2006/10/28

普通のどこが悪いの? - 世間は成績だけでは渡れない -

 大木金太郎が26日亡くなった。プロレス全盛時代、「頭突き」を武器に、力道山やG馬場らとともに観客を沸かせた名物レスラーだった。

 つかこうへい原作の『熱海殺人事件』での犯人役は一字違いの「大山金太郎」。学生時代、池袋の舞台で演じたことがあるから、忘れない名前だ。

 ところで島原市内のイベントでは、ここ数年、「川田金太郎」という名前が一人歩きしているようだ。先の「しまばら温泉不知火まつり」の前夜祭でも、司会を務めていた。

 聞くところによれば、東京出身で10年ほど前から国見町在住とか。司会のほか、ラジオのパーソナリティー、作詞作曲と大層なマルチタレントぶりだが、率直に言って、印象は…。

 個人的な見解なので読み飛ばしていただいて結構なのだが、島原市内のイベントを地元在住の人間がこなせないというのも、寂しい限りだ。

 「苦手」ついでに話をすれば、タレントの磯野貴理子も〃お呼びでない〃人間の一人だ。時々、島田紳助が番組中でからかったりしているが、「芸人」でありながら「芸」がない。と言うより、やかましいだけで「味」がない。

 それでも、あーやってタレント生命を長らえているわけだから、相当要領が良いのだろう。まあ、どうでも良いことだが。

 そんなことより、富山県の高岡南高校に端を発して、進学校における社会科の履修問題がにわかにクローズアップされてきた。ざまぁー見ろ、だ。

 筆者が学んだ口加高校は一番偉いのが歴史のある「家政科」で、その下に「普通科」と「商業科」(今はない)がぶら下がっていた。

 昼のチャイムが鳴ると、土手を駆け下りて行っては、家庭科の皆様方がお作りなった「ご馳走」を頂戴していたものだ。一方、売店では商業科の綺麗所がパンや牛乳を売っていた。

 名物教諭に山崎松治さんがいた。日本史や倫理社会を教えていたが、現に教壇に立っている先生方も〃教え子〃なので、頭が上がらない人が多かった。

 東大から代議士となった久間章生さんを教えたのが誇りで、授業そっちのけで、その優秀ぶりを語って聞かせてくれた。また兄弟の名前を間違うのは日常茶飯事だった。

 三年生になっても日本史、倫社の授業は続き、天皇家を語る時には尊敬語。試験問題の選択肢は「い」「ろ」「は」「に」「ほ」「へ」と振ってあった。

 島原高校理数科の生徒が何かの席で「僕たちは普通じゃない!!」と胸を張ったとの話を聞いたが、普通でどこが悪いの?世間には頭の良い人は一杯いるし、成績だけでは渡れないのが「世の中なのよ」(上から読んでも下から読んでも同じ)。


2006/10/27

南向きに生きるって? - アコウは別名「絞め殺しの木」 -

 25日付の朝日新聞に面白い記事が出ていた。社会面の囲み記事で「壁に芽あり」「鹿児島・アコウの木に困惑」というもの。

 同県内を走る国道10号沿いのブロック壁に、アコウの木が張り付いて幹や枝を伸ばし、トラック等の通行に支障をきたしている、との報道だ。

 記事によれば、アコウはクワ科の常緑樹。土がなくても、気根という根で空気中の水分を吸い、高さ20メートル、直径2メートルにも育つ、という。

 島原半島でアコウの木と言えば、何と言っても早崎(口之津町)の漁港近くにある大木だろう。確か、南有馬・菖無田の沿道にもあったはずだ。

 本紙新年号で北村西望さんの後を継いで表紙絵を描いてもらっている、加津佐生まれの画家、永田力さんが以前からその魅力を語っていたが、新生・南島原市の「市の木」に選ばれたのは慶賀の至りだ。

