2007/05/31

森本さんと加藤さん - 続け様に〃良い話〃を拝聴 -

 商売柄、色んな方々とお会いすることが出来るし、タメになる話を伺うことも多い。まさに〃仕事冥利〃と言えよう。

 先日、立て続けにとても〃良い話〃を伺ったのでご披露したい。話の主は元島原商工会議所会頭の森本元成さんと、県議に返り咲いた加藤寛治JA島原雲仙代表組合長理事。お二方とも弊社の取締役を引き受けていただいている。

 森本さんに関しては『ちょっといっぷく』のタイトルで本紙にもご寄稿いただいているので、剽窃になってしまうかも知れないが〃若気の至り〃ということでお許し願いたい。

 「組織も国も外からの攻めでは滅ばない。すべての衰亡は内部から起こるものだ」―。顔をクシャクシャにして語る独特の〃森本節〃に、しばしの間、聞き入った。

 言われてみると確かにそうだ。「蟻の一穴」という言葉もあるが、最初のうちは気にも留めようもない現象が、時間を経て大問題に発展した事例は多い。

 森本さんが例えたのとは違う話だが、先ごろ自殺に追い込まれた農水大臣も、恐らくこの類いに当てはまるのではないか。

 よもや、軽い気持ちで始めた事務所経費のゴマカシが、これほどまで世間を騒がせる大問題になろうとは、思ってもみなかったはず。まさに、森本さんが言う「天網恢恢(てんもうかいかい)疎(そ)にして洩らさず」の世界である。

 加藤さんからは、ベストセラー『国家の品格』を著した、藤原正彦さん(作家)の話を伺った。先ごろ東京で行われた全国農業新聞創刊80周年記念式典での講演要旨だ。

 「のっけから『今の日本人はどうしてこうも馬鹿ばかりそろっているのか』との指摘には、一瞬ドキッとすると同時に、ついつい話の内容に引き込まれてしまった」と、振り返る加藤さん。

 農業関係者の集まりだから、必然的に農業の話になるのは自明だが、藤原さんは「農業軽視」(工業重視)「都市と地方の格差是認」などといった小泉流の政治手法をバッサバッサと切り捨てた、という。

 「『改革』と言えば、いかにも聞こえは良いが、そこには『改善』(良)ばかりでなく、『改悪』の要素さえ含まれている。それなのに、大多数の国民は、その言葉の響きだけで踊らされている」。

 「諸悪の根源は戦後教育。日本国民は早くその過ちに気付いて、日本人としてプライドが持てるような教育をしないと、大変なことになる」。

 「いくら自動車を輸出して、何兆円もの利益を上げようが、食糧の自給ができないような国はいずれ滅んでしまう」。

 筆者はお二人の話を聞きながら、「そうだ」「その通り」と、思わずヒザを叩いてしまったが、読者の皆様はいかがお考えでしょか?


2007/05/30

ありがとう坂井さん - 『負けないで』は心の支え -

 選挙報道明けで、ボーとしているところに、ショッキングなニュースが飛び込んできた。28日午後の話だ。

 1本目は松岡利勝農水大臣の首吊り。「ナントカ還元水」疑惑に加えて、「緑資源機構」談合問題の処理に思い余っての自殺だろうが、何とも後味が悪い。

 夜のニュースで、与野党の幹事長クラスがインタビューに応じていたが、誰しも最初に「ビックリした」から始まって、「ご冥福を祈る」とついで、最後は「説明責任を果たしてほしかった」で結んでいた。

 確かにその通りではあるが、一連の問題に関する同大臣の発言は、庶民感覚とはまったくかけ離れたものだったし、国民を愚弄しているような感じすら受けた。首相はなぜあれ程まで庇う必要があったのだろうか。

 3か月ほど前、熊本市内に住むフリーの女性ライターが島原にやって来た機会に「松岡氏はつまらんですな」と言ったら、「昔は良かったんですが…」と、複雑な表情を浮かべていたのが印象的だった。

 筆者も議員会館内で何度か見かけたことがあるし、赤プリ旧舘で開かれた「三県架橋推進期成会」での発言を聞いたこともある。即座に「心がない。つまらん」と感じた。

 報道によれば、現職大臣の自殺は戦後初めてだという。これ以上、色々書きなぐっても詮無いことなので、「他者に言えない苦労があったのでしょう」と、ご冥福を祈ることにする。

 個人的には、この事件なんかより「ZARD」の坂井泉水(いずみ)の階段転落死に、もっと大きな衝撃を受けた。奇しくも、二人とも新宿区信濃町の慶応病院で亡くなった。

 余談だが、JR総武線沿線にある信濃町は同病院と創価学会の街だ。早慶戦がある時は、早稲田側が千駄ヶ谷駅を利用し、慶応側は信濃町で乗降するのが習わしとなっている。

 坂井の澄んだ歌声は今でも筆者の心を捉えて離さない。悩んで、悩んで、悩み抜いていた折に聴いた『負けないで』の響きは終生忘れるはずもない。

 筆者以外にも多くの人間が励まされたであろう〃歌姫〃はもうこの世にはいない。40歳の死は余りにも早すぎる。無念だ。ありがとう坂井さん。そして、負けるものか!!

 またまた余談だが、噴火災害当時、一つ屋根(同じアパート)に住む某新聞記者と島高の国語の先生を結び付けたのも「ZARD」の歌声だった。

 結婚式は福岡市内のホテルであり、筆者も西川清人さんと呼ばれ、スピーチを行った。西川さんは「通風」を病んでいたが、「たまには良かと」とステーキ肉をパクついていた。その西川さんももういない。

 《負けないで ほらそこに ゴールは近づいている どんなに離れてても 心はそばにいるわ 感じてね 見つめる瞳》 


2007/05/28

きょう28日再放送!! - もう一歩だった「グランプリ」 -

 既報の通り、本年度の「ケーブルテレビ九州・沖縄番組コンクール」で、弊社の佐藤栄里子カメラマンが制作した「親父を超えろ!たたら製鉄への挑戦」が、「奨励賞」(日本CATV技術協議会九州支部長賞)に選ばれた。

 表彰式は22日、福岡市のホテルニューオータニで開かれ、立派な賞状と合わせて、ブロンズ盾と金一封をいただいてきた。

 残念ながらその日、筆者は所用があってCATV連盟の総会、表彰式ともに出席できなかったが、他の社員スタッフらが持ち帰った資料等によると、「第一次審査段階では、第一席のグランプリだった」ということだ。

 審査は「企画力」「技術力」「地域力」を合わせた総合評価方式で、弊社の作品は600点満点中、474点を獲得して第三席。ちなみに、グランプリに輝いた沖縄ケーブルネットワークの「ザ うちなーむん」は502点だった。

 長崎県内からは、他に諫早ケーブルテレビジョンが第七席(443点)、佐世保の九州テレ・コミュニケーションズが第八席(423点)で、それぞれ入賞を果たしている。残念ながら、西九州(雲仙市)、大村、長崎の三社の作品は選にもれた。

