っているのはヘミングウエイの魅力とも相通じる、稀代の冒険作家、開高健(かいこう・たけし)氏。89年没。『ちょっと一服』というタイトルで自身のタバコ論を巧みに開陳している。

 中で2人の〃大物〃の喫煙スタイルが紹介されている。1人は20世紀を代表するフランスの大哲学者、サルトル。

 「彼は大碗のブラック・コーヒーをすすり、1秒の休みもなくツバをとばしてだみ声でしゃべりつづけ、ひっきりなしに『ボヤール』をふかしていた」。

 続けて毛沢東。「茫洋としたゾウに似ていて、やっぱりチェイン・スモーカーだった。のべつに『パンダ』の缶に手をのばし、煙のなかで小さな眼を細くし、ぶわぶわした肉に埋もれて幸福そうでもあり、老いたことを弔んでいるようにも見えた」。

 「よこにやせて、小さな、眉の濃い周恩来がいて、ゆったりと腕を組み、煙草は1本も吸わず、毛沢東の消えかかった記憶をときどき低声で訂正したり、確認したりしてやっていた」。

 同章の最後はこう結んでいる。「チェイン・スモーキングは焦燥の表徴だと心理学者はいう。とすると、この3人(もう1人はソヴィエトの文学者、エレンブルグ)は心が渇いていて、一瞬の安住も拒んでいたことになる。時代は煙のなかで構想され、かつは消えかつは現れるか」と。

 しばらく以前にこの文章を読んでいたせいか、先般来日した温家宝首相をはじめ現中国指導者の喫煙スタイルが気になるところだが、すでに人民服を脱ぎ捨てた時点で「ノー・スモーキング」世代へと変節しているのだろうか。

 この4月から飛行機に続いてJR各線も「禁煙車両」とされ、愛煙家は益々肩身が狭くなってしまった。「だいたい国鉄の赤字を救ったのは我々タバコ吸いではないか!!」と憤ってみたところで、そんな声は煙のように消えていくだけ。

 せめても抵抗で、島原市役所に税収への貢献度を尋ねてみたら、ナンと、「2億8千5百万円強」(平成17年度)。市民1人あたり7千円超。それでもアナタは嫌煙派?

 「あったり前でしょ。副流煙被害をどうしてくれるのよ!!」。まあ、双方言い分があるようで…。仕方がない、歯科医院に行ってヤニでも除去してもらうか。


2007/04/16

このまんまではイカン!! - 「三市一体」となって真の改革を -

 一週間ほど県外出張が続いて本欄を休ませていただいた。そのため、統一地方選の第一ラウンドとなる県議会議員選挙は「期日前投票」で済ませた。

 開票結果は、都内のビジネスホテルで聞いた。新たに金的を射止められた島原半島選挙区の六人の皆様には「おめでとうございます!!」の祝辞とともに、「さらなる踏ん張り」を期待するものである。

 ところで、これは前々から感じていたことだが、首長の名前には末尾に「郎」が付く人が多い。先ごろまで総理を務めていた人物は小泉純一郎だし、都知事は石原慎太郎。

 目を地元に転じても、県知事は金子原二郎。島原市長は吉岡庭二郎。雲仙市長は奥村慎太郎といったあんばいだ。とすれば、これから生まれてくる子供には「○○郎」と名付ければ、首長になれる可能性が高まるのであろうか!?

 昔は「この子は将来、選挙に立候補させる予定だから、皆が書きやすい名前が良いだろう」ということで、「一」と命名した親がいたとかいないとか…。真偽のほどは定かでない。

 出張後半は、宮崎県都城市のケーブル局と熊本県小国町を訪ねた。前者は、ご存知「そのまんま東知事」の生まれ故郷である。

 都城のホテルに着いたら、法被姿の同知事のポスターがフロントの壁面にでかでかと貼ってあった。キャッチコピーは意に反して、「きっくなんせ宮崎」だった。

 意味を尋ねると、「どうぞ宮崎県へお出掛けになって下さい」という観光客向けの誘致文句らしい。もう30年以上も前に、国鉄(当時)の湯田温泉駅で見かけた「おいでませ山口へ」と同じノリだ。

 当然、知事の出身地であるから、人気のほどは抜群。ケーブル会社の幹部の方に、同窓の県立泉ケ丘高校の出身者が多かったことも頷ける。

 小国は「九州の山林王」として知られた故・河津寅雄氏の出身地で、川をまたぐコイノボリで知られる杖立温泉を抱えた山間の小さな町(人口一万人弱)。故・北里柴三郎博士の出生地でもある。