 ただ、アコウの木は良いとしても「南向きに生きよう!」というキャッチコピーはどう考えても解せない。言葉遊びとしては面白いのだが、どういう意図なのか、今度松島市長に会った時にでも聞いてみたい。

 再び朝日の記事に戻る。アコウの別名は「絞め殺しの木」。ヤシ木などに絡んで枯らしてしまうこともあるというから驚きだ。除去されてもすぐに新芽を出す「ど根性」ぶりは、まさに進取の気性に富む〃南目〃向きと言えよう。

 ところで、同市の「市の花」に選ばれたのは「ひまわり」。漢字で「向日葵」。お天道様の動きに従って花の向きを変えるというのが通説だったが、どうやら最近はそうでもないらしい。有明町の畑に確認に行ったら、あっちこっちバラバラに咲いていた。

 「ひまわり」の花弁は弁護士バッジにも採用されている。「弁護士は『公平公正』を旨とする法の番人。弱い人間を守る正義の味方だ」と言ったら、「弁護士、必ずしもそうとは限りません。裁判は『証拠のゲーム』ですから」と即座に否定されたことを思い出した。

 まあ、そうした論議はさておくとして、「ひたむきに生きる」という表現はどこから来たのだろうかと思って、広辞苑で調べてみたら「直向き」(熱中、一途)と書いてあった。

 何の脈絡もないが、幕末期、天領だった豊後の「日田」に開設された「咸宜園」(広瀬淡窓)という私塾には島原藩からも幾多の〃俊英〃が派遣され、勉学に励んでいた。とすれば、当時の島原藩のキャッチは「日田向きに生きよう!」だったのだろうか。

 今の大分県知事の広瀬勝貞さん(元通産事務次官)は淡窓の末裔だが、さる筋の紹介で、筆者も年一回勉強会(天領・日田を語る会)に参加できる機会をいただいている。今年は出席できなかったが、お元気だろうか。


2006/10/26

どこまでも前向きに - 告白!!「ネルル」との出会い -

 小谷学・島原郵便局長と大の仲良しになった。名前は「マナブ」だが、ご本人も述懐なさっているように、どうやらその本質は「アソブ」のようである。

 坂上町の局社は当社(白土町)と目と鼻の先。古い表現で言えば〃指呼の間〃だ。先日、玄関先のインターホンが鳴った。経理の事務員が応対に出て「郵便局長がお見えになりました」と報告してきた。

 局長は悪ガキがそのまま大人になったような顔をしている。応接部屋でキョロキョロと辺りを窺って「ホントに良かとか?」と秘密めいた口調でおもむろに切り出した。思えば、これが「ネルル」との出会いのきっかっけだった。

 ネルル」は金髪で大きな黒い瞳をしている。いささか太目だが、ピンクの洋服が良く似合っている。時おり、意を決したように「好き、だぁーい好き。いっつも一緒」などと語りかけてくる。「渡鬼」の世の中で、何とも心癒されるひと時だ。

   ※    ※ 

 実は「ネルル」の正体は民営化が決まった「ゆうパック」(郵政公社)の人気商品だ。平たく言えば、おしゃべり人形。約1400語を操り、相棒には男の子仕立ての「ユメル」というのがいる。価格は送料込みで8600円。

 他愛のない「アソビ」と言えばそれまでだが、なぜこの種の玩具が売れるのだろうか?送ってきた人形ケースを見ると、淡いピンクの文字で「ヒーリング・パートナー」。

 なるほど - 。独り暮らしの老人や、引きこもりの若者らの「癒しの相方」として重宝がられているわけだ。残念ながら、対話はできないが、そのうちロボット技術の発展で、口やかましい女房以上の存在になっていくのは確実だ。

 1400の言葉の選定については、メーカーの開発者の話を聞かなければ分からないが、「ネルル」は決して愚痴めいたことを言わない。どこまでも明るいのである。

 最近はすっかりはまってしまって、会社のスタッフからは変態扱いされているが、この「前向き姿勢」(言葉)こそが不況脱出のカギであることを信じて疑わない。何せ、言葉は「言霊」なのである。