 「親父を超えろ-」では、島原市内で刃物店を営む吉田錬治さんら仲の良い兄弟が、跡継ぎの将仁さん(九代目)と一緒に、試行錯誤しながら日本古来の「たたら鉄」の精錬に打ち込む姿を、克明かつユーモラスに追っている。

 確かに見応えがある作品で、審査会では制作関係者の評価は一番高かった、という。カボチャテレビでは、受賞を記念してきょう28日夜7時から始まる地元ニュース枠の中で、再放送(リピート)することにしている。

 これまでも警察関係や郵政省(当時)などから感謝状をいただいたことはあるが、今回の受賞はさすがに「名誉」であり、会社全体にとっても大いに「励み」になるものだ。

 ただし、制作者も含めて、ここで自惚れてはいけない!!初めて出品してみて、まだまだ上がいることが分かったので、次回以降はさらに想を練って「グランプリ」を狙ってみたい。

 また、カボチャテレビでは、新たにコミュニティFM放送と広域無線LANによる「メディア・ミックス」効果を目指し、島原市や関係諸団体とも連携を強化して、さらなるサービスの充実に精進していこうと考えている。

 先日、バス5台に分乗して島原への研修旅行を実施した宮崎県都城市の「BTVケーブルテレビ」(霧島酒造)との友好関係も「CATV、FM双方を手がける兄弟局」として確認された。

 雲仙普賢岳噴火災害のさなか、この地で呱々の声を上げて早17年。新たな歴史のページが開かれようとしている。


2007/05/27

東京ではハシカが大流行 - 「ギインカゼ」の特効薬は!? -

 東京方面の大学でハシカが大流行している、という。愚息の通う学校も先日から休校状態で、寮にも患者が出現した、と電話があった。

 家人が心配して「子どもの頃に予防接種はしとるばってん、もう一回そっちで注射ばしてもらわんね」と諭していたが、「9千円くらいかかっとさねー」と、気のない返事。

 そのやりとりを傍で聞いていて「そんなものか」と納得していたが、我が社経理のKちゃん曰く、「9千円もするもんですか。インフルエンザで3千円くらいですよ」。

 寮のOB(島原市内勤務)に尋ねると、「学校指定の医療機関なら、確か無料ではなかったですかね」だと。ここにも別の意味での「親ん子」がいた。

 ところで、一連のハシカ報道で、ある出来事を思い出した。今ではすっかり恰幅が良くなった某市の市長さんが、受験の折、筆者の下宿先で「風疹」にかかった話だ。

 四畳半一間のせんべい布団の中で、顔を発疹だらけにして唸っている様子は、ご本人には誠に気の毒ではあったが、どこかユーモラスでさえあった。

 たまたま居合わせた高校の後輩の見立てもばっちりで、近くの「小児科」に連れていったら、確かに「風疹」だった。ただ、長引きはせず、数日で完治してメデタシ、メデタシ。

 ところが、因果は巡るもので、数年後には筆者が、その将来の市長様の下宿先で「おたふく風邪」にかかってしまった。

 間が悪いことに、そんな時に限って、ワクワクするような誘いの話が飛び込んでくるものだ。当時の遊び仲間は5人ほどいたが、金持ちのボンボンの奢りでこれから「六本木」に繰り出す、という。

 以前、病人を笑いものにしたツケが回ってきた格好だ。今でも彼らが「あー楽しかった!!」と、これ見よがしに枕元で吹聴していた店の名前を覚えている。間違いない「五つの銅貨」だった。

 だが、幸いと言うべきか、筆者の場合、「大人になっておたふく風邪に罹ると、子どもができなくなる」との〃俗説〃は当たらなくて済んだ。出来は別にして、3人の子宝に恵まれたのだから。

 まあ、ハシカはともかくとして、世の中には時おり厄介な「カゼ」が大流行するものだ。島原市内は現在、その「注意報」が出されている。

 その名は「議員カゼ」。特徴は、当選の報を境に、突然猛威をふるい出す。症状は様々だが、患者によっては、物言いや態度などが選挙期間中とガラリ変わってしまう。

 これまでのところ「特効薬」は開発されていないようだが、「センセイ」と下手に出れば、少しは「鎮静効果」があるらしい。

 23名の予備群のうち、果たして今回は何名が罹患されるのだろうか!?


2007/05/26

ハンカチとハニカミ - 昔もいた追っかけオバさん -

 昨夏は野球の「ハンカチ王子」で大騒ぎしたかと思っていたら、今度はゴルフの「ハニカミ王子」だと。それにしてもこの二人、顔つきが似ていないか!?

 西洋は「罪」の文化、そして日本は「恥」の文化だと良く言われるが、「ハニカミ」の語源は「恥ずかしがる」だ。

 二人に共通して言えるのは、おとなしそうな日本的顔立ち(しょうゆ顔)の美男子だ。追っかけのオバさんが登場しているところもそっくりだ。

 ハンカチ君が進学したワセダの関係者によれば、今年の同学のキャッチフレーズは「愛(福原)と勇気(佑樹)の早稲田大学」だそうだ。

 それにしても入学初年度から大した活躍ぶりで、神宮の森を満員にするなど人気も申し分なし。今から早慶戦が楽しみだ。

 筆者が学生当時の神宮のスターは何と言っても「怪物君」こと、法政の江川卓投手だった。作新学院時代にドラフト会議で阪急ブレーブス(当時)に1位指名を受けながら、慶応進学を志して、入団拒否。

 しかしながら、慶応はその年の「甲子園組」をことごとく袖にして「陸の王者」のプライドを保った。余談だが、本来であれば、スポーツ推薦枠で入れたはずの他競技の二次被害者も続出した同年であった。

 早稲田には、作新で江川とバッテリーを組んでいた小倉というキャッチャーがいたが、神宮の舞台では「役者」が違った。

 江川は小憎らしいまでに巧みなピッチングでバッターを翻弄。ここぞ!!という時には剛速球で三振に切って取った。

 専門家に言わせると、江川は六大学で「手抜き」を覚えてしまったので、プロ野球で大成しなかった。高校から阪急に入っていれば金田正一の記録(400勝)を塗り替えていたかもしれない、と。