 今回の出張目的については、いずれ改めてお知らせする日が近いのでさて置くとして、いずれの自治体も「島原半島への関心度」は高い、と見た。

 それは、普賢岳噴火災害から復興へ向けての「防災の街づくりへの歩み」でもあり、「島原の乱」や「日本最初の国立公園指定」などといった歴史&ロマンへの憧憬でもある。

 まあ、名前はともかくとして、新しい六人の県議も出そろった。残るは23の定数で競われる島原市議選。政府の言う「三位一体」の圧力に屈せず、「三市一体」となった地域振興を真に切望する次第だ。

 このまんまではイカン島原半島!!何とかせんとイカン島原半島!!


2007/04/06

篠原涼子はニューブス - ヘミングウエイは二股がけ -

 「花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせしまに」。百人一首の中でも、つとに知られる小野小町の作品だ。

 あれほど待ち望んでいた桜の開花だったが、落ち着く間もなくハラハラと舞い落ちている。西行法師ではないが、まさしく「心無き身にも哀れは知られけり」だ。

 週間天気予報を見ると、今週末は何とか持ちこたえそうなので、にっくき黄砂の襲来さえなければ、花見の宴も大いに盛り上がることだろう。

 ところで、小野小町はクレオパトラ、楊貴妃と並ぶ「世界三大美女の一人」とされているが、どうやらその説は日本だけのものらしい。とすれば、あと一人は何処の誰だろうか?

 最近は日本のホテルの朝食とかでも出されているが、東南アジアを旅行していると、「かの歴史的美女、楊貴妃が好んで食したレイシ(ライチー)です」という説明を良く聞かされる。

 が、率直に言って、いまだにそんなに好きでない。何となく半端な味わいが嫌だ。さほど美しくないガイド嬢を見たら「恐らく、こいつもレイシが相当苦手な部類だろう」と想像を膨らませたりする。

 「美人」の定義は年とともに変わっていく。昔は、うりざね顔で、色白、おちょぼ口…などが珍重されたようだが、最近は違ってきているようだ。

 時代が変わったな!!と思ったのは、今井美樹が登場した時。私自身、相当なファンなのだが、どう見ても〃和風美人〃ではない。どちらかと言うと、米文豪アーネスト・へミングウエイの孫、マーゴ・へミングウエイの系譜だろう。

 そのへミングウエイが名曲「リリー・マルレーン」の歌い手として知られるマレーネ・デートリッヒに宛てた手紙が見つかった、と3月31日付けの朝日新聞が伝えている。

 それによると、どうやらヘミングウエイ先生は自作が映画化された「誰がために鐘は鳴る」の主演女優、イングリッド・バーグマンとも〃同時進行〃で付き合っていた模様だ。

 書簡にはこう記されている、という - 「怒りたければ怒ればよい。でも、娘よ(デートリッヒを指す)、いつかはやめなさい。世界に君は1人しかいないし、君に代わるべき存在もいない」。

 さすがに世界的な大文豪、言うことがカッコイイ。いつかは小生もその域に…と秘かにこいねがっているが、永遠にそんな日は来ないだろう。きっと…。

 美人の話に戻る。今が〃旬〃という感じの女優に篠原涼子がいる。彼女が主演したテレビドラマ「派遣の品格」はとっても面白かったが、デビュー当時のキャッチ・フレーズは「ニューブス」だったことを覚えておいでだろうか。

 これ以上書くと、「それが何か?」と怒られそうなので、筆をおく。


2007/04/05

ブリーフは具合が悪い - いつしか消えた「股割ズボン」 -

 コンビニで着替え用の下着を買ったが、トランクスだと思っていたら、ブリーフだった。

 普段はき慣れていないせいか、どうにも具合が悪い。何かしら、こう締め付けられているようで気持ちが悪い。落ち着かない。

 ガキの頃の下着は白い猿股スタイルが定番だった。中学生になって色気づいてからはパンツ(ブリーフ)に変わった。トランクス派に転じたのは大学生になってからである。

 そう言えば、剣道部に属していた、旭川出身の大庭康夫君というのがいて、彼は四年間、ツメ襟と角帽で通した〃硬派〃の学生で、下着は白のフンドシと決めていた。

 今でもそうなのかどうかは知らないが、彼の場合は〃フリチン〃で稽古や試合に臨んでいた。今度、島高の渡邉先生に会った時でも、そのスタイルが当たり前なのかどうか聞いてみよう。