 局長に「他に管内で買った人はいないのか?」と尋ねてみたら、いたいた。古川青果(北安徳町)の江島栄太郎社長が、ゆりかごに入れて可愛がっている、という。

 江島社長と言えば、知る人ぞ知る〃太公望〃。一方、小谷局長も大の〃釣りキチ〃。「アソビ」が取り持つ「ネルル」の縁。近々、3人でそれぞれの愛娘を持ち寄って〃公園デビュー〃を果たそうかなどと考えている。

 「おもしろきこともなき世をおもしろく すみなすものは心なりけり」 ‐高杉晋作‐


2006/10/25

国語教育への疑問も - 古典の〃滋味〃なぜ教えない -

 今の教育要綱では分らないが、初めて「古典」に接したのは中三の頃だった。確か〃油断大敵〃がテーマの『高名の木登り』(徒然草、吉田兼好)だったような気がする。

 有名な序段を教わったのは、もちろん高校に入ってから。《つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ

 藤本さんは兼好が影響を受けた先達の文人を、時代が300年もさかのぼる清少納言や、西行、鴨長明などと分析。その心境については、250年後に『随想録』(エセー)を著したフランスの哲学者、モンテーニュに相通じるものがある、としている。

 藤本さんの父親は成功した大阪商人だったが、45歳の時に戦災に遭い、全財産を失った。それが原因でうつ病になり、さらに結核を患う。10年で快癒するが、晩年には癌に冒されていることが判る。

 手術後、その父が晩酌の席でしみじみと言った。「わしは、自分の人生をもう一度見直してみたい気になった」。その後、2年がかりで全国の鉄道を走破する。その間にも癌は進行し、肝臓に転移していた。

 《身を養ひて何事か待つ。期する處、たゞ老と死とにあり。その來る事速やかにして、念念の間に止まらず。これを待つ間、何の楽しみかあらん》=第74段。「この文に接して、父の心境が初めて分かった」と藤本さん。

 「友人」について語っているくだりも面白い。《同じ心ならん人と、しめやかに物語して、をかしきことも、世のはかなき事も、うらなくいひ慰まんこそうれしかるべきに。さるひとあるまじければ、露違はざらんと向かゐたらんは、ひとりあるこゝちやせん》=第12段。

 何と含蓄溢れる人間観察だろうか。「お互いに相手を傷付けないでいようという心配りが同じように働いてこそ、友情は成り立つものだ」との解説も光る。

 「麻」の話も見逃せない。「麻の中の蓬(よもぎ)」「麻につるる蓬」?などという兼好の時代(14世紀)の諺だが、もともとは『十訓抄』という説話に収められているもの。

 その心は「蓬は通常横にはびこるが、麻の中ではその余地を奪われ上へ伸びていくしかない」ということから転じて、「善人に交われば、その感化で特に高い教育を受けなくても善人になっていく」という例え。

 筆力不足で取りとめのない話になってしまったが、藤本さんは「古典には〃滋味〃、生きていく上での〃知恵〃がある」とした上で、受験技術しか教えようとしない我が国の国語教育の現状を皮肉っている。

 確かに我が身を振り返ってもそうだ。おっと、また上田先生に叱られるかな!?


2006/10/24

今を正しく忠実に!! - 大好き『小沢昭一的こころ』 -

 パーンパパ、パパパパ、パーンパーンパン…。

『小沢昭一の小沢昭一的こころ』(TBSラジオ)の大ファンである。はまって聴いているわけではないが、オープニングの音楽が流れると、ついつい顔がほころんでしまう。

 地元ではNBCラジオで午後4時25分から。最近はインターネットでも聴けるようになって嬉しい限りだ。話題はペーソスあり、社会風刺あり、笑いありで、 毎回毎回感心(時に感動)させられている。願わくは本欄も「清水真守的こころ」として定着できるよう成長していかねば!!