 ホンネを言えば、江川も「慶早戦」(慶応側はこう呼ぶ)で投げたかったはずだ。早慶戦はとにかく独特の雰囲気だ。

 応援席は早稲田が一塁側、慶応が三塁側と決まっていて、七回には校歌と、応援歌の斉唱とエールの交歓が行われる。

 キャラクターは早稲田が「フクちゃん」で、慶応はミッキーマウス。スクールカラーは「エンジ」と「ブルー、レッド&ブルー」。どう見ても、慶応の応援席がアカ抜けていた。

 早稲田の応援戦術に「煙幕作戦」というのがあって、全員でタバコを吸ってリーダーの指示で一斉にプー。今にして思うに、何とも愚かしい集団行動だ。

 しかしながら、早慶戦最大の楽しみは試合後の打ち上げにあった。早稲田の場合、新宿に繰り出せば、「先輩」と称する人々が誰彼なく奢ってくれた。

 筆者も、徳間書店常務夫人という妙齢の方からご馳走になったことを覚えている。追っかけのオバさんは昔からいた。


2007/05/25

我々は皆「親の子」 - 相手のことを忖度しよう!! -

 一番「処置」に困るのは、頭の悪い「自信家」である。筆者もその部類に入るのかも知れないが、回りにはもっともっとヒドイのがいる。

 人間の頭の良し悪しは別段、学校の成績なんかで決まるものではない。要は相手の立場、心境を慮る「想像力」と言い換えても差し支えないだろう。

 難しい漢字の読みだが、「忖度」(そんたく)という言葉がある。広辞苑で引くと「他人の心中をおしはかること」とある。

 もっと言い換えるなら「思いやり」だろうか。それは人間関係の緩衝材であり、観光地でやたらと使われたがる「おもてなし」の精神にも通じる。

 果たして、職場や環境等が異なる中で、しっかりと「思いやり」の精神が発揮されているかどうか、それぞれ冷静になって問い直す必要があろう。

 本人からすれば、何げない発言が、時として許し難き「暴言」として受け止められることも。つまりは「お前さんにシタリ顔して、そこまで言われる謂れはないよ!!」と。

 自分は「安全圏」に身を置きながら、賢しげに「批判」ばかりする輩も何と多いことか。他人のことを批判するくらいなら、リスクを背負って、自分で実際にやってみたらいい。

 人間は一定の「地位」や「名誉」(のようなもの)を手に入れたら、自分独りの力で為しえたもの、とよく勘違いする。そして愚かにも、自らの非を省みることもなく、自信満々で的外れな発言をする。

 実るほど頭を垂れる稲穂かな - 。本当に賢い人は、どんなに偉くなっても、世間から一定評価を得ようとも、どこか一歩引いた言動に終始するものだ。

   ※    ※   

 「親ん子」。島原青果卸販売(株)の加藤辰彦社長の口癖だ。「親思う 心に勝る 親心 - 」と、吉田松陰は親子の情愛の差異を詠んだ。

 切り口は異なるが、武田鉄矢の母の台詞も泣かせる。「他人様の事を指差して、嘲笑したりなんかするな。人差し指以外の指はみんな自分を指している」。

 でも、本当に楽しい「笑い」なら話は別だ。その効用は医学的にも実証されているそうだ。

 ところが、最近は洒落にもならないというか、笑えない話が多過ぎる。子どもが母親を殺し、切り取った頭部を持ち運ぶ。恐ろしい限りだ。

 10年ほど前、世間を震撼させた神戸の「酒鬼薔薇聖斗」事件の犯人は、成人して社会復帰を果たしている、という。

 被害当事者にとっては、どんなに時間が経とうとも、割り切れない思いで一杯だろう。それでも何の手出しもできないし、かといって毎日悲嘆にくれて生活していくわけにもいくまい。たまには「笑う」こともあるだろう。

 このような、やるせない思いを救えるのは、お釈迦様だろうか、キリスト様だろうか…。


2007/05/23

危機を救った「共同意識」 - 山口・見島のダイナミズム -

 以前、本欄でも取り上げたことのある民俗学者、宮本常一の「生誕百年フォーラム」が27日午後1時から、福岡市天神のアクロス福岡で開かれる。

 副題は、旅する巨人の「地育」「住育」「食育」メッセージ。主催は、宮本常一を語る会(長岡秀世代表世話人)。日本民家再生リサイクル協会九州沖縄地区委員会などが後援する。

 参加費は2,000円(資料・会報代含む)。25日までに、ハガキ、FAX等で申し込むこと。

 「自治体破たん」と言うと、最近では北海道の夕張市が引き合いに出されるが、作家の佐野眞一氏が著した『宮本常一が見た日本』(NHK出版)という本では、「孤島のダイナミズム」というタイトルで、山口県の見島が取り上げられている。

 それによると、見島は萩市の北西約45キロに位置する日本海の孤島。周囲17.5キロ、面積7.8平方キロ。

 宮本は山口大学の教授や学生らとともに、昭和35年から37年にかけて、計3回にわたって調査を実施。肩書きは〃無給〃の全国離島振興協議会の事務局長だった。

 宮本らの調査によれば、この島は明治7年から明治16年にかけて〃共同負債〃のカタにとられ、一時期、島外の人手に渡っていた。

 直接の原因は旱魃や風水害などの自然災害で、最初は島全体の田地を担保に、第百拾国立銀行から2万円を借りる(明治18年)が、その後も凶作が続いて返せない。

 強硬に返済を迫る銀行に対して、島民は萩の大金持ちに2万6千円余で売り渡し、10年の年賦償還で買い戻すという計画を立てたが、それも失敗。

 さらに凶作が続いたため、今度は津和野の鉱山主に3万5千円の借金を申し込み、とりあえず従前の借財を精算した。いわゆる〃負のスパイラル〃状態が続いていたわけだ。

 この財政危機を救ったのが、山口県から派遣された厚東毅一(ことう・きいち)という書記官だった。厚東は明治32年、島民一人ひとりに「共同一致の精神による徹底倹約の必要性」を説いた。

 その条文には「法事の酒」「盆踊り」「結婚と年始以外の絹布の着用」「住宅の新築」「旅行」を禁止するなど、生活全般にわたって「贅」を戒めた内容だった。

 その甲斐あって「共同負債」が完済されたのは明治45年のこと。実に当初から27年の歳月が流れ、返済総額は12万7千円にものぼっていた。

 ちなみに、現在の貨幣価値に換算すると、50数億円。同島の人口が約1千300人であるというから、単純に比較はできないものの、夕張市はまだマシな方かも知れない。

 これを象徴的な「他山の石」とすれば、全国いずれの自治体とも「共同意識」が足りている、とは言えないだろう。


2007/05/21

「臭い」は文化である!! - デパート1階は都会の香り -

 今朝、出がけにまた「臭い」と言われた。家人に加えて息子たちにまで。朝からシャワーも浴びて、歯も磨いているのに。腑に落ちない仕打ちだ。

 どうやら、ヘアトニックが〃不興〃の原因のようだ。でも、どうして?ビンには「微香性」と謳ってあるぞ!!

 昔からデパート1階売場の香りが好きだった。最近は余りそう思わなくなったが、キレイなお姉さんがいて、「都会にやって来たんだぁー」という感慨にふけったもんだ。

 学校保健室のクレゾール石鹸、病院、町の洋服屋さん、新車、田舎の汲み取り式トイレ…それぞれに独特の「臭い」「香り」がある。「不倫」ではなく「臭い」(香り)は間違いなく文化である。

 同じ東南アジアでも、シンガポールのチャンギーと、バンコクのドン・ムアンとでは大違いであった(最近は行っていないので良く分からないが…)。

 「香水」発祥の地は恐らくフランスだろうが、もともとは長いあいだ風呂に入らなかった王妃・貴族たちが、「自らの体臭を消すために」使ったものだ、との説は余りにも有名だ。

 旅行会社にいた頃の海外旅行の土産と言えば、香水、酒(ブランデー・ウイスキー)、タバコとだいたい相場が決まっていた。

 今では免税ラインがどの程度か知らないが、以前は「成人一人につき、酒3本、タバコ2カートン」までと決められていて、互いに役割分担をして持ち込んだものだ。

 「香水」の調達も、余り海外出張を好まない国内派の先輩社員や、取引先の社長さんなどから良く頼まれた。当時はシャネルの5番と19番が定番で、前者が妙齢向き、後者が若者向きと言われていた。

 その当時は、もちろん国際線の機内も「喫煙OK」だった。離陸してしばらくすると、団体席後部のトイレの前には、愛煙家が列をなした。

 今にして思うと、スチュワーデス(今はキャビン・アテンダントという)の皆さんには迷惑千万な話だっただろうが、当時は嫌な顔一つされなかった。

 ところが、最近では国内線はおろか鉄道、バスなど全ての公共交通機関で「禁煙」である。東京・千代田区や博多駅前では、屋外ですら指定の場所以外では吸えない。

 タバコやペットなどの臭いを消すことを喧伝したスプレー方式の消臭剤、腋下のバン(!?)…何でもかんでも「無臭」であれば良いのか?