 ところで、いつごろから「パンツ」が「ブリーフ」と名称変更しただろうか。今で言う「パンツ」は「ズボン」のことらしいから、それと区別するためだろうか。

 それにしても、男物のパンツは色気がない(当たり前か!?)。我が家は三人息子なので、洗濯物が多すぎて、時々家人が間違えたりする。

 殊に体型がそっくりな次男とは頻繁な〃やりとり〃が続いている。私の場合はさほどでもないが、次男に言わせると〃不潔〃なのだそうだ。

 しかし、よくよく考えみると、男の子で良かった、と思う。もし、娘だったら、親父を見る視線には、今以上に厳しいものがあるに違いない。

 以前、復興工事事務所に勤務していた単身赴任の某課長さんが顔を赤らめてこぼしていた。「久しぶりに自宅に帰ってみると、畳んである娘の下着を見て、何となく落ち着かなくなるんですよ…」と。なるほど、そんなものか…。

 ガキの頃の話でまた思い出した。ウンチ用に股が割れた幼児用のズボンがあった。いつしか忘れていたが、30年近く前に中国の桂林に行った時、それをはいている子どもを見つけて「一衣帯水!!」とばかり、妙に嬉しくなった。

 近年、中国の経済発展は目覚しいということだが、まだまだ奥地へ行けば、それらが十分に利活用されている可能性はある。

 「たかがパンツ、されどパンツ」である。日本橋の「白木屋」の火災が、日本における女性下着普及をもたらしたという〃俗説〃は余りにも有名だ。

 「パンツ」が「ブリーフ」に、「ブルマー」が「ニッカース」に - 。時代とともに名称が変わり、最近では下着全般を「インナー」と呼ぶらしい。

 毎日毎日、こんな他愛もない話題で恐縮だが、年度も明けたことだし、いっちょう「フンドシ」を締め直して!!


2007/04/03

青空の下で花見を!! - 今年も観れなかった京の桜 -

 平成19年度がスタートした。ということは、正月から早3カ月が経過したことになる。

 毎年のことだが、年の改まりとともに、新たな決意を抱き「今年こそは!!」と意気込んで、大体百日近くが経過したこの時期に、何とはなしにウヤムヤになってしまう。

 最近では、4月1日始まりの手帳類も売り出されており、そうした怠け心に「軌道修正」をかけるなら今がチャンスだ。

 そう思いつつ、長らく放置していた傍らの日めくりに目をやった。PHP研究所が発行している、鍵山秀三郎さん(イエローハット創業者)監修の『凡事徹底』だ。

 1日=ひとつ拾えばひとつだけきれいになる。2日=盥(たらい)に一滴の水。3日=小さな自信を大きく育てる。4日=毎日できるだけ、少しずつ、私が。

 一見、何げない言葉の羅列のように思えるが、それぞれに己の至らなさを見透かされているようで、反省することしきりだ。

 ところで「三寒四温」とは、冬季の気候を表す言葉だが、本格的な「春」の到来とはいえ、朝晩はまだ肌寒い日が続く。

 先週、所用で訪れた東京では、もう桜が満開だった。反して、当地では咲いているような、いないような…。さらには、大陸からの黄砂で、どんよりした空模様。何となくすっきりしない。

 今から10数年前の4月(噴火災害下)、島原記者クラブの幹事社を務めていた。強権を発揮して眉山治山祈念公園の一角で「夜桜見物」を企ててみたのだが、案の定「灰まみれ」となってしまった。

 それが「トラウマ」となってか、私にとって、この季節最大の敵は「雨風」よりもむしろ「砂塵」である。したがって、紗をかけたような天候は苦手だ。

 さて、サクラである。これも随分と昔の話だが、子供のカラテの大会が夏場に東大阪市であって、家族とともに出かけた。

 その頃、師匠だった崇臺寺のご住職、安藤光宣さんは浄土宗総本山の知恩院に詰めておられていたが、原付バイクにまたがって、わざわざ会場まで応援に駆け付けて下さった。

 試合はあっけなく敗れて、酷暑の中、我々一家は京阪電車で京都へと移動。お参りを兼ねて知恩院を訪ねたのだが、その折、安藤住職が「紅葉も素晴らしいけど、京の桜は最高だよ」と教えて頂いたことが忘れられない。

 残念ながら、今年も「京の桜」を鑑賞することはできないが、せめても晴れわたった青空の下で、「島原の桜」を眺めてみたいものだ。

 「願はくば 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月のころ」 - 。西行法師がこの和歌を詠んだのは九百年以上も昔。太陰暦では、今日3日が望月(満月)のようだが…。