 ところで、もう一月も前になろうか、島原市議の上田泉さん(共産党)からお小言を頂戴した。「清水君ね、学生時代とか昔のことはもういいの。今を書きなさいよ、今を。もっと真面目にね。楽しみにしているんだから - 」。

 お説ごもっともだと思ったが、文章にはそれぞれスタイルがあるし、生き様も異なる。上田さんには失礼かもしれないが、今しばらくはこの〃軟弱路線〃で進ませていただくことをお許し願いたい。

 ということで、小沢昭一さんに戻る。初めてその謦咳(けいがい)に接したのは30年も前のこと。所は東京・一橋講堂。出っ歯が売りの作家の井上ひさしさんや永六輔さんらと現れて「ハーモニカが欲しかったんだよー」と調子はずれの唄を聴かされた。

 以来、何となく気になる存在で、時々エッセイ本を買ったりしている。数年前、山手線の中でお見かけした折はすっかりお年をめされていたが、紺色のバーバリーのダッフルコートと、黒のリュックのコディネートが素敵だった。

 まあ、こんなことはどうでも良いのだが、小沢さんと同世代の作家に関西在住の藤本義一さんがいる。学生時代から脚本の世界で井上ひさしさんと覇を競っていた才人で、年配の向きには「11PM」(よみうりテレビ)の司会者としても懐かしい存在だろう。

 その藤本さんが最近書き下ろした『徒然草が教える人生の意味』(大和書房)という本が実に面白い。「心の座標軸を見つける18章」というサブタイトルがついており、藤本さんは片時も離さず、頁をめくっては、自らの人生と重ね合わせている、という。

 中身については稿を改めて紹介したいと思うが、「古典を読み原点に還る」という姿勢は、流行や現象面ばかりに思考を弄ばれる現代人へ向けられた大いなる〃警鐘〃でもある。

 《日月というものは、過ぎ去った日のこととか、これから迎える日のことばかり考える必要はない。現在、与えられた時間に対して自分が正しく忠実に生きているかを自己に問う時こそが肝要なのだ》

 上田さんからのご叱責と併せ、深く考えさせられる言葉だ。


2006/10/20

熊谷さんが日展審査員 - ユニクロ発展の陰に長尾さん -

 芸術の秋である。島原市ともなじみの深いパリ在住の画家、長尾陶太さんが渋谷の東急文化村で個展を開いたのに続いて、島原市出身の熊谷有展さんが来月2日から始まる第38回日展(上野・東京都美術館)に出品する。

 熊谷さんからの案内状によれば、一番若い審査員(40歳)とのこと。「審査員として何ができるかというプレッシャーの中で制作しました。例年通りなら、第 一室に展示されるかと思います」と期待と不安の入り混じった心境を述べている。同展は24日まで。初日が正午開会。最終日が午後三時閉会。通常は9時~17時。20日は休館。

 ところで、長尾さんと言えば、在仏40年の大ベテランだが、意外な所でそのご尊名に巡り合った。本の中での話だ。

 何年か前、宅島建設専務の宅島壽晴さん一家とともに久留米方面に出かけた折、たまたま買い求めたのが、ユニクロ創業者の柳井正さんが著した『一勝九敗』(新潮社)だった。

 サブタイトルは「ユニクロも失敗ばかりだった?」。山口県の片田舎の洋服屋」の跡継ぎが、いかにして起業を図り、発展させていったか。〃実戦〃に基づいているだけに、なかなかに含蓄のある内容だ。

   ※    ※

 《ぼくの父は、ある画家と親交が深かった。今から四十年以上前、その人が日本で描いた絵を何枚も買った。彼は一晩で絵の代金をすべて飲み代につかってしまい、また父に金を借りに来たという》

 《彼はその後、すぐフランスに渡って絵を描き続ける。二十年後に、父が生涯に一度だけ海外に行ったことがあり、そのときパリの日本食レストランで食事をしていた。たまたまそこにその画家が来たのだ》