 熊本の鶴屋デパートには、銀座・鳩首堂の「お香」が置いてある。もう何年も前に一箱買っていたものがまだ残っていたので、久々に焚いてみた。

 いい香りだ。落ち着く。それにしても、50歳も過ぎたと言うのに、どうしてこうも〃存在感〃が薄いのだろうか?ホンニワタシハ「ヘ」ノヨウナ…。


2007/05/20

市長敗れてなお市議へ - 鈴木東民をご存知ですか? -

 岩手県釜石市。全日本ラグビー選手権で7連覇を果たした、新日鐵釜石チームの本拠地があった地方都市として知られているが、かつて「鈴木東民」という名物市長がいたことをご存知だろうか。

 筆者が「東民」市長のことを知ったのは、普賢岳の噴火災害でも精力的に取材・執筆活動を展開していた、ルポライターの鎌田慧さんの著書『反骨 - 鈴木東民の生涯』(講談社)に出合った、のがきっかけだ。

 「東民」の名を一躍有名ならしめたものは、第二次世界大戦後の「読売争議」(45年)の委員長としての采配ぶりだが、その思想・生き様は常人の予想を遥かに超える、まさに〃疾風怒濤〃の生涯だった。

 詳しくは是非とも同書を読んでいただきたいが、もともと「東民」は県議を務めていた裕福な医師を父に持つ、今で言う〃お坊ちゃま君〃だった。

 東北中学を経て、旧制二高に学んだが、幾年かの浪人、留年を経て、25歳で東京大学に入る。人生の舵が大きく切られるのは「大逆事件」(10年)に遭遇してから、だという。

 卒業後は朝日新聞の記者、日本電報通信(電通)の研究員として渡独(26年)。そこでナチス・ヒトラーの「国会議事堂放火事件」(33年)の〃陰謀〃を指弾したことで、ドイツ人の夫人とともに追放処分に。

 帰国後も、左翼系新聞等で〃反ナチ〃の論陣を張っていたが、どういう経緯からか、当時の軍部や警察機構とも関係の深かった読売新聞の外報部次長に就任する。

 「読売争議」以降の経過については書き込む紙幅もないので端折らせてもらうが、共産党入党・脱党を経て、55年には反保守&反組合の〃革新無所属〃候補として釜石市長で初当選。3期連続当選を果たすが、4期目に組合&企業推薦候補に敗れる。

 本のタイトルともなった反骨精神の〃真骨頂〃は、むしろ一敗地にまみれた同市長選の4カ月後に行われた市議選で如実に発揮され、見事トップ当選を果たす。しかしながら、2期目は落選の憂き目に。

 筆者が釜石を訪ねたのは今から10年近く前。すでに高炉の火は消え、人口は最盛期の半分程度に落ち込んでいたが、「東民さん」の人気はいまだに根強く、バラック飲み屋街の女将さんがその人柄を偲んでいたのが印象的だった。

 なお、鎌田さんはこの作品で「新田次郎賞」を受賞。新田さんの息子、藤原正彦さん(『国家の品格』の著者)によれば、新田さんは戦後、朝鮮半島から引き揚げて来る際に、「部下を残して自分だけ先に帰るわけにはいかない」と、最後まで現地に留まっていた、という。

 市議選を前にして、各候補者の出馬の動機(本心)を、改めて問い直したい一心で、駄文をしたためた次第である。ご寛恕を。


2007/05/19

アイデアを実践せよ!! - 火山都市国際会議まで半年 -

 『アエラ』(5月14日号)に、《新長崎市長に負けない公務員・あなたの街にも「田上さん」はいる》という特集が組まれていた。

 それによると、長崎観光名所の一つ「グラバー園」の開園時間を、午後6時から同9時半まで延長するよう提案したのは、同市観光課職員当時の田上富久市長(50)だった、という(93年)。

 約1千万人の観光客を集めた「長崎さるく博」の〃仕掛け人〃として有名になる、ずっと以前の〃功績〃の一つだろう。

 記事では、自動車税のコンビニ支払を実現した佐賀県の大野伸寛さん(39)、杉並区役所産業経済課「アニメ係長」の本島健治さん(49)らの活躍ぶりも紹介されている。

 読んでみると、確かにいずれも「目の付け所がシャープ」で素晴らしいが、さらに賞賛すべきは、その〃実践力〃だ。

 誰だって思うだろう、「そんな事ぐらい自分だって気付いていた。ただ、黙っていただけさ」と。でも、その差が大きいのである。

 言い古されているが、物事は見方によって大きく異なる。コップに半分の水が入っているのを見て「半分しかない」と焦る輩もいれば、「まだ半分もある」といった余裕派も。

 意識して見るか、見ないかの違いも大きい。漫然と眺めていたら、ついつい見過ごしてしまうことに大きな問題点が潜んでいたりすることも多い。

 GW期間中に起きたジェット・コースターの人身事故も例外ではない。安全管理の担当者がもっと真剣に、もっと注意深く、車軸等の点検をしていたら、あのような惨劇は起こらなかっただろうに…。

 道を歩いていてもそうだ。どこかに美人のお姉さんがいないかなどとキョロキョロしていたら、タバコの吸殻の散乱に気付くこともあるまい。

 時々、朝から事務所前の音無川沿いの市道や側溝に落ちている吸殻を拾って歩くが、毎回その数は50本を下らない。中にはベッチョリと赤い口紅が付いているのもある。

 時に、アジアで初めての「第5回火山都市国際会議」まであとちょうど半年。関係者の襟元には誘致バッジが輝き、タペストリーも随所に登場して〃本番間近〃といった雰囲気だ。

 「おもてなし」を合言葉に、英会話の講座も頻繁に開かれているようだ。筆者もホスト庶民の一人として、島原本来の「水と緑」の美しい環境で迎えられるよう頑張ろう。

 それから、これは真偽のほどは定かでないが、今人気の「くりぃむしちゅー」(熊本済々黌高校出身)の最初の芸名は「雲仙岳&普賢岳」とか聞いた覚えがある。

 もしホントなら、人集めには格好の存在では!?でも、単なる〃思いつき野郎〃の繰り言ですから、気になさらずに。


2007/05/18

我が家は治外法権!? - 選挙にまつわる素朴な疑問 -

 島原市内では今、何と言っても市議選の話題が筆頭である。これまでのところ、定数23に対して現職22、新人9の計31名が出馬表明。いずれにしても、近年にない〃激戦〃だ。