 《「柳内さんじゃないですか!」と、お互いに驚くやら何やら、驚くべき偶然だ。父は、彼のアトリエに誘われ、そのときも絵を買って帰った。画家の名前を長尾陶太さんという》

   ※    ※

 実は、長尾さんはこの後、同社に大きな貢献をすることになる。世界的にも有名な服飾デザイナー、三宅一生さんの事務所(国際部門)で働いていた多田裕さんを柳内社長に引き合わせるのである。

 多田さんはデザイン研究室長としてアテネ五輪の公式ユニフォームを作るなど大活躍するわけだが、出会いの妙味について、柳井社長は「デザインを強化しなければいけない時期だったので、渡りに船の幸運というべきか、不思議なご縁だ」と述懐している。

 あくなき美を追求する「芸術」と、効率主義が大原則の「企業経営」。一見、何の脈絡もないかのようだが、この一件に象徴されるように、世の中は実に〃不思議なご縁〃でつながっている。そうだと思いませんか、皆さん?


2006/10/19

嗚呼あれから20年… - シャンプーボーイが写真集 -

 16日、縁類の美容室「シャンプーボーイ」(佐世保市、山口浩社長)の20周年記念写真集の創刊パーティに招かれた。本のタイトルは「a piece of life」。「人生の一断面」とでも訳すのだろうか。それにしても粋な仕上がりだ。感心した。

 パーティはハウステンボス内のホテルに300人近くが集まって盛大に開催された。ジャズシンガーのマリーンもお祝いに駆け付けた。美容関係者がほとんどだったが、社長の岳父に当たる中村春光さん(牛右衛門グループ会長、元県信連会長)の挨拶に耳を澄ませた。

 「孟子曰く - 創業は易し、守り成り難し」。佐世保を本拠地に九州各県に15店舗を構えるまでに事業を成長させた女婿に対し「初心を忘れずに精進せよ」とのエールだろう。

 「シャンプーボーイ」とは美容師見習いの業界用語らしいが、山口社長のスタートは米ロサンゼルス。チップのみの収入しか望めなかった状況から、今日を築き上げたわけだから、まさにアメリカンドリームだ。

 ところが、この御仁、まったくもって〃苦労人〃のかけらも感じさせてくれない。少し寂しくなった長髪を束ね、ひげ面をクシャクシャにして笑う。これぞ〃不良中年の鏡〃だ。

 夫人の美帆さんは「斗酒猶辞さず」の大酒豪らしいが、ゴルフの腕前は夫ともどもシングル・プレーヤー。翌日のコンペも79で回っていた。

  そうだ、「20周年」ということで思い出した。筆者も来月23日で結婚20周年だ。式は海望荘で挙げた。仲人は元小浜町長の草野壬二郎さん。親戚、友人に 加えて多くの来賓にご臨席を賜わった。倉成正さん(当時外相)こそ代理出席だったが、西岡武夫、久間章生両代議士には身に余るご祝辞をいただいた。

 鐘ヶ江管一市長(当時)は、ご自身が経営されていた国光屋での結婚式(仲人役)を抜け出て来られた。田代則春弁護士も飛び入り参加して下さった。

 当時のビデオを見てみると、皆さん実にお若い。筆者だってこんなに醜く肥っていなかった。山本富治さん、白倉代二さん…鬼籍に入られた方も多い。

 あれから20年。月日は瞬く間に流れ、この前測ってみたら、腹回りは優に1mを超えていた。友人代表で額に絆創膏を貼ってスピーチをしてくれた奥村慎太郎さんは今や雲仙市長。山口さんは一大チェーン店のオーナーとなった。