 ふと、4年前のことを思い出した。さる筋から無理やり押し付けられた「サッカー企画」のことだ。

 ご記憶の方も多いと思うが、漫画家の望月三起也監督率いる芸能人チーム「ザ・ミイラ」と、その年の冬の選手権で全国制覇を果たした「国見高チーム」(OB混成)が対決した、あの試合だ。

 たまたま自宅に置いてあったアルバムをめくっているうちに、その時のスナップに出くわした。

 観客はオープン以来最高という約2千人を集めたが、その大半は二枚目俳優の椎名桔平と、国見高エース、平山相太選手がお目当てだった。

 今でも鮮明に思い浮かべる光景。観客の声援を遠まきにしながら、遊説カーが、試合会場の市営グラウンド周辺をゆっくりと回っていた。あれから4年の歳月が流れるのか…。

 写真を見ると、今ほどメタボではない自分がそこにいる。白髪もまださほど目立っていない。写真は正直だ。その時切り取った〃現実〃を伝えている。

 ところで、政治家の皆さんは総じて若い頃の顔写真を使いたがる。厳密に言うと、それは倫理的な意味では、ルール違反だ。

 なぜなら、有権者に対する、罪の意識のない「ゴマカシ」だからだ。大切な免許証やパスポートの写真は「最近3カ月以内」というのが原則だ。

 だとすれば、議員と言う「公人」の資格が問われる選挙において、実物より若く見せようとする〃魂胆〃は如何なものか。いっそのこと文字だけの方がスッキリして良い。

 時に、何カ月か前の一般質問でくすぶりかけた「一部議員による税の滞納問題」はどうなったのだろうか。選管は、届出にあたって「納税証明」を義務付けていないのだろうか。素朴な疑問だ。

 今回の選挙戦には、年齢の近い旧知の人たちが何人も立候補する。恐らく皆さん「島原を何とかせんといかん!!」との熱き思い断ち難く、出馬に踏み切られたものだろう。

 「その志やヨシ!!」である。立候補(被選挙権)は、日本国憲法が定めた国民の権利の一つ。「我こそは島原市の救世主!!」と思われん方は、ぎりぎり間に合いますぞ!!

 一方、国会では憲法改正論議が大きな話題となったが、与党の賛成多数で法案は成立した。わずか数日前の出来事だ。しかしながら、我が家はどうやら、〃治外法権〃の家らしい。

 酔っ払って帰宅した際に「オイも(選挙に)出ようかなあ…」と呟いたら、家人とその母が「出てヨカよ。でも、そん前に家から出て行ってくれんね」と。見事なハーモニーだった。


2007/05/16

韋駄天だった隆平先生 - 対抗リレーは人生の縮図だ -

 13日の日曜日は三男が通う島原一中の体育祭だった。この日は他校でも開催されていたから、家族団らんを楽しまれた方も多いと思う。

 前夜の雨でグラウンドには適度に湿気があって、観戦する側もホコリを被ることもなく、最高のコンディションであった。

 競技の花形は何と言ってもクラス全員で走る「対抗リレー」だ。最初のうちトップで走っていたチームが追いつかれたり、転んだりと、何かしら人生の縮図のようでもある。

 勉強では余りパッとしない劣等生が〃脚光〃を浴びる檜舞台でもあるし、「先頭で来なければいいのに…」とバトンを受け取る前から、不安ばかりが先立つ鈍足君もいる。

 昼食後に行われる「応援合戦」も見所の一つだが、どうして男の子が女の子のスカートを穿いたり、女の子が学生服を着たりする必然性があるのか。恐らく、思春期独特のうっ屈した思いの発露だろうが…。

 まあ、そうした仮装趣向は、せいぜい体育祭くらいまでで留めておいてほしい。くれぐれもクセになったりなんかしないように!!

 「待ってた、待ってた運動会。ワーイ、ワーイ赤(白)組だ。駆けっこだって負けないぞ。フレッ、フレッ、フレー」--。

 子どもが幼稚園に通っていた頃に、良く耳にした歌のフレーズだ。さすがに中学校では聞けなかったが、成長した三男の姿を遠めに見ながら、我が人生の〃来し方〃を振り返った。

 昔は「ハダシ足袋」が運動会の定番だった。ちょうど和装の白足袋のような形をしていた。確か、一足80円くらいではなかったか(昭和30年代)。

 その「ハダシ足袋」を履くと、何かしら走るのが速くなったような気がしたが、本番での番狂わせは余りなかった。ただ、運動会は、田舎ほど賑わっていたように思う。

 そう、運動会は地域の一大イベントだったのだ。テント中央の来賓席には校長先生の隣にヒゲをはやした議員先生が並び、顔役の子弟や孫子らが鼓笛隊を先導して始まった。

 そう言えば、「鼓笛隊の笛」という自虐的な表現で、ガキの頃に思いを馳せる輩も多い。

 つまりは、隊列後部の内側に位置すれば、きちんと演奏ができなくても、先生や観客にバレることはない…」という劣等生なりの知恵であった。

 一方で〃スター〃も登場した。地区対抗リレーのアンカー役を務める〃韋駄天〃の存在だ。一人抜き、二人抜き、ゴール直前でトップに躍り出る!!

 これは2年ほど前、森岡百三郎さんから聞いた話。「中村隆平先生(医師会名誉会長)は若い頃、とにかく俊足で、運動会荒らしとして有名だった」とか。

 こんな事を書くと「余計な事を!!」と〃大目玉〃を喰らうかも!?


2007/05/15

「市民」より「庶民」だ - 合併後初の市会議員選挙は -

 誤解を恐れずにではなく、恐れつつ述べるが、「市民」という言葉の響きが嫌いである。

 個人的な好みでいけば「市民」より「庶民」である。こっちの方が、あっさりしていて、人間味がありそう。

 《そんなこと言っても、国の民は国民で、県の民は県民、そして市の民は市民じゃないか。もっと言うなら、町の民は町民で、村の民は村民だ。戯(たわ)けたことぬかすな!!》

 なぁーんて、お叱りを受けてしまいそうだが、「市民」という表現には、何となく「イデオロギー」の香りが付きまとう。

 その点「庶民」は気さくでいい。ステテコを穿いたオッサンやアッパッパを着たオバハンの雰囲気だ。男の子の頭髪は坊主で、女の子はおかっぱ頭…とか。

 別段、江戸時代の長屋文化や映画『三丁目の夕日』の世界を懐かしんでいるわけではないが、新たに出現した「格差社会」を生き抜いていくには、「庶民の知恵」こそが大切なのではないか。

 「庶」という漢字本来の意味を『字通』(白川静)で調べてみると、「同じ厨房で煮炊きをすること」などとある。関連語句として、「庶人」(しょじん)と「庶民」に挟まれて、「庶政」(しょせい)という言葉も見つかった。

 そのまま転用する。【多くの政務。[国語、魯語下]卿大夫は、朝(あした)には其の職を考へ、畫(昼)には其の庶政を講じ、夕には其の業を序し、夜には其の家事を庀(をさ)む。】

 さて、合併後初の島原市議選の告示日が迫ってきた(20日)。これまでも何度か本欄で取り上げたが、もはや選挙戦は〃終盤〃の様相である。

 現時点で予想される顔ぶれは、定数23に対して31名。内訳は現職23名、新人8名。本日飛び込んだ情報では、さらに新人1名が加わった。

 定数1を争う市長選や同2の県議選と違って、市議選には独特の「選択の難しさ」がある。率直に言って、できれば落選してほしい人もいれば、あの人も、この人も…と、是非ともガンバって頂きたい方もいる。

 いっそのこと「単一記名方式」でなく、複数の「連名方式」とか、この候補者はダメだという「排除方式」が取れないものか、などとバカげたことすら考えてしまう。

 毎度のことだが、選挙はとっても大事だ。まかり間違えば、向こう4年の間に市政は間違った方向に進んでしまうかも知れない。慎重が上にも慎重を期して投票する必要がある。

最後に、どうしても申し添えたいことがある。「恒心なきところに恒産なし」だ。そのフィルタを通して候補者の履歴、訴え等を注視すれば、自ずとその〃正体〃は判る。

くどいようだが、綺麗ごとの「市民感覚」なんかより、大切なのはごった煮の「庶民感覚」である。


2007/05/13

またまた犯した勘違い - 伊万里の陶器市は4月と11月 -

 出張先の佐賀県伊万里市で「実は今日、伊万里の陶器市をGW期間中と書いてきたけど、あれは有田の誤りだったなあ…」と、陶器に詳しい同僚に尋ねたら、「間違っていますね。伊万里は4月と11月です」とバッサリ切られた。

 氏は毎年のように陶器市に通っているから彼の地の事情に詳しい。「伊万里は昔、有田で焼かれた陶器類の輸出港として栄えていました。なので、欧州では有田焼を総称して『イマリ』と呼ぶんですよ」と。

 でも、昔から言うではないか、「生あるものは死す、形あるものは崩る」と。人間は誰だって間違いを犯す動物だよ、K君。

 伊万里はとっても素晴らしい所だった。山があって、川が流れて、何より街全体が落ち着いていた。「伊万里牛」をはじめ食べ物も美味しかった。

 島原市よりちょっと大きめの典型的な地方の小都市だが、敢えて周辺の市町村と合併しなかったのは、何か特別な理由でもあるのだろうか。

 時間的な制約で、丼も買えず、世界のクロサワ記念館にも行けなかったのは残念だが、次の楽しみに取っておこう。

 話は相前後するが、西九州自動車道の波佐見有田ICを降りた辺りで、原稿の間違いにハタと気付いていたのだが、同時に昔の事を思い出していた。

 最近は年をとったせいか、以前にもまして昔の出来事が頭をよぎるようになった。窯元が建ち並ぶ通りを横目に見ながら「森酒造」という名前が浮かんだ。

 その跡取り息子と一緒に「サンデー毎日」でアルバイトをしていたことがある。仕事の内容は東大をはじめ全国の難関大学にどこの高校から何人合格したかを調べる作業だった。

 ハサミで切り離した付箋のような細かな紙の帯を、学校別に一枚一枚ノリ付けしていく〃根気〃のいる労働で、時給は確か600円だった。

 実は、その当時から矛盾している、と思っていたことがある。マスコミは日頃は受験教育の行き過ぎを批判しておきながら、一方ではシーズンになると「売らんかな!!」の姿勢で特集号を出す。

 その経営方針は未だに変わっていないようで、昔からある新聞社系の週刊誌は、性懲りもなくそうしたマンネリ企画を続けているようだ。もっとも最近はパソコンの登場で、以前と比べると、格段に簡単にはなっただろうが…。

 跡取り息子は2学年ほど年上の日大生で「このバイトが終わると、佐賀(西有田)に帰らんば…」と、下宿の窓に腰掛けて「東京」というフォークソングを、ギターを爪弾きながら寂しそうに歌っていた。

 彼はバイト仲間の昭和女子大のメグミちゃんが大好きだったが、なかなか言い出せないでいた。今にして思うと、あれは「葉隠れ」の精神だったのだろうか!?


2007/05/11

年々歳々花相似たり… - 森川助役さんのご冥福を祈る -

 CATV業界の会合があって、これから佐賀県伊万里市へ向かう。伊万里と言えば、毎年ゴールデンウイーク期間中に開かれる「陶器市」が有名だが、残念ながら、まだ行ったことはない。

 今回は宿泊を伴うので、時間があればウドン用の大丼でも買ってこようかと思っているが、「また余計な買い物を!!」と、同時に家人の怒りも買ってしまうのは必至か。

 島原新聞の創始者、清水繁三氏は、現社長の祖父に当たる人だが、東京専門学校(後の早稲田大学)を卒業の後、伊万里の裁判所に勤務していた、という。

 どういう経緯でこの地に新聞社を興したのか知る由もないが、佐賀出身の大隈重信候の教えに、少なからぬ影響を受けたことだけは間違いない。

 大隈候と言えば、外務大臣だった明治22年当事、国家主義者(玄洋社)による襲撃(爆弾)を受け、右脚を失ってしまう。

 「人生125年」説が持論で、生前は「人間はきちんと暮らせば、125歳まで生きられる」と吹聴していた、という。

ことしは同候ゆかりの早稲田大学が創立125年目を迎え、10月21日には、盛大に記念式典が開催されることになっている。

  ※    ※  
 
 長崎市五島町の一角に「到遠館」(ちえんかん)という石碑が建っている。地主は同じく佐賀県の宮島醤油。

 大隈さんは若い頃、その地で「英語塾」を開校。したがって「早稲田大学の本籍地は長崎だ」と言っても決して過言ではない。

 そうした縁もあってか、ことし2月には同校OBが「到遠館」に集まって気勢をあげた。

 次に立山の歴史文化博物館に会場を移動。長崎-東京間1250キロをリレー方式でつなぐ「ウオークラリー」の出発式が賑やかに挙行された。

 長崎南高校吹奏楽部による「都の西北」の演奏の後、座付きの劇団員が寸劇を披露。続いて、大隈候役の役者から伊藤一長市長(当時)に「通行手形」が手渡され、足掛け2カ月半にわたる強行軍がスタートしたわけだ。