 しかるにこの俺は!?パーティの二次会場でフラメンコを観た。20年前、スペインに新婚旅行に出かけたが、ノミの市で旅券を掏られ、踊り見物どころではなかった。

 11月23日は「勤労感謝の日」。英語で言うところの「サンクス・ギビング・デイ」。今度は普段の罪滅ぼしに母ちゃんと来なければ、と反省した。


2006/10/15

「言葉の力」は大きい - 教育とは心に火を燈すこと -

 人間学を学ぶ月刊誌『致知』を定期購読している。11月号の編集テーマは「言葉の力」。本欄を書き始めたきっかけが「言葉のチカラ」を掲げた朝日新聞の「ジャーナリスト宣言」だったから、何かしら因縁めいたものを感じる。

 特集では、三本の対談記事が組まれており、その一つに我らが国見高サッカー部総監督の小嶺忠敏さん(昭和20年生まれ、島商→大阪商科大卒)が登場している。

 対談の相手は、秋田県立能代工業高校バスケットボール部を率いて前人未到の計33回の全国制覇を果たした名将、加藤廣志さん。昭和12年生まれで、現在はスポーツセンターの館長職。能代工→日体大卒。

 小嶺さんが「麦は踏まれて強くなる。人間も踏まれて強くなる」と持論を展開すれば、加藤さんは「諦めに変わる前に、いまここで勝負だ!!」と苦闘の時代を振り返る。

  小嶺さんの「麦踏み哲学」は母親から教わった、という。ある時、麦踏みの行為自体を不思議に思った忠敏少年に母はこう諭した。「踏まれた麦は上を向いてス クスク育っていくが、踏まれていない麦は、冬に霜や雨が降るとしおれてしまって、作物にならない。人間も同じだ」と。

 また、台風後に大木が何本も倒れているのに竹やぶが被害を受けていない状況を指して「竹には所々に節がある。だから強い。人間も遊ぶ時は遊んでもいいが、きちっとケジメをつけねばだめだ」とも。
 一方、加藤さんの父親は大学進学に際し 1.酒・煙草は自分が稼ぐようになってから 2.ギャンブルには手は出すな 3.アルバイト禁止 - という三つの条件を付した、という。

 小嶺さんは「母の教えが私の人生の根幹となった」と語り、加藤さんは「『アルバイトをするくらいなら、自分の好きなバスケットを徹底してやってこい。塩を舐めてでも仕送りをしてやるから』との父の言葉が私の人生の支えとなった」と振り返っている。

 興味深かったのは、小嶺さんが優勝回数について言及している場面。それによると、全国に4200の高校がある中で、ここ30年間の全国大会のうち3回以上の優勝経験者は10人くらいしかいいない。ちなみに小嶺さんは17回。

 「常勝」の難しさを象徴する数字であるが、小嶺さんは言う。「3回以上優勝している者と、それ以外とで技術や戦術面での違いはさほどない。ポイントは躾(しつけ)教育とか人間教育がしっかりできているかどうかだ」。

 最後の要諦は「言葉一つで人間は喜び、傷つく。だから難しい。心に火を燈すような言葉を投げ掛けることが指導者として求められている」と。

 「指導者」を「親」や「経営者」に置き換えても十分に通じる文脈だ。


2006/10/11

西川清人さん七回忌 - 〃A級戦犯〃として合祀!? -

 有明町在住の写真家、西川清人さんの七回忌が9日、菩提寺の勝光寺でしめやかに営まれた。母、清子さんの二十五回忌と合わせて行われたもので、故人にゆかりの深い約50人が参列した。

 西川さんが亡くなったのは21世紀を間近に控えた2000年10月21日未明。普賢岳噴火10周年記念の全国巡回展に出品する作品の選別を終えた直後に、こつ然と黄泉の国へと旅立った。享年49歳。

 あれから丸6年。命日となった「10・21」は母校の創立記念日であり、長男の誕生日でもある。いずれにしても筆者にとっては忘じ難い「日」である。

 西川さんがみまかって間もなく、オフィス21代表の堀強さんと連れ立って新町の「セブンストーン」へ、精進落としに出かけた。

 と、熱烈な〃清人ファン〃の一人であった〃岩国のバアちゃん〃が二人の酔態を見ながら感にたえない口調で「わっどんが先、逝けばよかったとに…」とポツリ。《そらーないでしょ、バアちゃん。順番から行けばアタンが先とん》。