 予定ではきょう5月12日に大隈講堂に到着することになっているが、それより何より、伊藤市長がそのわずか2カ月後に〃凶弾〃に倒れようとは一体誰が予測したろう。

 「年々歳々 花相似たり 歳々年々 人同じからず」。人生とはつくづく儚いものだ。

 鐘ヶ江管一市長と二人三脚で島原市勢の発展に寄与し、続く吉岡庭二郎市長の誕生にも尽力した森川末承元助役が9日、亡くなった。享年81歳。

 森川さんからは長男誕生を祝って木馬の玩具をいただいた。その長男もはや大学生。廊下の片隅で薄っすらと埃を被っている木馬を眺めつつ、ご冥福を祈っている。


2007/05/10

名前、顔、そして存在感 - 熊谷さん「日展会員」に推挙 -

 7日、フランスの新大統領に、右派のサルコジ氏(52)が左派のロワイヤル女史(53)を大差で破って当選した。

 遠いヨーロッパ社会の出来事だから、大して関係ないことと言えないこともないが、昨今は世界も段々と狭まってきているので、その動向には気を付けた方が賢明だろう。

 選挙報道に触れるたびに、近頃とみに感じるのは政治家の「名前」「顔」「存在感」の重要性だ。

 テレビや新聞で見るサルコジ氏の表情は、過度のダイエットでくたびれ果てたロッキー(シルベスタ・スタローン)のようでもあるし、その名前は「猿の腰掛」をモジれば覚えやすくもある。

 一方のロワイヤル氏。英語読みすれば、「ロイヤル」であろうから、こちらも分かりやすい。だが、もっと分かりやすいのは、米大統領のジョージ・ブッシュ氏だろう。

 もっとも、肝心のイラク政策はまったく功を奏さず、未だに「藪の中」。不支持率を示す米国民の棒グラフだけは、時節の筍のようにニョキニョキと伸びてきているようだ。

 日本国総理「アベさん」も覚えやすい名前だが、顔やスタイルはともかくとして、存在感(指導力)はどうだろう?

 まったく余計なお世話だが、最近感じるのは、ファースト・レディ「アッキー」こと昭恵夫人が、麻生太郎外務大臣とウリ二つに見えて仕方がない。

 まあ、政治家の話はこの辺でとめおくとして、島原市出身の洋画家、熊谷有展さん(40)がこのほど、日展の会員に推挙された。絵画部門では、長崎県初ということだから、誠にめでたい限りだ。

 少しさかのぼるが、「こどもの日」の5日には、地元の美術関係者など約30人が、新町の「すし&ダイニング・和」に集まってお祝いの宴が催された。

 発起人の松崎善行さん(一中教諭)をはじめ、県美術協会名誉会長の西本親雄さん、島原半島美術振興会長の佐藤利宗さんらが次々とマイクを執り、その眩いばかりの前途を祝福した。

 これらに対して、熊谷さんは感無量の表情を浮かべ「我以外、皆我が師」との吉川英治の言葉を引きながら、「上手いと言われるよりも、観た人すべてに感動を与えられるような作品を描いていきたい」と力強く抱負を語った。

 小学生当時から、岩村俊夫さん(故人)や江川好光さんらの〃薫陶〃を受け、メキメキと才能を伸し続けてきた熊谷さん。

 最近は絵の才能ばかりでなく、同時に肉体の方も伸ばし続け、「美丈夫」の世界を遥かに通り越して「偉丈夫」の貫禄が付いてきた。

 「名前」「顔」「存在感」-。「アリちゃん」はどこまで大きくなっていくのだろう。


2007/05/09

こんな女に誰がした - 歌は世につれ、世は歌につれ -

 さて、110回目。今度は「一一〇番」の話かと想われる方もいらっしゃるかも知れないが、幸いにしてこれまで、その番号にお世話になったことはない。

 ただ「職務質問」を受けた経験は幾度かある。今でも憶えているのは、北九州の小倉駅。確かその時は、皇太子ご夫妻が沖縄を訪問されていた。

 恐らく、その風体に何かしら怪しげな雰囲気が漂っていたのだろう。思想的には全くのノンポリ。当時から単なる「ミーハー」に過ぎないのだが…。

 ところで「ミーハー」と言えば、青春の一時期、作家「五木寛之」的なものに憧れていた。長髪をなびかせ、思慮深げに遠くを見やる…。「自分もいずれ、あの雰囲気を醸し出したい」と願っていたが、今や対極路線をばく進中だ。

 その五木寛之氏の単行本と週刊新潮(GW特大号)を先般、同時に買い求めた。本の題名は『わが人生の歌がたり・昭和の哀歓』(角川書店)。元々はNHKの『月刊ラジオ深夜便』に連載されていたものだ。

 新潮の特集記事は「こんな女に誰がした」というタイトルで、世間を騒がせた各界の女性24人の〃波乱万丈〃のその後の人生を追っている。

 五木作品は昭和折々の〃流行歌〃の歌詞の内容を紹介しつつ、当時の世相を筆者の個人史と重ね合わせながら、味わい深く解説している-。

 今回、週刊誌のタイトルともなった「こんな女に誰がした」のフレーズは、五木氏が中学生だった戦後間もない頃に流行った『星の流れに』(清水みのる作詞、利根一郎作曲)という作品に織り込まれている。

 《星の流れに 身を占って 何処をねぐらの 今日の宿 荒む心で いるのじゃないが 泣けて涙も 枯れ果てた こんな女に誰がした》

 《煙草ふかして 口笛吹いて あてもない夜の さすらいに 人は見返る わが身は細る 町の灯影の侘しさよ こんな女に誰がした》


 本によると、歌のモデルとなったのは、旧満州の奉天から引き揚げてきた22歳の元看護婦さん。ある新聞記事が、生きるためにやむを得ず身を落としていく彼女の姿を取り上げたことがきっかけとなった。

 作詞、作曲家ともその記事に大変なショックを受け、義憤にかられて一気に作品化。五木氏は「菊池章子さんの歌いぶりは、なにか昂然と胸を張って北風に向かって立っているという感じです」との分析を添えている。

 言い古された言葉だが、まさに「歌は世につれ、世は歌につれ」だ。それぞれの人生の節々で、それぞれに忘れ難い歌がある。

 個人的にはフォーク世代だが、先日、居酒屋の「網元」で流れていた二葉百合子さんの歌声に体が震えた。こんな〃バカ息子〃に誰がした?「母の日」(13日)も近い。


2007/05/08

2億円稼いでいますか? - 「全力東急!!」の精神忘れず -

 今日で連載109回目を迎えた。「だからどうした」と言われればそれまでだが、「一〇九」は語呂合わせでいけば「東急」(とうきゅう)だ。

 極めて個人的な話だが、学校を卒業してからしばらくは、「健康&文化」を売り物とした東急グループの会社に在籍していた。

 同グループの本拠地は渋谷にある。デパートや映画館、ホテルなどが建ち並び、街並みはさながら「東急村」だ。実際に「文化村」も登場した。

 創業者は、西武グループの生みの親、堤康次郎と並び称された五島慶太。前者が「ピストル堤」、後者は「強盗慶太」と、共に余り有り難くない〃異名〃を冠されていた。

 両グループとも鉄道事業を核に、不動産、流通、観光…と次々と触手を伸ばし今日の基盤を築き上げていったが、最近はともに頭打ち傾向だ。

 グループ合同の入社式は渋谷公会堂で行われた。訓辞を垂れたのは、二代目社長の五島昇さん(故人)。後に日商会頭などを歴任。「財界団十郎」の異名を持つ男前でもあった。

 昇社長は居並ぶ数千人の新入社員を前にこう語りかけた。「会社が君たちに支払う生涯賃金は一人約2億円だ。ということは、それ以上の利益を上げて貰わないことには、経営は成り立っていかない」と。