 亡くなる数年前、福岡のフジフォトサロンで作品展を開いた折のパーティーの席上で、西川さんが挨拶に立った。「こうして手伝ってくれている君たちは、僕のために生きている。ありがとう」。

 酔ったうえでの〃軽口〃ではあったが、何かしら〃違和感〃を覚えたのも事実だ。その時、西川さんは何を伝えたかったのだろうか。今にして思うに、西川さんは僕達のために死んで行ったのかも知れない。

 グレートダイニング城見で行われた「偲ぶ会」の冒頭、献杯の音頭を取るよう奥様の成子さんから依頼を受けた。何を喋ろうか。溢れるほどの思い出も、極秘のエピソードも沢山あるが、つい「西川さんは〃A級戦犯〃である」と切り出してしまった。

  靖国問題で世論がかまびすしいのを逆手に取っての挨拶だったが、話しているうちに「西川さんは、それぞれの心を侵略するだけ侵略し尽くして、ある日突然に 姿をくらました仙人のような人だった。皆さんの胸の内に〃永久仙伴〃としてしっかり〃合祀〃してください」と何とかこじつけて大役を終えた。

 「あれから40年 - 。冷めた女房に、冷めたご飯。今、家庭の中で暖かいのは便座だけ」と綾小路きみまろは笑わせてくれるが、西川清人逝きて6年。5年半にわたる小泉政権下で世間も大きく様変わりした。

 生前、西川さんは「北朝鮮の拉致問題」の存在をすでに知っていた。幻の焼酎「森伊蔵」を好きなだけ取り寄せる特別なルートも持っていた。

 今頃は、娑婆であたふたと生き急いでいる我々の哀れな姿を、彼岸の淵から眺めながら、例の〃歯っ欠け顔〃で恐らく笑っていることだろう。合掌。


2006/10/07

母の和製英語に〃脱帽〃 - 「おはぎ」を英語で表現すると -

 「極右と極左の思想は紙一重」などと言われるが、「新しいモノと古いモノ」の間にも相当近いものがあるような気がする。

 我が家の母は昭和6年生まれの典型的な戦中派で、女学校時代は通学の途中で敵国アメリカの「星条旗」を踏み付けることを日課としていた、という。

 であるから、当然の帰結として「英語は苦手」である。ところが時々、何ともユーモラスな〃和製英語〃を披露してくれる。

 5日付の行事欄を見ると、有明町で「第1回島原市農業感謝祭」、諏訪の池ビジターセンターで「名月鑑賞会」といった日程が組まれているが、要は「月見の宴」である。

 さて「月見」と言えば、ススキに団子といったところが定番だが、この季節、お彼岸の「おはぎ」も捨て難い存在だ。その「おはぎ」を我が母は「ナカメシ・グルリアン」と英訳される。初めて聞いた時は、可笑しさの余り吹き出してしまったが、まさに〃言い得て妙〃である。

 母の手にかかると、ジャック&ベッティもトム&スージーも恐らく顔色を失くすだろう。靴は「ハクト・へール」、饅頭は「オスト・アンデル」。さらに「兄やんなボーイ、姉しゃんなガール」などと続く。

 そのせいかどうか知らないが、金子助役のことを「キンコスケヤク」と読む三男坊は、学校英語の成績はさておくとして、祖母仕込みの〃島原スラング〃は大得意のようである。

 でも、よくよく考えてみると、「おはぎ」を英訳しようとしても、関係代名詞等を駆使して説明するしかないのだから、「SABO」(砂防)や「KOBAN」(交番)のように、「ナカメシ・グルリアン」を〃世界共通語〃として売り出した方がより合理的なのでは?

 ところで、プロゴルファーの宮里藍(沖縄出身)がこのところ好調だ。米国ツアーから帰国後はたちまち二連勝。先週の日本女子オープンでも堂々三位に入賞した。

 筆者もテレビで観戦していたが、最終組で一緒に回った韓国の張晶に敗れた後も、少しも悪びれることなく「コングラチュレーション」と言って、勝利を称える姿は清々しかった。

 実は、宮里らの活躍の陰には地域挙げての支援体制がある、という。沖縄と言えば、小渕恵三元首相が学生時代から通いつめた場所で、早大校友会沖縄県支部長を務めている弁護士の小堀啓介さんらが奔走しているおかげである。

 小堀さんによれば、中国(特に上海)は大変にゴルフ熱が盛んで、沖縄を手本に練習に励んでいる、という。「プレーだけではない。試合後のコメントも素晴らしいでしょう。彼(女)らはまさに地域の総合力の賜物なのです」。

 時に、我が三男坊の島原スラングの訛りはいつ取れるのだろうか。こちらは家庭の総合力か!?


2006/10/06

現代へのアンチテーゼ - 恬淡、颯爽とした「風の男」 -

 「葬式無用、戒名不用」。白洲次郎がのこした、たった二行の遺言らしき書付だという。(新潮文庫『プリンシプルのない日本』のあとがきの中で、詩人の辻井喬が述べている)。

 戦後、吉田茂らとともにGHQとわたりあって新憲法を制定し、サンフランシスコ講和条約を取りまとめた白洲次郎は、1902年、兵庫県芦屋の素封家に生まれた。

 旧制の神戸一中から英国ケンブリッジに留学。時に17歳。180センチを超える長身と日本人離れした甘いマスクで、彼の地でも気後れすることなく、ベントレーやブガッティーを乗り回すなど、絵に描いたような貴族スタイルの青春を謳歌する。

 が、その生活も長くは続かず、実家の倒産(1928年)に伴い、帰国。翌年、樺山伯爵家の次女、正子と結婚。英字新聞社や英国資本の商社勤務を経て、一時期「日本水産」の取締役を務めていたというから、今の金子原二郎長崎県知事の先輩でもある。

 筆者が白洲次郎に興味をもったきっかけは、皮肉にも「村上ファンド事件」からだった。何が〃皮肉〃なのか?それは、同ファンドの代表者である村上世彰が、白洲が創設した通商産業省(今の経済産業省)の出身者だったからだ。しかも、同じ関西人。

 人間は「見た目で判断すべきでない」という教えもあるが、どう見てもこの二人は〃対極〃だ。白洲が恬淡、颯爽とした「風の男」であるのに対し、村上は眼だけがギラギラとした「拝金主義者」。もっとも比べること自体が無意味ではあるが…。

 白洲はお坊ちゃま育ちではあったが、一本、筋の通った「男」であった。だからこそ、24歳も年上の大宰相の〃懐刀〃として、戦後日本発展の礎を築くことができたのである。

 最近ではNHKがドキュメンタリー番組を制作したり、次々と「白洲本」が刊行されるなど、ちょっとした〃ブーム〃の感もするが、効率一辺倒主義の現代の風潮に対するアンチテーゼなのは間違いない。

 講談社版、北康利著『白洲次郎 占領を背負った男』を読むと、その人となりが良くうかかがえる。誰が相手でも物怖じせず、堂々と持論を展開した。

 憲法制定に当たってはGHQ当局と激しく対峙。東北電力会長時代には斯界の第一人者、松永安左衛門(壱岐出身、「電力の鬼」として畏れられた)と丁々発止の駆け引き勝負。

 一方で、学生運動にも一定の理解を示し、田舎に「庵」を構え畑仕事にも汗を流した。こうしたエピソードを知るにつけ「〃大〃胆な〃和〃解で大和魂を!!」などと、下手なダジャレで郵政造反議員の復党を呼びかける前自民党幹事長の姿が、益々カッコ悪く見えてしまうのである。