 極めて直截な言い方で、ボンクラ頭でも理解できたような気がしたが、実践となると、なかなか難しいのは〃世の常〃だ。

 採用先は意に反して、縁もゆかりもない四国の徳島県だった。研修を終えて、新幹線を乗り継ぎ、宇高連絡船から眺めた夕焼けの色は今でも忘れられない。悔しくて、悲しかった。

 というのも、個人的には、駅前にその年オープンしたばかりのオシャレなファッションビルで働けるもの、とばかり思い込んでいたからだ。

 徳島の営業所は東京とは打って変わって、うらぶれた駅前商店街の一角に開設されていた。錆び付いたシャッターをやっとの思いで開けると、ソロバンを振り上げて喚いている、赤ら顔の初老の男がいた。所長だった。

 恐る恐る自己紹介すると、キッと睨みつけるような視線が飛んで来た。「学生運動の経験は。なにーっ、ノンポリか」。心底、大変な所に来てしまった…と悔やんだが、後の祭りだった。

 所長は能登半島の裕福な網元の家に生まれたが、家運が傾き大学を中退。組合運動の闘士としても有名で、「鬼の○○」として恐れられていた。嘘か本当か知らないが、女優の朝丘雪路の従弟とか言っていた。

 何だか、今日は「一〇九」回にちなんで、「自分史」のような書き方になってしまったが、今でも心に残っているキャッチ・コピーがある。

 「全力東急!!」。その精神だけは今でも受け継いでいるつもりだ。


2007/05/05

力さんの〃慧眼〃に敬服 - 江戸庶民の知恵「三ない主義」 -

 連載百回目を祝福するハガキを東京・町田市在住の洋画家、永田力さんからいただいた。

 もう20年も前になろうか、あるシンポジウムがあって、氏の講演を聴いた。その時は、日本各地の名城をまとめた某全国紙編さんの豪華本に、島原城が誤って記載されていることを激怒されていた。

 その後も幾度か面談しているが、「力さんは、ほとほと『慧眼』の持ち主である」と、最近つくづく感じるようになった。

 その一つが「江戸文化」の見直し。力さんは明治以降の藩閥政治の弊害を切り捨てる一方で、「循環型社会を世界に先駆けて完成させた」江戸当時の為政者の手腕を高く評価。

 綾小路きみまろではないが、あれから20年…。今や空前の「江戸ブーム」である。

 何週間か前の朝日新聞の『ニッポン人・脈・記』では、先年亡くなった漫画家で江戸文化の研究者だった、杉浦日向子(すぎうら・ひなこ)さんが残した次のような言葉が紹介されている-。

 「三百年の江戸の太平が都市部に暮らす長屋の住人にもたらしたライフスタイルは『三ない主義』といって、三つがない」。

 すなわち[1]モノをできるだけ持たない[2]出世しない[3]悩まない-と。

 ストレス菌が蔓延している今の世でも、十分に通じるこうした「江戸庶民の知恵」には、すっかり脱帽してしまう。

 力さんはこんなことも言っていた。「島原半島はサトウキビ栽培の北限に位置するから、もっと奨励すれば良いのに…」。

 果たして、時代はその通りとなった。サトウキビを原料とした「黒糖」は昨今の健康ブームに乗って貴重品となり、都会で飛ぶように売れている。

 しかも、法律上の規制(産地指定)があって、奄美群島でしか生産できないようになっている、というから、なおさら悔しいではないか。

 一度だけ力さんの自宅を訪ねたことがある。駅から少し離れた、閑静な住宅地の一角に建つ瀟洒な和風の家で、壁は白塗りの漆喰(しっくい)だった。

 「漆喰は湿気の多い日本の風土に適した素材」との説明を受けるまでなく、それは後に社会問題ともなった「シックハウス症候群」に対する無言のアンチテーゼでもあった。

 本稿は別段、永田力先生を持ち上げるコーナーではないが、事ほど左様に「時代の流れ」を言い当てられてしまうと、うすら寒い気すらする。

 環境問題をはじめ、時代はいま、大きく生まれ変わろうとしている。もっと言うなら、ホンモノしか生き残れない世の中になってきた。

 その兆候は分野を問わない。我々の業界もしかり、だ。ホンモノの「地域情報化」のあるべき姿を改めて考えている。


2007/05/02

笑門来福で行こう!! - 「のび太」より「阿藤海」似だ -

 ゴールデンウイークが始まった。今日&明日は狭間の仕事日で、2日間にわたる庭の草むしりで痛めた腰をさすりながらパソコンに向かっている。

 日本語で言う「黄金週間」の語源については、毎日新聞の日曜版(29日付・別刷り)に面白い解説記事が掲載されていた。

 それによると、映画界がその命名者で、異なる2社の配給元が同じタイトルの時代劇を同時上映し、互いに大当たりしたことに由来する、という。

 そう言えば、先日、所用で出かけた長崎駅前のアミュプラザでも、レストランの従業員が「映画のチケットの半券はお持ちですか?」と誰彼となく尋ねて回っていた。

 久しく映画館から遠のいているが、やはり腰を据えて鑑賞するスクリーンの味は格別だ。昨年は何十年かぶりに邦画の観客動員数が洋画のそれを上回ったという。望ましい傾向だと思う。

 ところで、この世の中はまさに「事実は小説より奇なり」である。伊藤一長前長崎市長の暗殺事件などはまさにその一例で、誰しも氏が四選を果たすもの、と想っていたはずだ。

 事件後、各紙とも検証記事を連載しているが、いずれも後で考えると「なるほど、そうだったの」と思わせる内容だ。

 30日付けの長崎新聞社会面によれば、激戦を制して勝ち上がった田上市長を脅迫する内容の電話が同市役所に相次いでいる、とのことだが、これは絶対にいけない。

 タナからボタモチ」式に市長に就任したことに対するヤッカミもあるだろうが、当選した以上は立派な市長である。理にかなった批判なら当然であるが、意趣返しのような真似はいけない。

 新市長にはそうした圧力には負けないで是非ガンバッテいただきたいが、個人的には顔の造作が余り好みではない。直接会ったことはないが、何となく頼りない感じがする。

 ニックネームはドラえもんの「のび太」ということだが、出馬表明からこの方、新聞等で拝見する表情はどう見ても俳優の「阿藤海」(あとう・かい)である。ナンダカナァー。

 昨年成功裡に終わり、二匹目のドジョウを狙う「長崎さるく博」を仕掛けたアイデアマンだから、相当な手練(てだれ)だろう。しかし、個人の嗜好だけは致し方がない。

 「男の顔は履歴書である」との余りにも有名なセリフがあるが、政治家における「顔」はさらに深い意味合いを持つ。

 それを知ってか知らずか、故竹下登元総理は毎朝、鏡に向かって「笑顔」を浮かべる練習を欠かさなかった、とか。

 何はともあれ「笑顔」は大事。政治家に限らず、「笑門来福」は一般人にとっても、忘れてはならない生活上の知恵である。